小説 | ナノ

自分は今どこにいるのだろう、と考えればここは桃源郷だよ、と隣で誰かが私に語りかける。目を横へと動かせば確かに人などいない。目の奥の筋肉が痙攣してひきつる。ここは繁華街の地下、ダンスフロアと呼ばれる麻薬取引所。私は麻薬を飲んでいるわけではないが、酒と煙草と、快楽を求めて、座の高い椅子へ座っている。露出の多い服を着て男と躍り狂う女を見れば、自然と笑いが込み上げてきて傍観する。自分より汚い女を見て、優越感に浸るのが私にとってはとても快感なのだ。気持ち悪いものを見る目で。蔑むような笑みで。このフロアを見渡す防犯カメラのように、脳裏へとただただ無情に書き足す。私の元の居場所へ帰ればその記憶がいいオカズになる。
しかし、今日はなんとも満たされない気分で、酒を胃へと流し込む。全く酔わない。目の前ではいつも通りの行為が行われているというのに。目を開いて焼き付けようとしても、脳へは届かず、それがアドレナリンになることもなかった。何故か、何かがおかしい。イライラして爪を爪で引っ掻き回す。無駄に時間をかけたマニキュアが剥がれ爪が引っ掻き痕で白く濁る。気持ち悪い色になった。
「隣、いいかな?」
爪を撫でていると、そう、声が聞こえて、顔をあげる。
誠実そうな美形の男性。そして、この場には不釣り合いな雰囲気だけど、でも不思議に溶け込んでいるような、そんな違和感。
「…どうぞ、」
あぁ、いまいち声が出せない。無愛想な、私の悪い癖が出てしまった。自分とも並んだら不釣り合いなその男性に、自分が惨めになって唇についたグロスを手の甲で軽く拭い取る。

「君、あそこで踊らないの?」
指さす先は女と男が色様々なライトで照らされ乱舞する、気持ちの悪いフロア。踊る気は無い。踊る人もいないし、そもそもそのために私はここに来てる訳ではないからだ。
「…踊る人、いないし、めんどくさいから」
煙草の灰が落ちてひらひらと、赤く燃え上がって消える。
「そうなんだ、…じゃあ君ここで何してるの?」
何してるの?
そう聞かれたのは初めてだった。そうだ、私は、何をしているのだろうか。自分がここにいて、何をして、何を?
この質問には、きっと私の存在意義も含まれている。答えたらいけない。今の私にはそれがわからないから。答えねばならない。それを早く見つけて桃源郷から逃げねばならないから。
桃源郷から、逃げる。楽園から私は、逃げ出すのだ。
「私は、ここで、」
隣から声が、聞こえる。隣から、逃げ出してはならない、逃げられない、君はここにいるべきだと。
警告する、隣の誰かが。
「…なにしてんだろうね」
「…自分でわからないの?」
「…わからない。ここで、ずっと私は、人を蔑んで生きてきたことしか、わからない」
そう、自分の人生は、人の不幸を、人の汚い部分を、蜜にみたて、パンというフロアに塗りつけ食べて生きている。
自分はその汚い部分か体に溜め込み、汚い人間へと成り下がっていく。どれだけ滑稽であろうか。

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