水銀の蛇

 私は部品を名乗ることすら許されないのだという。世界を構成する塵芥の一つ、取るに足らない小さな存在。彼が女神のために用意した世界に比べて、私はなんて小さいのだろう。女神の目に、黄金の目に、何者の目にも留まることなく私は世界の片隅を生き続けていく。それが真理、覆せない絶対の法則。しかし、何の因果が働いたのか、私は今こうして水銀の蛇と対峙している。この世の影を掻き集めたかのように色の無い存在でありながら、彼はこの世の全てを掌握しているのだという高慢に満ちていた。私は色々な感情に飲み込まれそうになるのをこらえで彼を見つめている。女神の姿しか映さぬという彼の瞳に私が入り込むことなど出来まいと知りながら、それでもこうして再び、何度目になるのか分からない邂逅を遂げて、私は彼の目の前に確かに立っているのだ。
 メルクリウス。彼を示す名前の一つを口にした。女神は彼をカリオストロと呼ぶし、黄金は彼をカール・クラフトと呼ぶ。彼はメルクリウスであり、カリオストロであり、カール・クラフトである。名前のみがその存在を表す記号であるとは思わないが、彼の場合はただでさえ存在が気迫なのだ、更に曖昧さを生むような名前の多さには些か眉を潜めてしまう。

「さて、また会ってしまったようだが、何度も同じことは言わせないでほしいものだ」
「……なら、いい加減首を縦に振りなさいよ」

 会うたび、彼は不機嫌そうな顔をして、私が用件を伝える前に拒否を示すのだ。私はやりきれない気持ちを抱えて、それでも少しでも彼と共に同じ地を踏んでいたいと他の話題を考える。……いつも、何も思い付かないまま時間ばかりが過ぎていき、気付いたときには彼の姿が見えなくなっているのだが。
 しかし、解せない。私が毎度口にしているのは、とても簡単な話なのである。それすなわち、この世界、この宇宙から、私の存在を消し去ってしまってほしいと、それだけだ。彼の力を持ってすれば大した話ではないだろう。自分で命を断つだけでは回帰の理から抜け出せないが、水銀の蛇たる彼なら話は違ってくる。理から丸ごと、私が存在した痕跡を葬ることなど目を瞑ってでも出来るに違いない。

「あなたの世界の一部であること、光栄に思うわ。けれど私がいなくとも世界は廻る。幾度となく繰り返されて磨り減った私の人生に未知など微塵も存在しない。そうでしょう、既知を厭う水銀の蛇」
「ああ実に滑稽だ、お前は何も理解していない。お前が消滅したところで世界の理に軋みなど生まれぬのは確かであるがね」

 彼は未知を愛し既知を排さんとする存在だ。彼の理は永劫回帰、決して止まること無く同じ演目を延々と躍り続ける舞台である。しかし、いやだからこそ、彼はただ一人の女神を愛した。首を断つ呪いを身に宿しながらも、他者を抱き締めたいと渇望する美しき女神。ああ、彼でなくとも心を奪われるだろう。私も例外ではない。
 女神の世を流れ出させることだけを夢に見て世界を繰り返す彼を、しかし私は愛していた。叶うはずの無い、途方もない夢。彼のそれと比較など出来ようはずも無い。足掻くことすら許されないというのなら、いっそ存在を消してほしいと、そう願うも彼は薄く微笑んで否定を示すばかりであった。

「そうして悩み苦しむお前を眺めているのは、なかなかどうして嫌いになれぬ既知なのだよ。故に消えるな、私のために」
「……我が儘な神もいたものだわ」

 ほら、また。あなたは私を喜ばせる術を知っている。このやり取りだって、何度も繰り返された既知であるからだ。何度も何度も、世界が終わりを迎えて始まる度に、私はあなたに恋をする。そしていつだって消えてしまいたいと願い、私も愛する既知であると言うあなたの言葉を聞いて、ささやかな悦びに身を震わせるのだ。
 ああ、だからどうか、この回帰の理が未来永劫続けば良いと、そう思う。いつの間にか姿を消していた彼に想いを馳せてそう呟いた。ツァラトゥストラなど要らない、黄金錬成など果たされてたまるものか。女神の理はさぞ美しかろうが、私はそんなものに俄にも興味を抱いていないのだ。彼の世界の片隅で、彼と出会う既知だけを愛している。それが、私の中の絶対の法則、至高と信ずる世界の姿であった。

2013/10/06 02:02



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