やり忘れたことは無いだろうか、部屋に埃が落ちていたら、片付け忘れているものがあったら、どうしよう。
 毎日この時間になると、ほんの小さなことでも不安に感じられてしまって全身に緊張が走る。白い壁に掛けられた精巧な作りの時計は少しずつ針を進めていき、私はその音を聞きながら彼の帰りを待っていた。
 彼――この家の主である、零児さんを。

 お見合いという形で出会った彼の第一印象は、物静かで理知的な人だなあというものだった。あのレオコーポレーションの社長という位置に若くして就いているだけあって、同い年だというのに随分と年上のように感じられてしまったものだ。それは今でもそう思うことは多いし、実際私よりも何歩も先を歩いている人だけれど、彼と過ごしていくうちに少しずつ年相応な一面も見せてくれるようになっていって、私は内心とても驚いて、そして嬉しくも思った。親同士の取り決めで生涯の伴侶が決まるなど言語道断、とんでもない不幸だ! と嘆いていた当初とは違い、私は少しずつ彼に惹かれていったのだ。
 そして今、こうして私たちは同じ家に住んでいる。……夫婦、として。
 玄関の戸が開く音を聞いて、私は急いでそこへと向かった。ちらりと時計を見れば帰宅すると告げた時間丁度の時刻で、彼の几帳面さにほんの少しくすりと笑ってからお出迎えの準備をする。

「おかえりなさい、零児さん」
「……ああ、ただいま、なまえ」

 いつも通りの堅い表情、けれどほんのりとそこに優しさが混ざっていることを、私は知っている。
 彼から上着を受け取ってハンガーへと掛ける。彼は洗面台へと向かい手を洗っているようだった。些細なことではあるけれど、こうして当たり前のことを当たり前に私の前で見せてくれる姿に、私はいつでも胸を躍らせているのだ。
 その後はすぐに夕飯の仕上げを行ってテーブルに並べ、二人でいただきますと手を合わせるのが日常だった。先に全てを作ってしまうより、なるべく出来立てのご飯を食べて欲しいという私の我がままでそうさせてもらっている。私にも用事があるときは流石に作り置きになってしまうけれど、それでも彼は毎食必ず美味しかったと言ってくれるから、私は食事の用意をする時間に喜びを感じていた。
 私はいつものように夕食の最後の仕上げをして零児さんが席に着くのを待っていたのだけれど、全ての料理を並べ終わってもリビングへとやって来ない零児さんに首を傾げる。普段であれば既にそこにいるはずの彼がいないというのは、ここのところ同じ毎日の繰り返しだった私にとっては随分と奇妙なことのように感じられた。不思議に思った私はエプロンを外してから先ほどまで彼がいたであろう洗面台の方へと向かったところ、彼は何かを思案するような面持ちでそこに佇んでいた。知的な印象を受けるその眼鏡の奥では、何を見て何を考えているのだろう。零児さん、恐る恐る声を掛けてみると、やはり彼はいつも通りの表情のまま、しかし予想だにしていなかった発言が飛び出してきたのだ。

「夫婦の間では定番となるような会話があるらしい」
「……えっと、なんのことでしょうか」
「帰宅時に妻の方から告げるものだと聞いた」

 彼の様子はいたって真面目で、私は必死に彼の言わんとしていることを考えてみた。定番の会話なのであれば私たちの間でも既に交わされていそうなものだけれど、彼の言いぶりから察するにどうやら未だ口にしたことの無い類の会話なのだろう。だとすれば私たちのような新婚の間柄ではなく、もっと時間を経てから自然と交わされるようなものなのでは?
 そこまで考えたところで、彼の言葉を今一度反芻する。帰宅時に、妻から。私はふと、思い当たる節があった。そして彼に限ってそんなことを言うはずが無いだろう、いやそれでもそれが一番的確な答えなのでは無かろうか、いやいやそんなはずは……と一人頭を悩ませることとなる。自分の顔が赤くなっていくのがよく分かった。
 つまり、彼が言いたいのは。

「れ、零児、……さん」

 彼はぴくりとも動かず私のことを凝視していた。益々恥ずかしくなってきて、これでもし彼の欲していた言葉と違っていたのだとしたらとんでもない勘違い、早とちりではないかと、更に羞恥心ばかりが募っていく。

「ご、ご飯にしますか、お風呂にしますか、そ、それとも……」
「それとも、なんだ?」
「え、えっと……その……」

 どんどん恥ずかしくなっていって、私は彼のことを直視できず目を逸らす。その先に続く言葉は確かによく耳にする文句ではあるけれど、まさか私もそれを言うことになるとは夢にも思っていなかったのだから。彼の様子からしてご所望の言葉はこれで合っていたのだろう。だからこそ驚き戸惑っているのである。真面目で知性的で俗世とはおよそ関わりの無さそうな彼が、こんな少女漫画のお決まり事のようなことを求めて来るだなんて。

「わ、わた……」

 もしこの三択を提示したとして、彼は何と答えるのだろう。いつも通りにご飯を食べる? 確かに彼のことだ、ご飯が冷めてしまう前に早く食事を摂ろうと言う合理的な判断を持ってそう言ってくれるかもしれない。お風呂だと言われたら、今から湯船を張らねばならないため少々時間が掛かってしまう。だとすればやはりお風呂の準備が出来るまでに夕食を、となるのだからここの二つにそう大差は無いように思える。
 問題は三つめの選択肢だった。具体的に何を求められるのかは、分からない。けれど零児さんからそうやって直接的に私自身を求められたことが無かったから、私にはまるで想像のつかない、未知の領域であることは確かだった。それとも、私にしますか、……ううん、だめ、やっぱり恥ずかしくて言えるわけが無い!

「私、あの!」
「――冗談だ」

 へ、……?
 思わず気の抜けた声が漏れてしまった。零児さんは見たことも無いような微笑を浮かべていて、私には更に何が何だか分からなくなってしまう。

「少しからかってみたくなっただけだ。深い意味は無い」

 彼はまるで何事も無かったかのように私の横を通り抜けてリビングの方へと向かって行った。私は一体この数分の問答は何だったのかと膝を抱えたくなる衝動を堪えて、なんとか溜息を吐くだけに抑える。冗談を言うような人では無かったし、人をからかうような人でもなかった。私が知らないだけでそういった一面もまだまだ隠していたのかもしれないけれど、それでも彼を知る多くの人は口を揃えて私と同じことを言うだろう。
 少し冷めてしまっているであろう夕食のことを思って再び溜息を吐きかけるも、廊下で立ち止まりこちらを振り返った彼の言葉で、私はまた驚きと戸惑いに苛まれることになるのだ。

「たまには、妻の可愛らしい姿を見たいと思っても良いだろう」


20151025

悪意無きイタズラ

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