異臭がする。
自主練帰りに寮の玄関を開けると、屋内がやけに焦げ臭い。はじめは気のせいかと思って部屋に向かっていたが、いつまでたってもにおいは消えない。鼻にまとわりつくそれに、氷室は眉をひそめた。どうやらこの異臭は寮全体に広がっているらしい。寮全体に、と言っても異臭が立ち込め、呼吸しづらいというレベルには程遠い。火事にしては勢いが弱すぎる。何より化学物質特有の刺激臭がない。

火事というよりかは、これは――

部屋に戻るよりもその原因がなんとなく気になって、氷室はにおいが濃くなる方へと歩を進めた。
その間、いろんな部屋に立ち寄った。管理人室、浴室、食堂エトセトラ。
そして最もにおいが立ち込めていたのは、氷室の予想通り寮に備え付けられた台所だった。しかし、既にそこはもぬけの殻で、人っ子一人いない。あるのは小麦粉で汚れたボウルなどの洗い物と無惨に割れた卵の殻ばかり。白く汚れたシンクにはレンジの回転皿ごと放り込まれた謎の黒い塊があり、凄惨たる状況だ。
焦げ臭いにおいの原因はあっさり見つかり、氷室の調査は一応終了した。しかし原因は見つかったものの、この原因を作った元凶は依然行方をくらませたままだ。
そして料理を失敗し、拗ねて全放置なんて子供っぽいことをする人物は、氷室の知るなかでもたった一人だった。

その人物を探すため、氷室はまだ見ていない最後の部屋へと向かう。寮の談話室である。
到着し、室内を見回してみると、巨人と見まごうような体格の人物が数人がけのソファから長い手足をはみ出させて寝転んでいた。いろんなものを拒絶する丸まった背中と、ゴムで縛られた黒紫色の髪が牛の尻尾のようにだらりと垂れている。氷室は苦笑しながらもその大柄な背中へと声をかけた。

「何してるんだい、アツシ」
「…………」
「アツシ、いくら初挑戦のお菓子作りに失敗したからって、そんなに拗ねなくてもいいだろ」
「……うるさいよ室ちん」

それに、拗ねてなんかねーし。
ぶすっとした声で、氷室を一切見ずに紫原敦はようやく返事をした。やはり犯人は紫原だったようだ。指摘され、ますます空気を悪くしている。まるで小さな子どもだ。そしてゆったりとした足取りで紫原の方へ歩み寄り、ソファの傍でしゃがみこんだ。

――タイガといいといいアツシといい、どうして俺の周りには年下ばっかりが集まるんだろ。氷室は緩やかな微笑みをたたえながら、紫原を眺めた。その光景はさながら兄弟のよう。

「アツシがお菓子を頑張って作ろうとしたって事実だけで、なまえは十分喜んでくれるさ」
「……なんでなまえが出てくんの」
「なまえにあげようとしたんじゃないのか」
「…………ちがうし」
「そうなのか? 俺はてっきり、」

むくりと巨体を気だるげに起こした紫原の表情は、苦虫を噛み潰したかのように歪んでいた。予想以上に機嫌が悪い。

「違うって言ってんだろ!」

紫原に突然怒鳴られるも、氷室の涼しげな瞳は変わらない。紫原が他人の何気ない一言で癇癪を起こすなど、日常茶飯事。嫌でも慣れてしまうのだ。氷室は紫原の様子など気にも留めず、自らの疑問を口にする。

「じゃあなんでお菓子なんか作ったんだ?」
「うっざ」
「いつも買った方が早いってぼやいてたのはアツシだろ」
「…………」
「アツシ」

氷室の真剣な眼差しに気圧され、紫原はばつが悪そうに顔を背ける。暫し沈黙に包まれるも、氷室はまるでバスケをしているときのような面持ちで紫原が口を開くのを待っていた。ひたすら、ただ待っていた。
ちらりと氷室の様子を窺い、居心地が悪そうに視線は揺れ動く。氷室辰也は良い意味でも悪い意味でも真面目な堅物だ。紫原よりよっぽど頑固な彼は、こうなったら梃子でも動かないのは目に見えている。

「……笑わない?」

蚊の鳴く声で、そろそろと呟く。悪戯を白状する子供のような仕草をする紫原に氷室は曇り一つない笑みを向けた。

「笑わないさ」
「ほんと?」
「本当」

ようやく観念したのか、紫原はことの真相をぽつりぽつりと話し始めた。

「お菓子作りの何が楽しいんだろうね」

ごそごそと紫原の背後から出してきた大きなガラスの入れ物には、数枚だけクッキーが入っていた。形は全く円状ではなく歪だったが、色はこんがりとした狐色に焼き上がっている。一部ほんの少しだけ焦げてはいるが、氷室が台所で目撃したものよりはよっぽどクッキーとして成り立っていた。

「焼いてみて、まともに食べられそうなのこんぐらいだったよ。あんなに時間かけたのにほとんど焦げカスだったし。ちゃんと出来たのもうんこみたいだし」
「いやそんなことはないんじゃ……」
「うんこだよー。なまえのとは雲泥の差。なんか食感ももそもそしてるもん。やっぱ買った方が早いわ」

食事の際は決して口に出してはいけない単語を平然と言ってのけながら、紫原はクッキーを取り出し、かじる。それはぱきっと音を立てることなくソフトクッキーのような柔らかな食感だ。なまえがいつも紫原に作っていたものとは程遠い。

「……なんで好きなのかなって思ったんだよ」
「え?」
「お菓子作り。なまえはなんであんなに夢中になれるんだろうねー。俺、好きとかわかんないし。本当、訳わかんないから。だからやってみたらなまえの気持ちわかるのかなって思ったけど、やっぱわかんない」
「そうか……わからないか」
「うん、さっぱり」
「なるほどね……じゃあアツシ」

立ち上がり、紫原を見下ろしながら氷室は手を差し伸べる。


「なまえのところに行こうか。クッキー持ってね」

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