弾んだ気持ちはピタリと静まり、氷水をかけられたように固って、さっきまでとは真逆の感情に足は速まった。
気付くな気付くな気付くな! …誰も何も悪くないのに、そんな思いに駆られた私の心臓は嫌な音を発てていた。
電車に乗り込んだ頃にはすっかり息がきれていて、私は声を出さないように深く息を吸って深呼吸をした。 乱れているだろうと思って手櫛で髪を梳かすけど、指がひっかかってかえってぼさぼさになってしまう。それがみっともなくて、心も痛いままで、私は気恥ずかしさでいっぱいになった。
…それからはよく覚えていない。私は気付けば、自分の部屋の床に鞄を投げていた。 購入したばかりの本も読む気にならなくて、スイッチを入れた扇風機の前に座り込んだ。強風設定のボタンを押して膝を抱えれば、風の音しか聞こえなくなった。
最悪最悪最悪。
…違う、早めに気付けて良かったんだ。彼女さん、可愛かった。アイドルみたいってんじゃなくて、笑顔に愛嬌があって、雰囲気も元気でいて優しい感じだった。まったく、街中で手なんか繋いじゃって、仲よしこよしですかそーですか。おのれ、爆発しちまえリア充の馬鹿。 ……はいはいすみません負け惜しみですごめんなさい、精一杯祝福します。
「……ぅ、っ…。」
おかしいよ。雨宮さんのこと、そこまで大好きってわけじゃなかったはずのに。
「なんで、泣いちゃうんだろ…。」
泣いてる、というより。 ただ涙が勝手に溢れていただけだった。
*
うげぇ…。
「名前、おはよう!」
「うん、おはよー。」
こういう時に限ってこうだよもう、信じられない。 朝の昇降口、私は向日葵のような笑顔を浮かべた雨宮さんに対し、張り付けの歪んだ微笑で挨拶を返した。 これがもし一昨日の話だったら、朝から太陽と話せた…!!とか何とかるんるん気分で一日を過ごすんだろうけど、生憎今の私はそうもいかない。雨宮さんが何か口を開きかけたのと同時、彼のクラスメイトらしき女子生徒が話し掛けてきたので、私はナイスタイミングとばかりにそそくさとその場を後にしたのだった。 くっ、人気者め。私なんてさっき貴方にしてもらった挨拶が、初めての男子からのおはようだったんだぞ!! 今日も今日とて放課後は補習だし、こんなことなら100点とる勢いでみっちり勉強しとくんだった!!
……嗚呼、今日もなんていい天気なんだ。
*
「名前、そろそろ補習始まるんじゃないの、行かなくていいの?」
友人の言う通り、私はそろそろこの教室を立ち去らなければならない。しかし補習に向かうということはつまり、雨宮さんのすぐ隣に行かなければならないわけであって。雨宮さんの隣って別にそういう意味じゃなくてアレよ、物理的な意味でだからね、勿論。
「補習ヤダ、バックレちゃおっカナ?」
「駄目だっつの。ほら急ぎなよ!!」
急かされつつ、私は鞄から誤って入れてしまった筆入れと下敷きを取り出したのだが。
「った!!」
「どした?」
「…ファスナーに爪挟んだ。」
見れば人差し指の爪先が酷いことになっている。中途半端に割れ、かといってそのまま裂いてしまえば大変なことになる。今から爪切りのためだけに保健室行くのもあれだしなあ。仕方ない、このままにしておこう。
「サボろうとしたからバチが当たったんじゃない?行ってらっしゃい。」
「…うん、またね。」
「じゃーねー!」
…呑気なもんだ。
「……。」
ちょっと待て、一旦冷静になって考えてみよう。よし落ち着こう、クールに行こう。
まず、私は何故こんなに雨宮さんを避けているんだっけ?あ、そっか。雨宮さんのことが好きにな…りかけて、でも雨宮さんに彼女がいるってことが発覚して。
それで……。
「……私、」
ただ焼きもちやいてただけなんじゃないの?それって雨宮さんからしてみたら"え、この女何俺(僕)のこと避けちゃってるわけ?超意味不なんですけどー??"状態じゃないか。 まずい、それはまずい。だって雨宮さんは何も悪くないんだから。
「名前、どうしたの?」
「いや……ちょっと自分が何言ってるか分かんなくなってきちゃったから考えてたの。」
「何を考えてたの?教えて?」
「それは無理だよ……って、雨宮さん。」
なんだこの人、いつの間に後ろに。ていうかもう開始2分前だぞ、はやく教室入ろうよ、私も人のこと言えないけどさ。
「ちょっと、たいよーでいいって言ったじゃん。」
「えー、雨宮って名字素敵だしカッコいいよ。」
「じゃあ名前は?名前はカッコよくないの?」
「そんなこと言ったら貴方のご両親に失礼でしょうが。…あっほら、先生来ちゃったよ。」
彼はどうしてそこまで名前にこだわるのだろうか。別に呼び方くらいどうだっていいと思うんだけどな…。 表現の自由だよ、うん。授業が始まって十数分、私は強烈な睡魔に襲われていた。
うわあ眠い、果てしなく眠い、今にも意識を手放してしまいそうだ。手放す?手放しちゃう?寝ちゃう??…寝ちゃおうか。 ちらりと横目で隣を見れば、雨宮さんは真面目に授業を受けているようだった。 なんだ、てっきり早く部活行きたい!!って、時計ばっか気にしてると思ったのに。それから私は耳にかけていた髪をおろして顔が見えないようにしてから、ばれないようにこっそり意識を手放した。
……つもりだったのに。
仮眠状態で完全にリラックスかつ油断していた中、首筋につん、と何かが触れた感触があった。
「ひぁっ!?」
うおおおぉしまったああぁ!!この空間でなんて声出してしまったんだ私はあぁ!!!!辛うじて声は小さかったけど、今のは完全に裏返ってた!!
未だその余韻が残る首筋を押さえながら後悔の波に呑まれていると、隣で笑いを堪えるようにして口元を押さえる雨宮さんが視界に入った。おそらく彼が指かシャーペンのお尻かが原因に違いない、絶対そうだ。…んの野郎このいたずらっ子めがあぁ!!!!!!下唇を噛みしめながらキッと睨んでやると、少しキラキラしてる雨宮さんと目があった。 って、キラキラってどういうことだ、私がこんなに羞恥心で死にたい思いをしているというのにまったく!! 私が沸々と心の中で怒りを煮やしていると、雨宮さんは手を伸ばして私のノートにさらさらと文字を書いた。
"耳真っ赤"
「……っ!!」
だ、誰のせいだと思ってんだコラーッ!!!! 耐えきれなかった私は、適度に加減をした拳でダンダンと雨宮さんの肩を叩いた。
こういうちょっかいは彼女さんにかけてイチャイチャしてればいいんだよ!!私みたいなんがはずかしがってもキモいだけなんだよ馬鹿ぁ!!口に出したかったけど、授業中だったから止めた。別にどうしても伝えたいって内容でもなかったから、付箋に書くこともしなかった。
ああああ超恥ずかしい、消えたい、それが出来ないなら数分前に戻りたい、そしたら絶対寝たりなんてしないのに。私は授業そっちのけで、真っ赤になったであろう顔を両手で覆っていた。
眠気なんて、もうすっかりどこかに飛んで行ってしまっていた。
「名前、さっきはごめんね?」
授業が終わった直後、雨宮さんは苦笑を浮かべてそう私に謝った。しかしそれでも笑顔ということに変わりはなく、反省はしてるが後悔はしてませんといった感じが滲み出ている。
「…いいよ、もう。」
ここでねちねち言うのもウザいだろうし、元はと言えば寝てしまった私が悪いのだ。はいはい私が悪うございやした、起こしてくださりありがとうございましたあ…態度悪いな私。
で、でもそれだけ恥ずかしかったんだよ。「さっき苗字の声マジキモかったー!」…なんて裏で言われてたらどうしよ、どうするのよ、どうしてくれんのよ。 頭の中で悶々とネガティブな考えを展開させていると、鞄に荷物を詰める私の顔を雨宮さんが覗き込んで来た。
「名前、お菓子買ってあげるから機嫌直して?」
「子供か私は。」
どうやら私が本当に傷付いていることに気付いたのか、雨宮さんは眉をハの字にしていた。ていうか上目遣いグッと来るな、ヤバいな雨宮さん。私が変態だったら襲っちゃうレベルだぞ、ガオー。…なんちゃって。
「いいよ、雨宮さんにそんなことしてもらうなんてかえって申し訳ないよ。私が勝手に驚いただけなのに。」
まあ雨宮さんじゃなくて、気の許せる女友達であれば遠慮せずに奢らせますけどね。
「そお?」
くり、と首を傾げた雨宮さんはやっぱり可愛かった。
「…うん。じゃあまたね、雨宮さん!」
「うん…。」
さあて、あとちょっとしか時間ないけど部活するか。
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