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窓を開けると、セミの鳴き声が聞こえた。
緩やかな風が髪を撫で、私は夏の感覚を味わっていた。
この程度の暑さであれば、空調を点けなくても困りはしないだろう。
広い室内には、私一人だけ。
並べられた灰色の長机と椅子が、"前"の学校の会議室を彷彿とさせた。
勿論、細かく見ればまったくの別物だ。ここにはホワイトボードも無いし、窓から見える景色だって全然違う。
私は暫らくそうして外をみた後、傍らの席に腰を下ろした。
…結局、私はこの場所に残ることにした。
希望の塊と称していた紙も、ファイルごと燃やしてしまった。
我ながら、馬鹿なことをしたものだと笑ってしまう。
癖がついてしまったのか、私はまだ彼等に"素"で接することができない。
一人称だって俺のままだし、女の子らしく喋るのも、いざとなると恥ずかしく感じてしまう。
でも、徐々に慣れていこうと思う。皆も、私がゆっくりと心を開いていくのを待ってくれている。
鞄から、この時代ではもう珍しくなってしまった紙媒体を取り出す。
パステルカラーの可愛らしい便箋と封筒を机に広げ、私はペンを走らせる。
文章を書き終えたら封筒に仕舞い、ハートのシールで封を閉じた。
完成したそれを愛おしげに見つめていると、誰かが部屋の扉を開けた。
「あーもうこんなところにいた!」
「ナマエ!電話したのに何で出ねえんだよ!!」
声のした方を見ると、そこには私服姿のミストレとエスカバがいた。
「…ごめん、気が付かなかった。」
というか二人共、私なんかに何の用だろう。
休日にわざわざ、校内にまで探しに来て…。
私が困惑していると、エスカバが頭をかいてため息をついた。
「はぁ…何の用だって顔してるな。」
「まったくだね、ホンっト鈍いんだから。」
二人は私のそばまで来ると、私に立ち上がるよう促した。
「つーか空調点けろよ暑っちーなぁ…。」
「そうか?」
「まあオレ達はナマエ探して走り回ってたからね……あれ、ナマエ、何それ。」
ミストレが私の手にある封筒を指差した。
「ああ、これは…。」
自分の口元が、緩やかな弧を描いたのが分かった。
「ラブレターだ。」
「へー…。手紙だなんて、今時珍しいね。」
「…っておいミストレ!!へー珍しいね、っじゃねえだろ!!」
納得するミストレの横で、エスカバが目を覚ましたように声を荒げた。ミストレも数秒の間を置いて、表情を一変させた。
「ぇ、だっ、誰に!?」
「まさかこいつじゃねーだろうな?だったら俺マジで泣くわ!!」
私は何も言っていないのに、勝手な想像でくるくると表情を変え、次々と質問を投げ掛けてくる彼等を見て、また口元が綻んだ。
「二人の知らない人だよ。」
クスクスと小さく笑えば、二人は納得いかない様子で口をつぐんだ。
「…まあいいや、どうせ時間の問題なんだし。」
「テメーにゃ負けねえよこの自惚れ男女。」
「へえ、言ってくれるじゃないかヘタレ。」
睨み合う彼等の声を聞いて、私はとある変化に気付いた。
「ミストレ、」
「なあにナマエ?」
「なんだか…声、低くなったな。」
「え、ほんとに?」
それは、僅かな変化だった。
しかしその事実は、私が生きているこの世界は確かに存在し、休むことなく鼓動し続けていることを実感させた。
「そういえば、二人共俺に何か用があったんじゃなかったのか?」
「ああ、そうそう。」
「ナマエ、今から出掛けんぞ。」
「は?」
い、今から…。
それはちょっと急すぎやしないか?
「今すぐでなければ駄目、か?」
「駄目だよ。」
妙に迫力のあるミストレに睨まれ、私は反論する気が失せてしまった。
「どこに行くつもりなんだ?」
「服買いに行くんだよ。」
「…ミストレのか?」
「いやいや、なんで俺がミストレの服選びになんざ付いて行く必要あんだよ。」
「はあ…君のだよ。」
「私?……特に衣類には困っていないんだが。」
首をかしげる私に、二人はまたため息をついた。
「いいから黙ってついて来て!!」
ミストレとエスカバそれぞれに手を引かれ、私は席を立った。
先程書き上げた手紙はポケットの中にある。
机の上に広げていた道具も、ミストレがまとめて持ってくれた。
自分が制服のままだということを指摘すれば、エスカバは問題ないとそのまま歩き出した。
「どうせすぐ脱ぐことになるんだしな。」
にやりと笑ったエスカバに、私は一瞬心臓が跳ねてしまったが、直後、それはあらぬ誤解だと知った。
「今日ぐらいは女らしい格好しとけ。」
「え?」
「ナマエってば地味で暗い色の服しか持ってないんだもん。仕方ないからオレが見立ててあげるよ。おまけに我が儘だって聞いてあげる。大サービス、嬉しいでしょ?」
「は?ちょ、あの、」
「行くぞ、あんまし時間ねーからな。」
「夕方までだっけ?」
「ああ。あんまし遅れっと、"はずれくじ"引いた奴等にシメられんぜ?」
「細工に気付かないサンダユウ達が悪いんだよ。」
この二人は一体何の話をしているんだろう。
内容も流れも一切読めないし、教えてもくれない。
しばらく頭上にクエスチョンマークを浮かべていた私だったが、彼等の行動の理由を理解した瞬間、胸が苦しくなって、血が出ない程度に下唇を噛んだ。
「ナマエ、何か用事とかあったりすんのか?」
エスカバの言葉に、私は俯いて答えた。
「瓶…」
「は?」
「瓶が欲しいんだ。小さくて、蓋付きのやつ。」
私がそう言っても、エスカバはその用途を聞くことはせずに、じゃあ帰りに寄ってくかと言ってくれた。
……瓶を手に入れたら、その中にこの手紙を入れよう。そして海に流すのだ。
見えなくなるまで見届けて、そうして本当に"さよなら"しよう。
顔を上げた私に、ミストレは優しく微笑んだ。
「他には?」
ミストレの問いに、私は少し躊躇ってから口を開いた。
「ワンピースとか、着てみたいかな…。」
小さな声だったけど、どうやら二人の耳には届いてくれたようだ。
二人は一度顔を見合わせると、同じように笑っていた。
「……。」
私は唇だけを、そっと動かした。
帰って来たら、また改めて声に出して、皆にこの気持ちを伝えよう。
――――ありがとう。
その日は、私の誕生日だった。
幸せに気付いた日
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