*
「なまえ。」
「?」
エスカバに声をかけられたのは、その日の夜だった。
「何、怖い顔。何か機嫌悪くなるようなことでもあった?」
鼻で嗤ようにそう言えば、エスカバはオレを睨んだ。
「とぼけんなよ。お前、あいつに何したんだ。」
「あいつ?」
オレが眉をひそめれば、エスカバは一人の女の子の名前を出した。
「…ああ、もしかしてあの子?」
昨日教室で会った子の特徴を言えば、無言の肯定が返って来た。
「彼女がどうかしたの?」
「…テメーが泣かしたんだろうが。」
「……。」
多分、彼女はエスカバの幼なじみか何かだったのだろう。そしてそれ以上に、エスカバにとって、彼女は大切な存在とか、大方そんな感じかな。
「…まあ、何もしてないと言ったら嘘になるけど。」
「テメー!!」
適当に答えれば、エスカバは殴りかかる勢いで掴み掛かってきた。
「ちょっと、何むきになってんのさ。大体、泣いたくらいでなんなの?君は彼女の保護者か何かなのかい?」
エスカバを睨み返せば、彼は乱暴にオレを離した。
「……。」
一点の濁りも無い、真っ直ぐな目。
本当に、あの子が大切なんだ…。
「……悪かったよ。」
「え、」
オレが謝れば、エスカバは少し驚いた様子だった。
「なぁにその反応?」
少し不機嫌な態度でそう言えば、エスカバは一瞬はっと目を大きく開き、オレから視線をそらした。
「反省はしてるよ、謝罪の念も一応ある。でも、彼女はもうオレとは二度と口をききたくないみたいだったから、エスカバから伝えといてくれる?」
「…自分で行けよ。」
「は?…君オレの話聞いてた?」
「うるせぇ!!テメーで行けつってんだろ!!」
唖然とするオレを残し、エスカバは早足でその場を立ち去ってしまった。
「……。」
確かに、謝罪は当人自らがするべきだ。
でも女の子からしてみれば、無理矢理襲おうとした男の顔なんてあまり見たくないと思うんだけどな…エスカバ、全然分かってないよ。
*
「ごめん。」
翌朝、オレは親衛隊の女の子そっちのけで彼女に謝った。頭を下げるオレに、彼女は酷く驚き、テンパっているようだった。
「な、なな何よいきなり!?」
「言わなくても分かるでしょ?謝罪に来たんだ。」
「それは、分かるけど…。」
彼女は俯くと、弱気がちに口を開いた。
「エスカバに、言われたの?」
「間違っちゃいない。でもちゃんと自分の意思で謝ったんだ、そこは勘違いしないでほしいな。」
「……。」
「本当は、君も教室にいたあの子のことも、抱く気なんて元々無かった。ちょっと頭に血が昇っただけだっんだよ、だから、怖がらせて悪かった。」
「…何よ、それ。」
許してほしいとは言わない。それに、これ以上関わってもめんどくさい。
会話を切り上げ、オレは自分の席に戻ろうとしたのだが。
「ま、待って!!」
「?」
服の袖口を掴まれてしまった。
振り返れば、少し目を腫らした彼女がオレを真っ直ぐに見上げていた。
「何?」
「その!!…私も、酷い事言ってごめん。」
「いいよ、気にしてない。」
オレがそう言うと、彼女は掴んでいた袖を放し、再び俯き身を縮ませていた。
軽く流したけど、正直驚いた。
*
悪い噂が広まるのは早い。
しかも、それが優良生徒のものであるなら尚更だ。
「何してんだよあいつ…。」
なまえが、無断で授業をサボったらしい。
しかも現在進行形。
一時間だけならともかく、それ以上は問題だ。昼休みになった今、俺はなまえを探すことにした。
居場所を突き止めるのは簡単だった。どこにいんだよとメールを送れば、二つ返事で屋上と返ってきた。
早足で屋上へと向かい、扉を開けた。
なまえは解いた長い髪を床に広げ、大胆にも床に大の字で寝転がっていた。伏せられた長い睫毛に、本当に女みたいだと思った。
*
「何してんだよ。」
目を開ければ、エスカバがオレを見下ろしていた。
「別に…サボりだよ。」
「学年No.2様が堂々と。そのうち蹴落とされても知らねぇからな?」
「はいはい、分かってるよ。」
上半身を起こし、少し乱れた髪を手櫛で直したと、長い髪が屋上に吹く風に舞った。
「エスカバ、」
「あ?」
「君、はやくあの子に告白した方がいいよ。」
「ば!?な、何言ってんだっつの!!俺は、別にそんな…。大体、なんでお前にそんな注意受けなきゃなんねえんだよ!」
エスカバが明らかに動揺してる。ホント、分かりやすいなあ。
オレがそれを無視して空を見上げていると、エスカバは急に落ち着きを取り戻し、それからまた口を開いた。
「無理だよ。」
「どうしてさ?」
「アイツ、好きな奴いるし。」
「諦めるの?…君って優しいんだね、理解に苦しむよ。ああ、オレが彼女に君を推してみようか。キューピッドにでもなってあげるよ。」
冗談半分で言ったのに、エスカバは少し複雑そうな顔をした。
「あのよ、アイツが好きなのは…。」
「ストップ!」
エスカバに向かって手の平を突き出すと、彼はその先の言葉を口に出すことを止めた。
「いいよ、聞きたくない。興味無いし、"オレには関係無い"。」
…なんだ、つまりは彼女もオレに魅せられた一人だったってわけ。
馬鹿な奴。結局女なんて、顔が良ければすぐに落ちちゃうんだ。勘違いって、あれもしかして自分のこと言ってたのかな?
オレは床に放っていた髪留めをポケットにしまった。
「…体目的で女の子の恋心を弄ぶ最低男。」
「?」
「あの子に言われたんだ。」
立ち上がれば、一瞬強い風が結跡の残る髪をなびかせた。
「まあ、合ってんじゃねーの?」
そう言って笑うエスカバに、オレは眉をひそめた。
「心外だよ、全然間違ってる。」
「はっ、どこがだよ。」
「だから、全部。」
そう言っても、エスカバはオレを信じようとはしなかった。
「エスカバ。オレさ、君に謝ろうと思う。」
「は?何をだよ。」
「君を童貞って馬鹿にしてたこと。」
「なっ…!?」
エスカバは顔を引きつらせていたけど、オレはそんな彼を見て少しだけ口元を綻ばせた。
「オレ、実は他人と性交に及んだこととか、一回も無いんだよね。」
「はぁ??嘘ついてんじゃねーよ。」
「本当だよ。しかもそこらの思春期男子と違って、自慰の経験すら無い。生産性の無い行為に、意味なんて無いからね。オレが体目的で女の子に近付いただなんて、まったくの嘘。」
オレの言葉に、エスカバは驚いているようだった。
見開かれた目が、不思議な物を見るようにオレを凝視している。
「だから、オレは本当に"綺麗"なんだよ?皆が言う天使の微笑みってのも伊達じゃない。」
「……。」
「ああ、でも別に不全ってわけじゃないし、女の子も確かに大好きだ。ただ、性的な欲望を抱けない。」
それは多分、自分がかつて女性の躰だったから。
「女の子だって、誰彼構わず話掛けてなんかない。寄って来る子を拒まないから、そう見えるだけ。」
「なまえ、お前…。」
「あぁ、そろそろ時間だね。早く教室に戻らないと、次の授業に遅れるよ?」
生半可な同情なんていらない、軽蔑の言葉なんか聞きたくない。
早くどっか行けと、遠回しにそう言った。
なのに。
エスカバは軽く頭をかくと、小さく息を吐いてからその場に座り込んだ。
「ちょっと、何してるのさ。」
「別に。いて悪ぃかよ?」
「…耳を塞いだ方がいい。ダメ男の気持ち悪い独り言を聞くハメになるよ?」
「へいへい。」
オレは再び腰を下ろして膝を抱えた。
本当は、誰かに聞いてほしかったのかもしれない。
一人で強がって、上辺だけの王子様を演じて。
オレは、本当は……。
「さっきも言ったけど、女の子は好きなんだ。一人の女性を愛する自信だってある。結婚だって正直したい。でも、性生活の無い夫婦の仲なんてたかがしれてる。オレが良くても、きっと相手はそうは思わないだろうね。」
エスカバの返事は無い。
これはオレの独り言なのだから、当然だ。
「オレ、軍人になるべくして生まれてきたんだと思う。だって生きてたって、誰かを幸せにできる自信が無いんだ。ふらふらと遊んで、女の子を泣かして悠々自適な生活を送るくらいなら。オレは戦場で死にたい。叶うなら、誰かを庇って、バッヂも何もいらないから、すごく感謝されて終わりたい。」
目頭が熱くなる。
感情的になんか、なりたくないのに。
「…この髪も、目も、顔も。全部…大好きなんだよ。
……でも、私にはっ、重過ぎるよ……。」
赤くなりつつある目を隠すように額を膝に押し付けた。
「……お前さ、」
どこまでも続く晴天の空の下、胸に届いた一つの声。
「もっと自分を大切にしろよ。」
自己愛女王
の
恋愛理論
やっぱり私じゃ成りきれない
―――――――――――