踏み入れた部屋は、だだっ広いドーム状になっていた。魔物の気配もなければ、ゼルダの姿も見当たらない。
 代わりにそこに居たのは、部屋の奥にある硬く閉ざされた石の扉を前に佇んでいる男だった。
 男は何かを考え込むように立ち尽くしていたが、リンクの気配に気付いたのか三つ又の赤いマントを翻しながら振り返った。
「ん? 君はあの時の……」
 青ざめるを通り越した浅黒い肌にぎょろりとした黒い眼。それを縁取る紫色の刺青。リンクはその男の異様な出で立ちと雰囲気に息を呑むが、男が続けて紡いだ言葉には鋭い眼光をぎらつかせた。
「ワタシの竜巻に弾かれながら無事な上、こんなところまで来るとはね」
「あの黒い竜巻はお前の仕業か」
 スカイロフトでは竜巻に遭遇することは決して珍しいものではなく、高度な飛行技術を持つリンクとゼルダならあっさりとかわすことの出来るものだった。しかしあの時リンクとゼルダを引き裂いた竜巻は明らかに異常なもので、ゼルダは成す術もなくそれに巻き込まれてしまった。伸ばした手が届かなかった瞬間の無力感は、今でもはっきりと思い出せる。そしてゼルダの悲痛な叫びも耳に残って離れないままだ。
 全てはこの男のせいかといきり立つリンクを、男は鼻で笑うと、再び扉へと向き直る。
「しかしまあ、どうでもいいんだよ、君なんぞは。用があるのはこの扉の奥から強い気配を感じさせている少女……我々が雲の上からこの地へ引き込んだ聖なる巫女……」
「ゼルダを狙う理由は何だ? お前は何者なんだ」
「ああ、自己紹介がまだだったね。失礼した。ワタシは君たちが大地と呼ぶこの世界の現魔族長、ギラヒム。気さくにギラヒム様と呼んでくれて構わないよ」
 魔族が一体どういう存在を指すのかは分からないが、この場合重要なのはこの男――ギラヒムがゼルダの存在を禄でもないことに利用しようとしているという事実だ。
 ひとつ間違えれば命すら奪いかねなかったあの竜巻のことといい、この男に大切な幼馴染を渡せば彼女の身の安全に保障はない。扉の先にゼルダがいるというのならば、行かせるわけにはいかなかった。
 人間――に似た存在――を相手に剣を振るうことに対する躊躇いよりも、大切な人を守りたいという想いが、リンクに剣を引き抜かせた。
 背後の金属がこすれる音にリンクが剣を抜いたことが分かったのだろう。ギラヒムは芝居がかった動作でゆっくりと振り返ると、口端を釣り上げて嘲笑した。
「……ほう? ワタシの邪魔をすると? 君ごときが、この美しいワタシの行く手を阻むと? 本来ならばあの少女は既に我らの手中にあったはずなんだよ?」
 そう言うと、ギラヒムの余裕を絵に描いたような表情が、忌々しげに崩れていく。噴出しそうな強い衝動を抑えるように己の身体を両腕で抱き込む姿に、リンクは無言で一歩だけ後ずさった。
「だがもう少しのところで忌々しい女神の老兵に掠め取られてしまった……そのせいでね……ワタシは今……猛烈に! 強烈に! 激烈に気分が悪い!!」
 苛立ちに手をわななかせ、咽喉を掻き毟るように憤りの衝動を全身で示しながら叫ぶと、次の瞬間、ギラヒムの姿がリンクの視界から、文字通り『消えた』。
 移動のための初動の動作などなく、何の前触れもない消失だった。
「なっ……!」
 驚きに目を見開いて、リンクは周囲に視線を巡らせた。
「誰にでもいいから! 八つ当たりをしたくてたまらない!!」
 見晴らしのいいこの部屋で、身を隠せる場所など存在しない。だというのに、姿は見当たらず、声だけがどこからともなく聞こえてくる。
 リンクが立っている場所は部屋の中心だった。姿の見えない相手に対して、この状況は無防備に等しい。
 壁を背にしようと、リンクは警戒しながら後ろへと下がろうとしたが、それはかなわなかった。
「まあ……とは言え、君のような子供にムキになるのも魔族長としてどうかと思うからね……」
 後ろを取られたのに全く気配を感じられなかった。
 しかしそれに驚くよりも唐突に背後から耳元に息を吹きかけられて、背筋にぞっと悪寒が走った。全身が粟立ち、恐怖感ではなく生理的な嫌悪感に身体が硬直する。
「全治百年で許しておいてあげる。それ以下にはまからないよ」
「……っ!!」
 しゅっと蛇のように長い舌が頬に向かって伸びてきて、声にならない悲鳴が上がった。
 身体が動かなくなるほど何かを気持ち悪いと感じたのは生まれて初めてだった。
 ねっとりとした舌がリンクの頬を舐め上げようとするが、まるで何かに縛められているように身体が動かない。
 そんな硬直を解除したのは、手元から飛んできた鋭い一声だった。
「リンク!」
 その声に後押しされるようにリンクは反射的に剣で背後を薙ぎ払ったが、ギラヒムはそれに掠りもせずにひらりとその場から飛び退いた。
「はぁ、はぁ……」
 剣を薙ぐというたった一動作に、ぐったりとリンクは息を切らしていた。一連のやり取りはリンクの精神をそれだけすり減らしたのだ。
 肩で息をしながらも間合いを取ったギラヒムを正面から睨みつけるリンクに、ギラヒムはさもおかしそうに愉悦を含んだ眼差しを向け、そしてリンクの構える剣を見やった。
「中々いい剣を持っているじゃないか。ただ、その中にいるものは、気に喰わないがね」
 ギラヒムはリンクの硬直を解いた声の出所を把握していた。言葉通り剣の中身――フィアの存在が気に入らないのか、剣に向けられる視線には棘がある。
「僕は、お前の方が、よっぽど気に喰わない」
 息を整えながら、リンクは吐き捨てるように言った。
 むしろ気に喰わないどころか気持ち悪い。生理的な嫌悪がどういうものなのかをリンクはここに来て知ってしまった。正直知らないままでいたかった。
「つれないことを言うじゃないか。まあワタシも、君に好かれようとは微塵も思っていないがね」
 ギラヒムは軽く肩を竦めるが、直ぐに思わせぶりにニタリと笑ってみせると、パチリと指を鳴らした。すると何もないはずの空中から剣が現れ、右手で握り取る、
 先ほどの瞬間移動のこともあり、リンクはもういちいち驚きはしなかったが、油断なくギラヒムを見据えた。
「さて、少し遊んであげよう」
 強者の余裕とでも言うべきか。
 どこまでも人を見下す一声で、戦端は開かれた。


  

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