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「ぁ…。」




風介は、泣きそうな顔をしていた。まるで雨に打たれる捨て猫のように、酷く弱々しい彼の姿が、私の目に深く焼き付く。

けれども、心の整理がつかない私は、その場から逃げ出してしまった。
風介は動かない。扉を開けた瞬間、そこには晴矢がいて、彼と目が合った。晴矢は見たことの無い赤と青のユニフォームを着ていて、彼が風介に用事なんて珍しいとは思ったけれど、今はそんなことどうでもよかった。



晴矢に声をかけられる前に、私は鉛のように重い足を、力の限りに動かした。






*






グランに対抗するために、俺達はプロミネンスとダイヤモンドダストの混合チーム、ザ・カオスを作り上げた。午前はミーティング、そして午後からは練習の予定だったんだが、時間になってもガゼルが来なかった。しゃーねーから説教ついでに俺が直々に部屋まで迎えに行ってやると、扉が急に開き、中から涙で頬を濡らしたエリオが飛び出して来た。服の肩部分は何故か紅く染まっていて、どうしたんだと声をかける前に、エリオは逃げるように去って行ってしまった。


「…練習、もう始まってんだろーが。」

「、…ああ。」


目の前にいんのに、ガゼルは話しかけられて初めて俺の存在に気付いたらしい。それが若干頭に来たが、どうやらキレられる雰囲気ではない。


「エリオ、怪我してたぞ?」

「…知ってるよ。」


ガゼルは腕で口元を拭うと、クローゼットからカオスのユニフォームを取り出した。


「なあ、何かあったわけ?」


俺がそう聞くと、ガゼルは一瞬動きを止めた。躊躇いがちに口を開くと、そこから発せられたのは虫の羽音の如く小さな声だった。


「…記憶が…」

「は?」

「エリオの記憶が、戻りかけてる……。」

「……そうかよ。」



消された記憶が戻ることが問題なんじゃなく、重要なのはエリオ自身がそれをどう受け止めんのか。
けど、今ガゼルが畏怖してんのは、その辛くとも大切な記憶を消した張本人であるガゼルをエリオがどう思うか、だ。




「行くぞバーン…我々は雷門に勝って、
ジェネシスの称号は、私達にこそ相応しいと、父さんに証明するんだ。」

「んなこと、言われなくともわーってるつの。」



痛みと葛藤、自分の感情を押し殺し、それらを憎しみと怒りに変えたその眼には、静かな焔が燃えていた。


「……。」




口元を拭ったガゼルの腕には、微かに血の乾いた跡があった。






*








「っ、はあ、はあっ……」


長く続く無機質な廊下を、私は息を切らして走っていた。



傷は思ったより深く、未だに血が止まらない。



風介が、怖かった?


違う。

焦りと不安に揺れるあの眼を、見ていられなかった。
それを生み出したのが私なのだと、彼を崩壊させる原因が私なのだと思うと、苦しくて、痛くて。

真実を掴もうとすると、風介は私を嫌いになるんだと感じた。もういらないって言われるかと思った。
だから思い通りにいかない私を邪険に感じて、殺そうとしたんだって思った。



「ばかみたい…」



約束、取り消すなんて言ったのは、私なのに。なんて自分勝手なんだと思った。



けど、誰かが頭の中で叫んでる。
違う、って。

それは多分私自身で、私はきっと、何かを忘れていて。


「エリオ…。」


それが、"今"の私の名前。


「和葉。」


それは、"私"の名前。


「和葉、和葉、和葉…」


自分の名前を何度も復唱する。

口に出して、探る。


「私は、和葉…私、は…」


おかしい。

だって、どうしても思い出せない。






「苗字…」



私の苗字…何だっけ。


「佐藤?高橋?……違う。」


頭が痛かった。イライラもした。何故だか呼吸が苦しかった。混乱状態一歩手前の私を現実へと引き戻したのは、真っ赤に濡れる傷口の痛みだった。

とりあえずは流れた血を洗おうと、着替えずに水道のある場所に向かった。
途中、ウルビダとグラン様とすれ違う。静かではあるが、なにやらもめている様子だった。特に話し掛ける必要もなかったので、私は軽く一礼をして通り過ぎようとしたのだが、私に気付いたウルビダが、「エリオ」と私を呼んだので、私は足を止めた。

彼女は振り返った私を見ると、訝しげに目を細めた。


「血が付いているぞ、怪我でもしたのか?」

「え……ああ、これはその、」


こんな箇所、普通に生活していれば怪我などするはずがない。ましてやこれほどまで深く裂かれた傷なんて…。

口籠もる私の心情を察してくれたのか、グラン様はウルビダに幾つか言葉を残すと、私の手を引いて歩き出した。










*






「はい、いいよ。」

「…ありがとう。」


綺麗に貼られたガーゼを、私は妙な気持ちで見つめていた。


「…ガゼルと何かあった?」


グラン様の問いに、私の肩が跳ねた。


「……でも、私が悪いから。自分から縋っておいて、もう平気だから必要ないだなんて、身勝手過ぎるもの…。
…私ね、風介が大好きだった。風介も、私に好意を持ってくれてた。」


ぼそぼそと言葉を並べる私の手を、ヒロトは優しく握ってくれた。
時計の針が乾いた音を奏で、窓からは夕日が差し込んでいた。


「でも、分かったの。私は、単に風介に甘えてただけだって…。
私を必要としてくれる風介に縋って、私を求めてくれる風介に優越感を抱いて……。

……ごめんねヒロト?朝からこんな話ばっかで。嫌になっちゃうよね。」

「ううん、気にしなくていいよ。それにオレも、和葉に笑っててほしいから。」

温かなオレンジの光に照らされたヒロトの顔は、あの困ったような微笑などではなく。本当に、優しい微笑みだった。その翡翠の瞳に映った私の黒瞳には、確かな光が宿っていて…。





「…ねえ和葉、風介を嫌いにならないでね?」

「そんな、むしろ私が風介に嫌われて…」

「そんなことないよ。」


ヒロトは私の傷をガーゼ越しに触れる。


「嫌われてるだなんて、まったくどの口が言うのか…。」

「だって、」

「…あーあ、ちょっと嫉妬しちゃうなぁ。あ、ねえ、オレも和葉に跡付けていい?」

「な、だ、だめだよ!!?」

「えー?」

「か、からかわないで!!そんな心にも無いこと言わなくていいからっ!?」

「心にも無いことなんかじゃないさ。好きだよ?和葉。」

「その言い方が冗談くさい!!」

「ふふ、酷い言われよう。」


ヒロトと話してたら、心が軽くなっていくのを感じた。ありがとう、と、私が言おうとした瞬間、








「…ごめんね和葉。」

「え?」

「あの日、君に辛い思いをさせちゃったから。」



あの日?

一体いつのこと?



「君が失ったものは、きっと何物にも変えがたい程に大切なもの。だからこそ、風介には悪いけど、その想いを無下にしてまで、手を伸ばすんだね。」


「ヒロト?」


「エリオ、君に一つだけヒントをあげる。」




白い手袋越しに伝わる体温。
心に浸透する、澄み切ったアルト。
















「君の苗字は、緑川…。
君の名前は、緑川和葉だよ。」









君がくれた、輝石の欠片…

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