「幻影の分際で騎士を名乗るなんて、笑わせてくれるわ」

 宵闇に紛れるようにしてそこに佇む彼女は、足元から夜に溶けていきそうなほど存在が希薄であった。地に足を付けず、故に足音は響かず、鋭く光るその瞳の色が無ければ亡霊であると言われても頷けてしまうほどだ。そう彼女に伝えてみると、あなたにだけは言われたくないわねと返された。確かにそうだ、ファントムと呼ばれる俺にだけは言われたくも無かろう。
 ついてきなさい、透き通るような声色を静寂の夜に響かせて、彼女は俺の手を取った。細く冷たい彼女の指先が、俺の指を絡めとる。まるで恋人同士のような甘い繋ぎ方に溜息を吐きそうになるのをぐっと堪えて、なるだけ足音を立てないように彼女の背中を追った。

 彼女との出会いは未だ記憶に新しい。それは今宵のような新月の日、追手を撒くために町中を走り回っているとき、偶然駆け込んで行った路地裏で正面からぶつかってしまったのだ。まさかこんな場所に人がいるとは思っておらず、しかし迫り来る追手のこともあり悠長に謝罪を述べている暇もない。どうしたら良いものかと思案しているうちに、むくりと地面から起き上った彼女は俺を咎めることもせず、俺の手を取って走り出したのだった。
 訳も分からないまま彼女のあとをついて行けば、どうやら彼女の家へと案内されたようだった。上がって頂戴、そう言って彼女は家の中へと俺を押し込む。何の変哲も無いアパートの一室だった。
 あなた、噂のファントムでしょう? 安っぽい蛍光灯に照らされた横顔は、面白いおもちゃを見つけたとでも言わんばかりに弧を描いていた。

「夜が明けたら勝手に出て行って良いわよ。お腹が空いたのなら冷蔵庫の中身も漁ってくれて構わないわ」
「ああ……いつもすまないな」

 あの日以来、時たま夜の街中で鉢合わせては彼女の家に上がらせてもらうようになった。逃げ回る生活を送っているため定住の地を持っていなかった俺たちには、正直なところありがたい申し出であったのだ。未だに彼女の名前すら知らず、どうして俺たちを招いてくれるのかの理由さえ聞いていないというのに。
 彼女が普段どういった生活を送っているのかは知らない。一度、特に誰かに追われているわけでもない日中にここを通り掛かり、ついでに部屋の中を覗いてみたのだが誰かがいるような気配は無かった。カーテンを閉め切り、生活音の聞こえない部屋の中。彼女が住んでいるという痕跡すら感じさせないような静寂。彼女は夜にしか生きられない亡霊なのではないかと、そう思ってしまうのにはそういったわけもある。
 部屋の中を見渡す。確かに人が住んでいることを感じさせる部屋だった。

「ねえ、ファントム」

 彼女は何も無償でこの隠れ家を提供してくれているわけではなかった。初めて会ったあの夜には、確か部屋を掃除してくれと言われたような気がする。大して散らかっているわけでも無い部屋を見回して困惑する俺に、形だけでも対価を支払うことが大切なのだと彼女は言った。ギブアンドテイクを成り立たせておいて、後々面倒ごとに発展するのを防ぐためだという。俺は一人頷き納得して、ごみをまとめたりだとか、簡単な掃除を行ってからもう一度礼を言い、その日は彼女の部屋を後にした。
 その次は、思い出話を聞かせてくれ、だっただろうか。ファントムにも人間らしい思い出はあるんでしょう、と。彼女はくすくすと笑いながらそう言った。話せることが少ないことなど初めから分かっていたのだろう。俺の話す俺たちの軌跡を聞きながら、要領の得ない話しぶりねと笑っていたのを覚えている。
 さて、今日はどんな対価を求められるのだろうか。これまで求められてきたものは一度として被っておらず、毎回何を口にするのかと密かに楽しみにしている自分もいた。前回はネタが尽きてきたのか近所のコンビニに行ってお菓子を買ってきてくれだったのだが、出来ればそう言った危険な行動以外にしてほしいとは思いつつ。

「抱いて、って言ったら。流石に怒るかしら」
「……よく耳にする話だな」

 彼女の口ぶりは冗談めかしているわけでも真面目なわけでもなく、いつもの通りの軽い調子で非常に反応に困るものであった。洗い物を片付けて欲しい、まるでそんな些細な言葉を口にするのと同じようなトーン。それに、抱いてほしいと言うわりに、別段俺の身体を求めているようには思えなかった。行為に飢えている様子でも無い。本当に、そう。単純な好奇心とでも称するべきだろうか、彼女の瞳の色は。

「あなたが本当に私たちと同じ人間なのか、不思議に思えてきたのよ。あのレオ・コーポレーションが執拗に追いかけている幻影なんて、まるで都市伝説のようじゃない」

 だから、教えて?

 そう言って彼女が見せた笑みは、これまでのものとは違う妖艶なものだった。あの細く冷たい指先が頬に触れる。
 人間なのか否か。確かにそれは、俺としても気になるところであった。地に足がついていないかのように、夜闇に溶け込む亡霊の如き彼女の存在。本当にここに在るのかと度々疑問を抱いてしまう彼女を、この手で確かめることが出来ると言うのなら、それはまたとない申し出だった。
 薄暗い照明の下で、俺は彼女の指先にそっと口付けた。
 この夜が明けるまで。俺たち二人は、ただの人間になる。



20150921

星が落ちてくる

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