end
「どうしたんだ、浮かない顔して。」
今日のために新調したスーツを着こなしたヒロトは、俺を見て分かり切った顔をして笑っていた。
「別にぃ…。ほら、準備出来たんなら早く乗ってよ?」
「はいはい。」
俺はヒロトが助手席に乗ったのを確認すると、差しっぱなしにしていた車のキーを回してエンジンをかけた。
「なんか早いよね、十代なんて長いようであっという間だったなって感じがするよ。」
「まだ二十歳過ぎたばっかりだろ?何じじくさいこと言ってるんだよ。」
握ったハンドルは、妙に軽かった。
窓の外を流れる景色が何時もと違って見える。この交差点だってもう何度も通って、すっかり見慣れているはずなのに。
「複雑そうだね。」
「そりゃあ、まあ…。」
式場であるブライダルホテルの駐車場に車を止めて、シートベルトを外して車を降りた。
「リュウジ、控え室行っておいでよ。」
ホテル内のエレベーターに乗ったところで、ヒロトはそう言って足を止めた。
「オレは先に行ってるからさ。」
エレベーターが目的の階に止まり、扉が開いた。
「…分かった。じゃあ、また。」
エレベーターから降りると、俺達は反対方向へと足を動かした。
薄桃色の布地の床を進んで行き、一つの扉の前で足を止める。
ノックをすれば、聞き慣れた声で返事が帰って来た。
ドアノブに手を伸ばしたが、一瞬それに触れることを躊躇ってしまった。
それでも意を決して扉を開ければ、予想通り…いや、それ以上の光景があった。
*
「はぁい。」
室内にノック音が響いたのは、私が髪を結い上げてもらい、壁一面の硬い窓ガラス越しに広がる世界を見下ろしていた時だった。
私が返事をすると、ゆっくり、ぎこちなく扉が開いた。
「リュウジ!」
入って来た彼を見て、私は静かだった気持ちが高揚したのが分かった。
「和葉、その…おめでとう。」
「うん、ありがとう。」
シルクの手袋にダイヤのネックレス。女の子の憧れ、裾が大きく広がった真っ白なウェディングドレス。
そんな私を見て、リュウジは少し複雑そうだった。
けれどこちらに近付いて微笑む私と目を合わせると、リュウジも同じように表情を和らげてくれた。
子供の頃は少ししかなかった伸長差も、今はリュウジの方がずっと高い。それは、まあ、一時私の成長が停止していたせいもあるんだけど。
「リュウジ、あのね…。」
「うん。」
「今まで、ありがとう。」
*
「今まで、ありがとう。」
その言葉に、喉が熱くなった。
大学生になってから、俺達は別々に暮らすようになった。そして、和葉はいつの間にかあいつと同棲してた。まあ、二人が恋仲にあることは知ってたからそんなに驚かなかったんだけど…ただ、報告がなかったのが少しショックだった。
和葉は、俺達は、もう互いの半身ではなくて。
一人の人間として、自分の足で立っていることが、なんだか切なかった。
それもこれも、喜ぶべきことのはずだ。
なのに、心からのおめでとうが言えない。だから、さっきの言葉の半分嘘。
「っ、ごめん、和葉…俺っ。」
声が擦れた。笑顔が崩れ、喉の熱が苦しくなる。
「リュウジ。」
そんな俺を見た和葉は、優しく俺を抱き締めた。
化粧が付かないように、俺の身体に額をつけてやんわりと。
「リュウジ、寂しい?」
和葉の声は、柔らかかった。
そうして俺の核心をついてくる。
「寂しいよ…それに、和葉を取られたみたいで悔しい。」
そう言えば、和葉は子供をあやすかのように、俺の背中を擦っていた。
「そうだねー。別々の大学生に進学したし、リュウジと会うのも久しぶりだし、距離を感じさせちゃってたかもね。」
和葉は、全然悲しそうじゃなかった。
むしろ、笑っているようだった。
「大丈夫だよ。」
「……。」
「私は、ここにいるよ?もうリュウジを置いて、会えないところになんか行ったりしないよ?」
胸の鼓動が、徐々に落ち着いていくのが分かった。
「言ったじゃない。例え耳に届かなくても、心で受け取ってねって。」
「…そうだね。」
不安だったんだよ。
また、和葉に手が届かなくなるんじゃないかって。
また、和葉と"離れて"しまうんじゃないかって。
そしたら君は優しい声で、
「 」
ああ、そうだね…君のその言葉さえあれば…もう絶対、大丈夫。
「和葉。」
「何?」
「すごく、綺麗。」
俺がそう言えば、和葉はそれは新郎さんの台詞だよと、嬉しそうに笑った。
*
本当の父親はいないから、バージンロードはリュウジと歩いた。
それも勿論嬉しかったけど、神父さんの前に立っている彼をヴェール越しに見た瞬間、胸が跳ねた。
真っ白な壁も、吹き抜けたガラスの天井から降り注ぐ光も、全部が全部眩しくて…。
小さい頃に憧れてた世界が、そこにあった。
私が自らの腕から離れた時、リュウジは少し名残惜しそうに、けれど私と同じくらい幸せそうな表情をしていた。
隣に立った彼の、私の大好きな蒼い瞳が、少し気恥ずかしそうに細められた。
それが、なんだかあまりにも可愛くて。
つられて私も、少し恥ずかしくなった。
さよならじゃなくて、悲しいとかじゃなくて
君が幸せだから、
僕も幸せなんだ。
*
3月2日、金曜日。
今日も彼女は目覚めない。
私が研修でやってきたこの病院には、眠り姫がいた。
脳死とは診断されておらず、彼女は本当に眠っているだけのように見えた。
点滴でこの世に繋ぎ留めている命は、本当に儚いものなのに。彼女の寝顔はいつも幸せそうで、顔色が悪くても、今にも目を開けそうな程に生命力を持った表情をしていた。
決して目を覚まさない彼女にも、時折見舞いが来た。
中でも頻繁に訪れたのが、二人の男の子。
一人は銀色の髪をした、少し無愛想な男の子。
彼はベッドの隣の椅子に座ると、眠り続ける彼女に語りかけていた。
傍から見たら気がおかしいように見えるかもしれない。けれど意識のない患者に対して親しい人間が話しかけてあげることは、医学的にも良いことだ。彼がそれを知ってるのか知らないのかは分からないけど、聡明そうに見えたから、多分知ってるんじゃないかと思う。
そしてもう一人は、彼女と同じ髪色をした男の子。
こっちは銀色の子とは対称的に、彼女の病室で口を開くことは無かった。
この前ちらりと病室を覗けば、彼は床に膝をつき、ベッドに腕と頭を置いて眠っていた。ナース長に聞いたところ、なんでも彼は彼女の双子の弟なのだそうだ。
なるほど、どおりで寝顔がそっくりなわけだ。
じゃあ、彼女の瞳の色も黒いのかな、なんて思った。
3月3日、土曜日。
また今日も、彼女は目を覚まさなかった。
点滴を変えようかと病室に向かったところ、緋色の髪をした男の子とすれ違った。
軽く頭を下げて礼をしてくれた彼も、たまに彼女のお見舞いに来る子だ。
未だ眠り続ける彼女の枕元の棚には、小さなひなあられの袋が置いてあった。
そっかぁ、今日はひな祭りかあ…。
なんて思いながら、少女のか細い腕から針を抜き取った。
相変わらず、彼女の寝顔は幸せそうだ。一体、どんな楽しい夢を見ていることやら。
「でも、そろそろ起きてあげないと…君の王子様達が可哀想だよ?」
勿論、返事なんて無かった。
次の日も、その次の日も。
ひなあられの袋は手付かずのまま、寂しそうに置かれていた。
*
3月13日、火曜日。
置かれっぱなしだったひなあられの袋が無くなっていた。
誰かが持ち帰ったのかと思ったけど、私は彼女の首隣に、桜色のそれが転がっているのを発見した。
空になった袋は、きちんとゴミ箱に捨ててあった。
私は、もしかしたら、とドキドキした。
「…おはよう、和葉ちゃん。」
そう言って肩を揺すれば、彼女はまだ眠いと言わんばかりに目を擦った。
「?…ああ、ごめんなさい…ナースコール、忘れてた。」
呑気にそう言った彼女を見たら、私は急に喉が熱くなった。胸に込み上げるものがあり、その感動のまま、私は彼女を抱き締めた。
「か、看護師さん?」
「良かった、本当にっ良かったぁ…。」
…あれからもう何年も経つ。
あーあ、先越されちゃったなあ。
十字架の下で永遠の愛を誓った彼女を見て、私は祝福と同時に婚活に対する焦りを感じていた。
「昔も今も、
これから先の未来だって…
ずっとずっと、大好きだよ。」
―――――――――――