夜空に星が瞬くのを確認すると、俺はまた月明かりに照らされた階段を上った。



「こんばんは。」



俺の姿を確認すると、ナマエは決まってそう言った。

最初こそ愛想笑いに付けられた言葉だったが、今はそうではない気がする。


校内で友人と話している時の笑顔とは異なる微笑。
しかしどうやら、それこそが本来の基山ナマエらしい。



「蠍座が出てる。」



いつも通り、ナマエは仰向けのまま星屑の散らばる宵闇に向かって呟いた。

説得に失敗した後、ここにはもう何度も足を運んでいるが、彼女は俺がそうする理由を尋ねはしなかった。



蠍座。

十二星座の形は把握していたので、ナマエがどの星のグループを指しているのかは理解出来た。



「アンタレス。蠍座α星で、あの深紅の恒星の名前……。」



その後に続くはずだった言葉が彼女の喉元で止まったのを、俺は見逃さなかった。

ナマエは一旦瞳を閉じると、飲み込んだ言葉を空白の呼吸に変えた。



「ねえ、バダップ。」

「何だ?」



ナマエはそれまでの雰囲気と一転、明るい声で問い掛けた。



「貴方はどの季節が一番好き?」

「特には無いが…。」

「ふうん。…私はね、この時期が一番好き。冬の星空が嫌いってわけじゃなくて、」



晴れの夜が多いから。


そうしてまた、星に焦がれる少女は笑った。






*






曇天。


昨夜雲一つ無かった空には、灰色の雨雲が広がっていた。



「……バダップ、君一体どうしちゃったの?」

「?…何故だミストレ。」



ミストレが驚いた顔でこちらを見ている。

俺は何かおかしなことでもしたのだろうか。



「欠伸、したよね?」

「……それが?」



口元はきちんと押さえた筈なのだが。



「何、まさか寝不足?」

「……。」



確かに、最近睡眠時間は不規則になっている。
あまり良いことではないと分かっていながら、夜に屋上を訪れるのを止めようとは思わない。



「ミストレ。」

「何?」



窓の外に、雨粒が降るのを確認した。



「今日は、雨だな。」

「…そうだね、オレは寧ろ雪でも降るんじゃないかって心配だよ。」



ミストレは口を引きつらせてそう言った。

雪?

この季節に雪など降るわけがないだろう。





授業中、ナマエの鮮やかな後ろ髪が目についた。

俺の彼女に対する意識の変化も関係しているのだろうか、濃緑色の制服を着た生徒達の中、ナマエの紅い髪は強い色彩を放って見え、教室の誰より存在を示していた。


昨夜ナマエが口に出した星も、彼女と同じ様な色の輝きを放っていたことを思い出す。



雨粒が、次第にその数を増やしていく。

ナマエは始終、何かに耐えるような苦痛の表情を浮かべており、それが単に天候に対する落胆からくるものでないということは容易に分かった。





夜、やはり空は曇っていた。






*






「…苦しい。」



自分の口から出たその言葉に、私は驚いて足を止めた。



駄目だ、思考が黒い靄に溢れて仕方がない。



視界の端で揺れる赤が、悪い意味で私の背を押した。




息が出来ない。


ここは地球の筈なのに。






*






次の日、空はまだ薄らと雨の余韻を残していた。

明日からは夏期の長期休暇が始まる。休暇前の最終チェックや終業式等があるにも関わらず、基山ナマエは教室に姿を現さなかった。

王牙学園では自らの体調管理の項目も評価対象になる。
優良生徒の一人である彼女が、体調を崩したとは考えにくい。

俺は天気が晴れでない事に対し、言い様もない苛立ちを感じていた。




今夜も星は輝かない。

それを承知の上で、俺は寮の階段を上がっていた。



月は顔を出しているが、やはり小さな星達は灰雲の後ろに隠れている。



屋上の扉の前に立つ。





扉は、開かなかった。



鍵はナマエが持っている。
開かなくて当然だ。

俺はそのまま自室へと帰りベッドに入ったのだが、暫く眠りにつくことが出来なかった。






*






朝、まだ日の昇らないうちに目が覚めた。



布団の衣擦れの音だけが部屋に響く。

夏期休暇初日。補習通告でもない限り、教室に行く必要はない。






……何とも理解し難い感情だった。


二日、基山ナマエと言葉を交わさなかっただけで。

たった一日、基山ナマエの姿を見なかっただけで。

彼女の事が気になって仕方がない。



おそらく、今夜は晴れるだろう。
まだ早朝だというのに、陽が沈むのが待ち遠しく思えた。






なのに。



「……。」





夜、予想通り空は満天の星空だった。


屋上の扉の鍵も、開いていた。



しかし、そこにナマエの姿は無かった。



いつもナマエが寝ている場所へと移動しても、そこに人がいた形跡は無い。


夏の夜風が妙に薄気味悪い。


寮の屋上には、フェンスのような物は存在しない。縁には膝ほどまでの高さの囲いが在るだけ。

以前ナマエは、堅苦しいフェンスよりこの方が広く感じられて好きだと言っていたが、今の俺には広すぎるように感じられた。
隣にナマエがいない、唯それだけだというのに。



しばらくナマエを待ってみたが、結局彼女は姿を現さなかった。





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