09
目を覚ましても、隣にガゼル様の姿は無かった。
気だるさを背負って上半身を起こすと、パサリ、と、肩から落ちた髪が視界に入った。
その時、
「った!?」
酷い頭痛。
そしてそれと一緒に脳内に浮かび上がったのは、抹茶色の髪の後頭部。
長い髪を、やわらかな手が櫛で優しく梳いていた。
「…え?」
おかしい。
だって、あの髪の色は私とおんなじ色をしていた。
けど、仮にあれが私自身なのだとしたら、あの手は誰のもの?いや、もしかしたら目線的に、手の方が私なのではないだろうか。だって、自分の後頭部なんて、普通見えるはずがないもの。
「じゃあ…」
私と同じ髪。
性別さえも分からない。
「貴方は…誰?」
呟いても、それに答えを返してくれる声はなかった。
*
いつまでもぼーっとしているわけにもいかないので、自主練でもしようかとグラウンドに出たところ。
「…ぁ、」
フィールドには、既に幾つかのサッカーボールが転がっていて、その中心には、こちらに背を向けた"グラン様"が立っていた。
練習中であるなら邪魔をしてはならないと思い、引き返そうとしたところ、彼はこちらに気付き、微笑んだ。
「…やあエリオ、練習?」
「は、い…えっと、グラン様も?」
「…まあね。なんか体動かさないと考え事しちゃって。」
苦笑を浮かべる彼は、今やエイリア学園の"ジェネシス"のキャプテンなのだ。
ガゼル様があそこまで欲していた称号を手に入れたなのに、グラン様にはまだ、何か頭を悩ませる対象があるというのだろうか。
「ねえエリオ、」
グラン様は近くにあったボールを一つ拾い上げ、再び口を開いた。
「パス練習でもしようか。」
パスの練習なんて、マスターランク、ましてや異なるチームの私達にとってはあまり意味のないメニューだとは思った。
Yesと答える必要はなかったけど、Noと言う理由も特に存在しなかった。
「久しぶりに見た。」
「え?」
「君が髪を下ろしてるの。」
「あ、」
そっか…あの時、ガゼル様の部屋に忘れて来ちゃったんだ。
「髪留め…後で取りに行かないと…。」
「そんなに大事な物なの?」
グラン様のその問は、質問というよりは、どちらかと言うと確認に近いような気がした。
「…はい。どうしてなのかは分からないけど、やっぱり、大切なんだと思います。」
「…そっか。」
グラン様は少しだけ、嬉しそうに笑った。
「エリオ、君は父さんのことをどう思う?」
「お父様を、ですか?」
「…いや、父さんだけじゃないな。バーンやガゼル、それにウルビダ…。皆、何のためにサッカーをしてるんだと思う?」
「それ、は…」
「…きっと、お日様の皆は、父さんの愛情を一番に求めている。幼い頃、親を失ったオレ達に一番に手を差し伸べてくれたのは、あの人なのだから。
…けど、五年前から、父さんは"ヒロト"以外の誰も見ていない。古い幻影と憎悪に、取り付かれてる…。だから姉さんが雷門の監督を務めていても、平気な顔をしているんだ。」
"ヒロト"?それは貴方のことではないのだろうか。
二人の間をただ真っ直ぐに、白黒のボールが何度も行き来する。
「皆、見失ってるだけなんだよ…。本当に大切なものは、すぐ側にあるのに…。」
「グラン、さま…」
「和葉…もう昔みたいに、"皆で楽しくサッカー"なんて…出来ないのかな?」
正しい。きっとこの人は間違ってない。けれど、それが今のあたし達にとっての"間違い"。
お父様の愛を誰よりも受け、エイリア最高のジェネシスの称号も手に入れた。
それを告げられた時、ガゼル様達は、グラン様をどう思っただろう。
グラン様の立場になって考えると、私は胸がはち切れそうだった。
ああ、この人はきっと、イチバン哀しい人なんだ…。
「……どうして君が泣くの?」
「…ゎかりま、せん。」
「ふふ、仕方ないなぁ。」
また、その笑顔。
泣いてしまいたいのは、貴方のはずなのに…。
「オレさ、ちょっとだけ、円堂君達が羨ましいんだ。」
「…はい。」
彼は足でボールを止めると、私に歩み寄って涙を掬った。
「和葉、君は…誰の為に戦ったの?」
「あたし、は…ガゼル様の為に…。」
「辛くなかった?」
「…うん。」
「それは、どうして?」
「ガゼル様は、私の大切な人だから…。大好きな人が幸せなら…例え間違っていても、彼が笑ってくれるならって…そう思ったから。」
また、涙が出た。
そして、私の言葉を聞いたグラン様は、他人事のように呟いた。
「…そっか。じゃあオレも、父さんの幸せの為に戦ってみる。」
お父様の為に?
ガゼル様の為に??
違う、違う!そうじゃない!!
心のどこかで、そう叫ぶ自分がいた。
頭が、心臓が、心が。
すごく、痛かった。
「ゃ、ぁ…。」
私の体は、勝手にグラン様に抱き付いてしまった。
「わた、し……何か忘れてる?」
教えて。
誰か、この痛みに理由を頂戴。
「エリオ、大丈夫だよ…。君には、何かを失っても、それを埋めてくれる誰かがいる。」
ナイロン質なユニフォームに包まれた腕が、ゆっくりと私の背に回された。
「もしガゼルに捨てられたら、オレの所においで?」
優しい言葉だった。
慰めるような、宥めるような…安心して、どこか温かい気持ちになれた。仮に自分にお兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかなと思った。
「ありがとう、ヒロト…」
「うん。…だから、さ、」
「和葉、お願い。もう泣かないで?」
「ヒロト…。」
こっちまで悲しくなっちゃうよ。
そう言って微笑んだ彼の顔を、私は一生忘れない。
…どうしてだろう。
以前、誰かに似たようなことを言われたような気がする。
流れ星に救いを。
世界を…彼を、助けて。
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