*
指定された場所と時間。
それは深夜の寮の屋上だった。
消灯時間を過ぎていたが、窓からさし込む月明かりのおかげで明かりには困らなかった。
階段を上った先の扉の鍵はナマエの言う通り開いていて、屋上にはこちらに背を向けて座るナマエがいた。
近づけば、ナマエは俺に振り向いて微笑んだ。
「こんばんは、バダップ。…座って?」
「しかし、」
「許可申請はしてあるから。」
そう言った彼女の傍らには、屋上の鍵が置かれていた。俺はナマエの隣に腰を下ろすと、彼女に話し掛けた。
「ここで何を?」
「星を見てるの。毎日ではないけれど、晴れの日はしょっちゅう来てる。」
ナマエはアタッシュケースを開き、中から何かを取出した。
「どうぞ?」
「これは…」
「天体観測用望遠眼鏡。スイッチはレンズ右脇。」
「?」
言われた通りにスイッチを押して空を見た。
濃紺の空に輝く星々が、近く感じられる。
「私のと連動させるから、下手に動かなくていいよ。」
眼前に表示された画面が一部の光の集団を捉える。
おそらく彼女が操作しているのだろう。
「星屑が集まってるのが分かるでしょう?あれは散開星団。恒星の第1種族の集まりで、アレはまだ生まれてからまだ5千万年も経ってない。」
ナマエが寝そべって空を仰ぐ。
ナマエの声は何時もより随分と穏やかで、耳に届く声は不思議と心地よかった。
画面が映し出す宇宙の光景は、俺が見たこともないようなものばかりだった。
「今映ってるのが網状星雲、これは白鳥座の。地球から千六百光年も離れてる。網状星雲は、スーパーノヴァ…超新星爆発の名残なの。」
饒舌に語るナマエは、教官に褒められた時よりもずっと嬉しそうだった。
それから暫く、彼女の話に耳を傾けていた。
ナマエの声が途切れたかと思うと、画面上に流れていた星は消え、レンズ越しに見る星空がそのまま見えた。
「ごめんなさい、つまらなかったでしょう。」
「いや、なかなか興味深い話だった。」
ナマエが望遠眼鏡を外したので、俺もそれに習った。
ナマエは背を床に付けたまま、再び口を開いた。
紅く長い髪が床に広がるその様は、月下で咲く花のようにも見えた。
「教官には悪いけど、私が軍人になることは有り得ないの。」
「君のような人材を、今この国は必要としている。」
「知ってる。……私ね、婚約者がいるの。私の家は昔から吉良財閥と関係のある家柄で、それなりに大きく成長した。そこの1人娘である私は、それはもう大切に育てられたわ。けど、何か違った。」
「違った?」
「私の求める自由と、両親の与えてくれる愛の形は違った。ねえ、教官は、基山ナマエは愛国心が無いって言ってなかった?」
「それに似たようなことは。」
「…王牙学園に入学したのは、単なる反抗だったの。だから私に国のために身を捧げる気なんて最初から無い。未来なんて、決められてるんだもの…。当初両親は、私をその婚約者様に似合う淑女にするために、国の有名女学校に入れようとした。けどそんなの無理。恋も生活も時間も、何もかも縛られて生きるのなんて、嫌だった。」
「それだけの理由で?」
「それだけ、か。…そうだよ、それだけ。……貴方のご両親は幸せ者ね、こんなに理想的な息子に恵まれて。私は、とんだ親不孝者だわ…。」
ナマエの蒼翠の瞳は、夜の下では黒く見えた。
「私には、逃げる"勇気"が無い。」
勇気。
その言葉に、俺は円堂守を思い出した。
円堂守に、俺は随分と大切なことを教わった気がする。
そういえばあの時、ナマエによく似た少年がいたことを思い出す。
しかし彼は、ナマエとは異なる晴れ晴れとした表情を浮かべていた。翠の瞳には、輝く星のような光が宿っていた。
「呆れちゃうでしょう。」
ナマエはソラに向かって呟いた。
「バダップ・スリード、貴方は私と正反対の存在だわ。貴方は神に"選ばれ"て、私は"割り当てられた"のよ。」
正反対の存在だと、彼女は言った。
自分と似ていると感じていた俺は、彼女の本質を何一つとして理解していなかったのだ。
「長くなってごめん。話は終わり。私は部屋に戻る、おやすみなさい。」
「……ああ。」
ナマエがアタッシュケースを持って部屋に戻った後も、俺は暫く星空を見つめていた。
*
「…そうか。」
「はい、申し訳ありません。」
「いや、構わない。彼女の心変わりを待つことにしよう。」
その言葉に、俺は思わず口を挟んだ。
「教官、お言葉ですが、彼女の両親に掛け合うべきでは?」
「そのことなのだが……。」
教官の話によれば、ナマエの両親は彼女の人生を第一に考えると言ったらしい。
しかし、軍や政界の人間になったとしても、彼女が必ずしも幸せになるという保証はない。
何せナマエ自身が、その道を歩むことを望まないのだ。
ならば両親である自分達が、女性としての幸福を与えてやりたいというのが、彼女の両親の意見らしい。
逃げる"勇気"が無い。
その意味が分かった。
おそらく両親の言う幸福とは、経済的にも、彼ら自身が最も望ましいと考えるものなのだ。
そして、自分を愛してくれている両親だからこそ、ナマエはその思いに応えたい、望むままに生きてやりたいと考えているのだろう。
「…矛盾している。」
俺の呟きは、無機質な廊下に消えていった。
*
「…こんばんは。」
「…ああ。」
夜、俺は再び屋上を訪れた。
確証は無かったのだが、ナマエは昨晩と同じように床に仰向けになって星を見ていた。
「まだ何かあるの?」
「…違う。」
「そう……。」
俺が隣に座ると、ナマエはゆっくりと口を開いた。
「知ってる?"惑星"って、実力が未知ながらも期待される人物のことも意味するのよ?」
「いや、知らなかった。」
「そっか。」
あれは火星、と、空のとある一点を指して、ナマエが言った。
ナマエの指先には、一際強く輝く赤い光があった。
「……宇宙開発絶頂期が終わっても、火星移住計画は叶わず仕舞い。結局、期待するだけ無駄だったのかな。」
「短期間の滞在には成功している。それに、計画自体はまだ存在しているのだろう。研究者達は諦めたわけではない。」
惑星、とは、おそらく彼女が自身を例えたのだろう。
俺が彼女の"自虐"を否定すると、ナマエは驚いた顔をしていた。
「……あはは、そうだよ。きっと近いうちに実現するかもね。」
嬉しそうだった。
昨日まで何も知らなかったこの少女に、少し近付いた気がした。
「そういえば、」
「?」
「君がミストレの親衛隊に所属していると聞いた。」
「え、ああ、ははは!
うん、そうだよ。」
今度は可笑しそうに笑っていた。
「君は、ミストレが好きなのか?」
「んー。好きになろうとしたけど、駄目だった。」
「好きになろうとした?」
ナマエの言い方に、俺は首を傾げた。
「ほら、私婚約者がいるって言ったじゃない?だから今のうちに恋愛したいなって思ったんだけど、結局は決まった人と結婚しちゃうんだから、手の届かない人を好きになりたいって思ったの。」
「好きになろうという観念だけで、個人を愛することができるとは思えない。」
「そう、その通りだよ。出来なかった。」
膝を折って座っている俺は、自然と彼女を見下ろす形になる。
月がナマエを照らし、彼女の紅い髪は妖しく輝き、瞳は和かな灯りを宿していた。
「でも、高値の花は確かに素敵な人ばかりだわ。
貴方みたいに、ね。」
ナマエが、俺に向かって小さく手を伸ばした。
その手をとるべきか悩んでいると、ナマエは手をはたりと床につけてしまった。
「貴方が好きになる子も、きっと素敵な子なんだろうね。」
「何故そう思う。」
「神童、バダップ・スリードが愛する人よ?適当な女なわけがない。」
ナマエは俺から目を離すと、また星空を見上げた。
「いいなあ、私も"星"が欲しい。」
両手を宇宙に向かって伸ばす彼女は、泣きそうな顔をしていた。
「君は……」
「あーあ、いっそ宇宙人にでもなりたいなぁ。」
彼女の声は、漆黒の夜空に溶けていった。
惑星少女
軌道に囚われる惑星は
自由な流星にはなれないの
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