虹色
鼻をつく独特の匂いがした。
絵の具の匂いだ。
パレットを持つ左手に、絵筆をもつ右手に、袖をまくって剥き出しにした白い腕に。
いたるところに付着している色とりどりの油絵具。
べっとりと張り付いたそれは、作業着として着ている白いシャツさえ汚している。
「今日は青が多いな」
後ろから静かに声をかけると、ぴたりと筆が止まった。
くるりと振り向いた顔のその頬にも、こすったように青の絵具。
「うん、錫也を描くから」
にこりと嬉しそうに笑うなまえの向こうには、青空であろう深い青のグラデーション。
下にいくにつれて明るく抜けていくその色合いは見事だった。
だが、そこに俺が描かれるとは思えない背景だ。
傍の椅子に腰を降ろすと、嬉しそうに微笑んで、絵具に絵筆を伸ばす。
「錫也はねー、最初はね…怒ると怖いから、赤色がいいな」
子供のような口調でそう言って、鮮やかな赤に穂先を染める。
そして、思い切ったようにぐっと勢いを付けて、大きく赤い弧を描いた。
「…俺を、描くんだよな?」
「そうだよ」
不安になって確認してみると、当たり前だと言う顔で返される。
「あとはねー、蟹座のオレンジ!」
「蟹座はオレンジなのか?」
「うん。でね、卵焼きの黄色ー」
俺はお弁当の色なのだろうか。
「それからねぇ…あ、優しさの緑かな」
目まぐるしく変わる穂先の色を、目で追いながらふと気付く。
今、彼女が描こうとしているものがわかったからだ。
「んで、目の色の青」
「…その次は?」
「星空の藍色〜」
「…最後は?」
くすり、と笑いかければきょとんとした表情で首をかしげる。
「なんで最後、ってわかったの?」
「キャンバスを見ればわかるよ」
「ちぇー…夜明けの紫だよ」
一緒に天体観測をした朝の色。
そう言いながら、紫の弧を細く描く。
「これが、錫也の色」
背景が何故青空なのかも、得心がいく。
そのキャンバスに描かれていたのは、美しい虹だったからだ。
夜に虹はできないだろうな、と思いながらキャンバスを見つめていると、ふいに絵筆が虹を塗りつぶす。
「お、おい?」
「まだ終わってないよぉ」
今度はこちらを見ようともせず、真っ赤に青空を染めていく。
次はオレンジ、黄色、緑…と、美しく並んでいたはずの色を自由奔放に重ねていく。
どんどん濁っていく色は、先程の美しさなど微塵も感じさせてはくれなかった。
最後の紫を塗りたくったとき、そこにあった色は、黒だった。
所々に混ざりきらない赤や青が見える。
毒々しいと言うか、生々しいその色合いに、なまえは満足気に笑みを浮かべた。
「錫也の色だよ」
にんまりと笑うなまえは、悪気は全くないらしい。
「嫉妬深くて、世話焼きで、優しくて、一歩間違えたらすごーく怖いの。でもね、とっても綺麗なの…」
うっとりとした目つきでキャンバスをみるなまえは、この上なく可愛かった。
指先が虹色に染まっている。俺の色、と言ってくれた色に。
指先だけじゃ足りない。
身体も、心も全部、俺のこの色に染まってしまえばいいのに。
腕についた絵具の、赤は羊を、緑は哉太を思い起こさせる。
途端に血が上ったようになって、たまらず腕を伸ばして抱き寄せると、絵筆とパレットが音をたてて床に落ちた。
すずや、と俺の名前を紡ぐ唇を視界の端に捕えて、強く強く抱きしめる。
色にさえ嫉妬を覚えるほどに依存してしまう俺には、確かに黒が相応しい。
――――――
H24.4.15
初錫也。黒錫也。