「嘘…。」
手の内にある妊娠検査薬の陽性反応に、私は目の前が真っ暗になった。
検査薬が間違ってるとも思えないし、妊娠をした理由も思い当たる節がある。
…決して、命を授かったことに対して絶望しているわけではない。
私の不安は、もっと別のところにあった。
「っ!?」
突如として鳴り響いた携帯の着信音に、私の意識は現実へと引き戻された。
今から帰るね?
同棲中の彼氏から。
短い文章を確認して、私はどんな顔をして彼に会えばいいのだろうと下唇を噛んだ。
*
「ただいまぁ。」
少し弾んだ声が聞こえた。
「お、お帰りなさい…。」
少しぎこちない様子の私を見て、彼、ミストレーネ・カルスは首をかしげた。
「なまえ、どうかしたの?」
「別に…あ、ご飯できてるよ、冷めないうちに食べよっか!」
私は誤魔化すように笑顔を浮かべた。
私がキッチンへ向かうと、ミストレは上着を脱いでテーブルについていた。
「あのさ、明日からまたちょっと空けるね?早朝には出るから。」
また、か。
「そう、なんだ…。気を付けてね?」
それにしても明日だなんて、あんまりだ。
だって明日は、私の誕生日なのに……ミストレは軍人だもん、仕方ないか。
私が妊娠を切り出せない要素のひとつはそれだった。
私は、ひょっとしたら彼の重荷になってしまうかもしれないという不安が、どうしても拭いきれない。
もうひとつは、彼という人間そのもの。
綺麗に整った顔、それに似合う要素を兼ね備えた中身。女性に人気があるのは学生時代から相変わらずのことで、独占欲なんて抱くだけ無駄。
浮気はしてないらしいけど、私が気付いていないだけなのかもしれない。
「…なまえ?」
「え、ぁっ!?」
ガシャン!!
うっかり手を滑らせて、お皿を落としてしまった。
床に当たって砕けた皿の無惨さは、まるで今の自分の姿のようで悲しく思えた。
「ごめんなさい、ぼーっとしてた。」
欠片を拾おうとすれば、ミストレに制された。
「いいよ、オレがやる。」
なんだろう、ミストレの言葉のひとつひとつが痛い。
テレビの音を背景に、私はそう思った。
「…あの、ミストレ…。」
「何?」
「…ううん、なんでもない、や。」
紫の瞳に映った私と目が合った。
駄目、やっぱり言えない。
第一結婚だってしてないのに、いきなり妊娠しただなんて知れたら、捨てられるかも分からない。
気付けばミストレが割れた皿を片付け終わったところで、私はなんだか居心地が悪く感じられた。
「…ごめん、ちょっと外の空気吸って来るね。」
そう言って足を動かした私を、ミストレが後ろから引き止めるように抱き締めた。
「なまえ、やっぱり何かあった?」
「何もないよ、ちょっと風邪ひいたのかもね。」
「嘘。ねえ、どうしたの?オレにも言えないこと?」
「…うん。言えないよ…。」
耳元で優しく囁くなんてずるい、そんな心配そうな態度とらないでほしい。私は弱いから、すぐに泣いてしまうから。
「…どうして言えないの?」
零れた涙が頬を滑った。
「っ、ミストレが、好きだから…。」
「…おいで、なまえ。」
ミストレはそう言って私の手を引くと、ゆっくりとソファーに座らせた。
そうして自分も隣に座ると、優しく私を抱き寄せた。
布ごしに伝わる温かな体温に、私の嗚咽は止まっていった。
ああ、もう…隠し通すことなんて出来ない。
「私ね…妊娠してるみたいなの。」
「え?」
ミストレの体が強張ったのが分かった。
再び芽を出した絶望の影に、私は俯いた。
「…ごめん、なまえ。」
謝罪の言葉は、案外すんなりと受け入れられた。強くなる腕の力に、次の言葉が怖くなる。
「だ、大丈夫…や、やっぱり駄目だよね!病院には、私一人で行け…」
「なまえ!!」
突然大きな声で名前を呼ばれたものだから、肩がびくりと跳ねた。
両肩を捕まれ、真っ直ぐな瞳に射ぬかれる。
「なまえ、結婚しよう。」
「え?…」
耳を、疑った。
でも、それは…。
「私に…赤ちゃんできちゃったから?そんな無理に責任とるようなこと、しなくていいよ…。」
「違う!!」
私の言葉に、彼はまた声を荒げた。
「責任だなんて…ごめんねなまえ、もっと早く言うべきだったんだ。」
「それって…。」
じゃあミストレは、私のこと…。
「でもオレの職業柄、キミに悲しい思いをさせてしまうかもしれない、傷付けてしまうかもしれないって…。本当はオレじゃない誰かと一緒になった方が、なまえにとっては幸せなのかなとか考えてたんだ。そのくせ、君と離れることが怖くて、なまえが誰かの物になるなんて、絶対に嫌で…。」
「ミス、トレ…。」
さっきとは違う意味の涙が溢れ出す。絞められていた心臓が、温かな掌に包まれていく。
「だから、ずっと迷ってた。でも、もう決めたんだ。子供が出来たからとか、そんなんじゃない。オレ達の子なんだ…堕ろすなんて、言わないでほしい。」
再び私を抱き締める腕。壊れ物を扱うかのように、優しく。
「…ありがとう、ミストレっ。」
泣きじゃくる私の頭を撫でる彼の手は、大きくて、温かかった。
*
「あの、改めて聞くけど…。」
お風呂上がり、ミストレが少し気まずそうに口を開いた。
「本当に、"オレ"の子供だよね?」
「え、なんで?」
どうして今更そんなこと聞くんだろう。
「その…浮気とか、してない?」
「え、するわけないじゃん。」
「…ならいいけど。」
むしろ私はミストレの方が…。
「でも、これからは安心できるね。」
「?」
「子供がいれば、なまえが浮気する心配がないから。」
そう笑って私に擦り寄る彼の口付けを、私はまた嬉し涙が出てしまいそうになりながら味わった。
*
目が覚めると、ミストレの姿が無かった。
そういえば早く出るって言ってたもんな…。
そう思い出しながら、私はふと左手に違和感を感じた。
目で確認すれば、その薬指には綺麗な指輪が輝いていた。
「嘘…。」
枕元に一枚のカード。
手に取って読めば、そこには綺麗な手書きの文字が並んでいた。
"誕生日おめでとう。一緒にいられなくてごめんね?ケーキは帰ったら食べよう。机の上にプレゼントがあるから、開けてみて。"
「婚約指輪とは別に、か。」
カードの指示に従ってテーブルの上を見れば、そこには可愛らしくラッピングされたプレゼントがあった。
勿論それも嬉しいんだけど、プレゼントの横に置かれた紙に、私は目を奪われた。
婚姻届。
すでに記入されたそれを手に取り、私は左薬指の輝きを噛み締めた。
貴女の永遠を、僕にください。
答えなんてきかずとも。
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