パシッ。



乾いた音が響いた。

数秒の間を置いて、じわじわと頬が熱を発する。



「相変わらず、君は泣かないね。」



私の頬を叩いた本人は、気に入らないとでも言うかのように、その端整な顔を歪めていた。
泣くという行為には、相手に悲しいと主張する意味合いがあるのだと、昔なにかで習った。



「慣れましたら。」



抑揚の無い声でそう告げれば、彼は更に不快感を露にした。
髪を掴まれ、勢いよく床に叩きつけられる。少しでも衝撃を緩和しようと受身をとったが、やはり鈍い痛みが全身を襲った。

私が床から起き上がる間もなく、彼は私に膝立ちではばかって肩を掴み、自分の方を向かせた。



「はっ、相変わらず…酷い顔。」



傷だらけだよ?と。
彼、ミストレーネ・カルスは嘲笑を浮かべた。



「貴方がつけた傷でしょう。」



私がそう指摘すれば、ミストレーネの口元からは、白い歯が覗いた。



「うん。」



アメジストの瞳が細められ、唇が触れ合った。

口元からこぼれる吐息は、私のものなんかじゃない。
口内を犯す舌の動きに応えることも、瞳を閉じることさえせずに、私は珍しく至近距離に見える白磁の肌を見つめていた。
それを目の当たりしても、羨望も恍惚も、何も感じない。
あるのは酷い脱力感だけ。
多分、背を床に着けているせいだ。
両手足の自由はきく。けれども彼を拒もうとはしない。いや、出来ない。



「ねぇ、」



唇が離れ、唾液の糸がぷつりと切れる。



「何見てたの?」

「貴方ですよ。目の前にいるのだから。」

「嘘。」



嘘じゃないと否定しても、彼はそれを信じなかった。



「ぅ、」



私の口から、呻き声が漏れる。ミストレーネが私の腹を殴ったからだ。



「ああ、その目だよ。」



私の目元が一瞬ながらに歪んだのを見て、ミストレーネはうっとりとした表情を見せた。
感情の揺るぎを見せない私が唯一、純粋なる憎悪を表に出す瞬間。それが肉体的攻撃を加えられた時だった。
嫌悪と屈辱感を伴う相手なら尚更。



「ぐ、ぁ、」

「ははっ!」



更なる痛みが腹部を襲う。
睨んだり、抵抗したりても、余計この男を喜ばせるだけ。それを分かっているから、私はただ"受ける"だけ。



「っ、……フェミニストが聞いて呆れますね。」

「壊すのは君限定だよ。」



どちらにしろ、私は立場上彼より下なのだ。元より逆らえる筈が無い。

白い手袋に包まれた指が、私の喉をなぞる。



「ねえ、君を殺したら、君はオレを呪う?」



実際殺したりなんかしないくせに。



「今私を殺したら、こちらにとって不利な状況になるのでは?」

「現実的だなぁ。」



笑いながら、私の軍服の袖を捲った。

青や赤、異なる時間に浮かんだ数々の痣が有る腕。

指先からするすると痣をなぞるミストレーネの手は所々強弱がつけられて、鋭い痛みが腕を走った。

それに耐えようと歯を食い縛る私を見て、奴はまた笑った。



「やめてって、言わないの?」

「言っても無駄でしょう。」

「痛くないの?」

「痛いですよ。人間ですから。」



分かってるくせに。



「人間?…はは、何言ってるの?」



二の腕に、これまでとは異なる痛みが走った。



「なまえ、君はただの"物"だよ。」



分かる?


痣だらけの二の腕にくっきりと刻まれた歯形を舌で舐めながら、ミストレーネは私の頭を撫でた。

軍にとっては利用価値のある道具。奴にとっては単なる愛玩具。露になった腕をそのままに、今度はベルトを外し、先程殴った腹部を晒される。ひんやりとした空気に触れ、一瞬心臓が奮えた。



「"愛してる"と言ったら?」

「それこそ"嘘"ですね。」



今まで一体、何人の女が彼のその言葉に酔っただろうか。
太ももにかかったその手を、踏み潰してやりたいと思った。


ひたり。


手袋を外した指先が、下腹部のとある一点で止まる。



「オレの子を孕んだら…君はその子を殺すんだろうね。」

「それ以前に、私の胎(ハラ)は貴方に殴られて使い物になりませんから。」



するとミストレーネはその口元と瞳の形をゆっくりと変え、美しく微笑んだ。



「そんなはずないさ、ちゃんと加減はしてるんだからね。」



……ああ、言われて初めて気付いた。

確かに、手のひらに圧迫されるそこには、まったく痛みを感じない。


随分久々に、私は恐怖というものを感じた気がする。



「……そうですね。ならば、産声を上げる間もなく堕ろすまでですよ。」



命の重さは、身に染みて分かってる。けれどそんなおぞましいこと、どうしても耐えられない。

……生きる理由として思い出すのは、私がかつて愛した男の笑顔。この腹を割かないのも、彼のためだ。


なのに……。



「だとしたら、」



耳元で囁かれる言葉は、私を縛る鎖であり、檻。



「また新しい"種"を植えるまでだよ。」



ああ、本当に…

…死ねばいいのに。



「ミストレーネ様、そろそろ"放して"頂けませんか?」

「ああ、もうそんな時間?」



こういう時ばかり優しく、丁寧に捲った服を整えるその指を、切り落としてやりたい。







早く、飽きろ

嫌だよ、一生放さない。





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