水彩の絵筆で帚く毎日 |
「ゆーり、ゆーり、おはよう」 「……………、服を着なさいなまえ」 朝、小さな手にぺちりと起こされて目を開け、たっぷりと沈黙してから溜息と共にユーリは下着一枚で覗きこんでくる子供に眉を顰める。 ゆっくりとまだ目覚め切らない身体を起こすとなまえが寝ていた筈の隣には抜け殻のように寝巻がご丁寧に人型に敷かれていた。 なぜ態々人型なのか。 視線で促すと「だって、きゅうくつなんだもん」答えにならない答えを返し頬を膨らませて寝具の中に逃げ込んだ。 素っ裸でないだけまだマシなのか。 引き取った当初は一人では寝れない(今では寝かしつけても朝には同じベッド潜り込んでいる)、朝起きれば何も身に付けていない(下着だけでも着ているのは大いなる進歩だ)、挨拶さえ知らないような子供だっただけにユーリは苦労させられたのだ。 もぞもぞと寝具の中で逃げ回るなまえをシーツごと捕まえるときゃーっと嬉しそうな声が上がる。 抱き上げながら、育児とは斯くも大変なものなのか、とぼやいた。 「いってらっしゃい、ゆーり!」 朝食が済むとなまえに見送られてユーリは家を後にする。 ヒーロー管理官兼裁判官である彼は何かと忙しい。 留守の間は母親の面倒をヘルパーに任せているし子供の面倒も同様である。 この家に初めて連れて来た時に与えたスケッチブックと絵具を持って大概は外で絵を描いているのだ、と毎回聞かされるが特に見せられた覚えもない。 少々胸に引っかかりを覚えるが問題がないのならそれでいいのだと司法局へと足を急がせた。 さてなまえと言えばユーリが不在であるととても暇だ。 玄関先で後姿が小さくなるまで見送り、ハッと思いだしたように急いで扉を閉め台を使って鍵を掛けた。 「知らない人が来ても開けてはならない」 以前言われた何処かの仔ヤギに言い聞かせるような保護者の台詞に何度も頷いて部屋へと戻った。 なまえの部屋は子供の頃にユーリが使用していたものだ。 青空のような壁紙はなまえがやってきてから変えたものだが机やベッドはそのまま引き継いだ。 こじんまりとしたそこはなまえにとって凄く広く感じられ、実はあまり好きでは無い。 部屋が、では無く独りというその空間が。 使用頻度のそう高くないベッドの下から隠してあった箱を引き出し中の物を大事そうに胸に抱いて、再び部屋を後にした。 向かう先は中庭。 家の中からも直ぐになまえが此処に居るのだと確認できる位置に座り、日がな一日、保護者が帰宅するまでの間飽きる事無く毎日空を眺めては筆を走らせる。 しかし、この日は少し違った。 「あら、ユーリ……そこに居たのね」 車椅子が少し軋んだ音を立てて止まり、見上げた先には手招きをするユーリの母親。 ちがうよ。一瞬、そう返そうとしてきゅっと唇を引き結び、未だ穏やかに微笑んだままの母親の元へ走り寄って痩せたその掌を黙って受け入れた。 夜、夕食時を過ぎてもなかなかユーリが帰ってこない。 元々小食でユーリがいなければ殆ど食事に手を付けないなまえは、暖められたスープに少しだけ手を付けてユーリのベッドに入って待つ。 落ち付く匂いに包まれてうとうとし始めた頃、僅かな物音に瞼を持ち上げた。 「なまえ……」 「おかえりなさい」 濡れた髪を垂らし、ぼうっと闇に浮きあがった姿にとろけるような笑顔を浮かべると手を伸ばしてすり寄る。 冷たくなった髪が筆の様に頬を撫でた。 「お前もそろそろ、一人で寝る様にしなければ」 「ううん、やだ。ぼく、もうひとりはやだよ」 「なまえ」 耳に掛った髪を撫でつけられ、そのまま背を宥めるよう滑り降りる指。 僅かな震えを感じ取って何度も何度も撫でられ、再びうとうとと瞼を瞬かせるなまえの隣へユーリは身を横たえた。 暖かな体温は疲れ冷えたユーリの身体に温もりを分け与え、なまえはユーリの母親とはまったく違うその掌にほっと安堵の息を吐く。 「おはようも、いってらっしゃいも、おかえりなさいも、ぜんぶいいたいの」 「ああ」 「ここじゃなきゃ、ゆーりにすぐいえないからやあだ……」 うわ言のようにいやいやするなまえ。 段々とその声は小さくなり、最後に囁かれた言葉に愛おしげにユーリは目を細める。 「おやすみ、私のなまえ」 机の上にはなまえが書いたユーリと沢山の青空が広がっていた。 |