深夜の階段を上る途中、俺は突如として足を動かすことが憂鬱になり、その場に立ち止まった。

その原因はおそらく、
"迷い"だろう。


ナマエに会いたいと期待する分、その姿を確認出来なかった際の落胆が大きい。


孤独などという感情とは無縁だと思っていたが、あれはそれに近い感情だ。



「……。」



だがこの階段を上らない限り、彼女に会えないのも事実。
俺達は互いの連絡先を交換しないどころか、同じ教室にいながらも日中間は会話さえ無い仲。約束も無しに、ただ星の出る夜に寮の屋上で会うだけの、微弱な繋がりでしかない。




扉を音も無しに開ける。



一般的にミルキーロードと呼ばれる星屑の川の下に、基山ナマエの姿はあった。

安堵と微弱な歓喜の入り混じった感情も一瞬のこと、俺はとある"異変"を感じ取る。





ナマエは、星を見上げてはいなかった。



屋上の縁にある囲いの上に立ち、そこから見える景色を見下ろしていた。




風がナマエの長い髪を掬ったのと同時、俺の脳には最悪の光景が浮かんだ。


不安と焦燥が血流速度を狂わせる。
彼女に限ってそんなことはあり得ないと信じていながらも、俺はナマエに駆け寄り、その手を掴まずにはいられなかった。




静かに振り向いたナマエは、眉を下げ、切なげに呟いた。





「バダップ……貴方、なんて顔してるのよ……。」





"こんばんは"。


俺を見下ろす彼女は、
そう言ってはくれなかった。

なんて顔?
それはお前の方だろう。



「…下りろ。」

「何故?」



男の俺とは違う、細く白い手首。この時ばかりは、こんなもの簡単に手折れてしまうのではという程にひ弱に感じた。



「ああ、もしかして、私がこのまま飛び降りるんじゃないかとか思ったの?」



儚く弧を描いた口元が、俺の眉間の筋肉を緩ませた。



「王牙学園の基山ナマエが、寮の屋上から飛び降り自殺なんてするはずないでしょ。」



"王牙"に泥は塗れない。それに私が死んだら、私を愛してくれた両親や皆に申し訳が立たない。
ナマエの言葉は、その真意を含んでいた。



「バダップ、痛い。」



指摘されて初めてナマエの手首を掴んだままだと気付いた俺は、彼女の肌を縛る指をゆっくりと解いた。
ナマエは俺の手が離れるのを待つと、あっさりと囲いから降りた。


ナマエの白い手首には、先程ついたであろう赤い跡があった。
ナマエはそれを擦ろうともせず、また下界に輝く人工の光を見つめ始めた。



一秒、また一秒、
緩やかな風だけが耳を擽る。

あの日どうして辛そうな顔をしていた、何故学校を休んだ、晴れていたのに屋上に来なかった理由は、昨日は何をしていた。

聞きたいことが山程あるというのに、どうしてか切り出すことが出来ない。



「……何故、星を見ない。」



その言葉だけが、すんなりと声になった。

ナマエは顔だけをこちらに向け、躊躇いがちに口を開いた。



「見なきゃ、だめ?」

「いや…強要しているわけではない……すまない。」

「ううん、構わない…。」



予想だにしないナマエの言葉に、俺は反応に困った。

何時にも増して辛そうな彼女の横顔をただ見ていることしか出来ないということは、今までに経験したことが無い程に歯痒いものだった。



「なんとなく、今日は蘊蓄を語れる気分じゃ無いの。でも、こうして貴方と一緒にいるのに、話題に欠けるのも寂しいわね。」



ふわり、蒼翠の瞳が笑った。



「何か聞きたそうな顔してる。」

「そんなことは、」

「どうぞ?遠慮なんかいらないから。」



むしろ聞いて欲しいのだと、彼女は俺に質問をせがんだ。



「…先日、評定に影響するにも関わらず、欠席したのは何故だ。」



ナマエはそれが始めにくると予想していたのか、表情を変えずに淡々と語り出した。



「あの日はね、パーティーに出席してたの。それ自体は夜からだったんだけど、色々準備とかが忙しくて。」

「パーティー?」



俺が聞き返すと、ナマエはまた儚げに口元を吊り上げた。



「そう。私の大切な御人のお誕生会。」



俺は一瞬、胸が締め付けられるような感覚に陥った。
しかしそれは身体的異常からくるものではなかったため、特に気に留める必要も無かった。



「星屑を散り撒いたみたいにキラキラしたマーメイドドレス、泡の弾けるシャンパングラス。軍人の固さを感じさせない、女性としての優雅な立ち振舞い。あの空間で私は、確かに"女の子"だった。」



俺も何度か両親に連れられ、政府要人や軍関係者のパーティーには出席したことがあった。確かに、あの華やかな場所は年頃の女子から見たら心地よい空間なのかもしれない。
ナマエがあまりにも軽やかな口調で語るものだから、俺は肯定が返ってくる前提で、"楽しかったか"と聞いたのだが、彼女は返事をしなかった。



「……高いビルの中のパーティーホールから、七色に輝く"夜景"を見下ろした。…すごく、綺麗だった。」



横に一歩分、ナマエが俺と距離をとる。



「たまには下を向いてみるのもいいかなぁ、とか、思っちゃった。」



また一歩、彼女の背が遠くなる。



「でも、なんか寂しかったんだよね。言い様もない感情が胸に押し寄せてきて、すごく切なくなった。」



ナマエは足を止め、首を"上"へと向けた。



「星は、天体上では一生同じ場所にいる。けれど確かに、その位置を変えている。毎日少しずつ前に進んで、夜空を新しい姿で魅せてくれる。」



頼りなく見えるその肩を、抱いてやることさえ出来ない。
俺は何のためにここに立っているのだろう。



「実はさ、その人ね?"正式"な婚約者様じゃないんだ。」

「?」

「婚約発表してないから。まだ親同士の軽ーい口約束みたいなものでね?」



くるり、ナマエが振り返る。



「でも、父さんと母さんは完全にその気みたいで。二人が喜んでくれるのは私も嬉しいし、周囲の"私に対しての祝福"だって当然嬉しい。それが私の幸せだって、思ってた。
……でもそれって結局、自分の意志を持たないで、ただ誰かの希望に従って生きてるだけなのかなぁって、最近そう思えてきたの。」



自分は"割り当てられた"存在だと、ナマエは以前そう言っていた。
親がその世界の要人であるという、生まれた環境は似ていようとも、俺達には決定的な違いがあった。



「気付くのが、遅い。」



絞りだしたようなその声に、初めて自分の喉が渇いていたことを知る。



「貴方が……ここに来るのを止めなかったせい。」



無理に作られたその笑顔が、俺の心臓を優しく抉った。




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