今吉が所属する研究室では月一で飲み会がある。個人個人が外に飲みに行くことは多々あるが、この飲み会は研究室内で行われるものだった。凝り性の教授は酒をたしなむどころか日本酒焼酎ワインと種類を問わずコレクターと化しているところがあり、秘蔵の酒を開けて諏佐や教授らとちびちび飲むのが今吉の飲み会での楽しみでもあった。
青峰が悪酔いしながら一気飲みをし、桃井がそれを必死に止め、若松が叫び、桜井が泣きながら謝る。生徒も元気が有り余る二十代の若者ばかりのため、毎度のことながらこの飲み会は騒がしい。そんな混沌とした状況を見守りつつ、芋焼酎の入ったグラスを片手に今吉はいつも通りに笑っていた。



――みんな酔っぱらってるなぁ。

騒ぐ同僚達を眺めながら、喧騒から少し離れたところに腰を下ろし、なまえは一人酎ハイを飲んでいた。若松に絡まれ、あまりの喧しさやめんどくささに桃井と共に中心から逃走したが、青峰が暴走し出したために桃井はなまえの元を離れてしまった。多少酔っているのか、「大ちゃん」という昔の呼び方に戻っている桃井を微笑ましく思いつつ、空になった酎ハイの缶を床に置いた。
そして談話室に併設する台所へ。次に飲む酎ハイを求めて冷蔵庫を物色するが、結局何も選ばずになまえは自身の手を引っ込める。

――頭がぼーっとしてきた。

少し休憩しなければ、となまえはミルクティの入ったペットボトルへと手を伸ばした。

「何してるんや」

ペットボトルを掴み、冷蔵庫の扉を閉める。振り返ると、なまえの予想通りの人物が立っていた。しかも、何か悪いことを考えている顔をして。頭は煩いぐらいに彼に対して警鐘を鳴らしている。

「ちょっと酔ったのでお酒はお休みしようかと、」

思って。と言いかけたのを遮るように、ふらりと近寄ってきた今吉はなまえからペットボトルを奪い取った。

「全然酔ってへんやん。酔っ払いはあいつらみたいなんをいうんや」

無理矢理桜井に日本酒を飲ませようとする青峰を指差す今吉。つられてそれを眺めたなまえは、関わらないように堅く心に誓った。
しかし、ここには酔っ払いよりよっぽど質の悪い人間がいる。その片手には日本酒の一升瓶と大きめのグラス
。なまえはうんざりしながら今吉からペットボトルを奪おうとするが、ひょいとかわされあえなく失敗した。

「……勘弁してください」
「なんが」
「それ私に飲ませるつもりですよね? 絶対無理!」
「大丈夫、一杯だけやって。な?」

この人は一体何を期待しているのだろう。それがなまえの純粋な疑問だった。
そしてなまえが逡巡している間に持ってきていたグラスに酒は注がれ、なまえの手に押し付けらる。手の中に収まってしまえば、酒を易々と捨てられやしないなまえに、飲む以外の選択肢は存在しなかった。心底嫌そうな顔をしてなまえは今吉を見上げるが、彼は無言で飲めと言う。水面に映る情けない表情の自分がゆらゆらと揺れた。
押したら呆気なくなまえは飲む。そのことを、今吉は理解している。

「ま、せっかくの飲み会やしちょっとぐらいええやろ。意外と酒もええもんやで」

実際、なまえはグラス一杯分の日本酒に挑戦したことは一度もない。興味深げにじっくり眺め、鼻を近付けて嗅ぐと、つんとした香りが鼻孔を激しく刺激する。

「エタノールのにおいがする!」
「失礼やでそれ。これ自分にはわからんぐらいええ奴なんやからな」
「だからそんな良いものいらないですって!」
「びーびー言わんとはよ飲めや」

諏佐や教授である原澤に藁をもすがる思いで救護要請の視線を送るが、彼らは青峰に気をとられてこちらの状況に気付いていない。その視線の意味を、息をするかのように目敏く察知した今吉は、なまえという哀れな子羊を軽く笑った。

「だーれも助けてくれんて。無駄や無駄」
「うっさいです」

にやにやと笑う目の前の男がひたすらに憎らしい。

「そんな目ぇしても知らん。さっさ腹決めた方が楽や思うで」

覚悟を決めてなまえはグラスを強く掴んだ。
この酒を飲み干したとき、自分はどうなるのだろうか。酎ハイ一缶で足元がふらつき、酒が飲めなさ過ぎて青峰から可哀想なものを見る目で見られるなまえが、日本酒をぐいっと飲む。これは彼女にとって未知の領域で、何が起こるかわからない。しかし飲まなければもっとどうなるかわからない。自分の身は可愛い。目の前の男は悪魔だ。逆らってはいけない。
なまえはようやく腹を括った。

「よし!」

気合いを入れ、グラスに入った日本酒に口をつける。最初ほんのりとした甘味は感じたが、それからはアルコール特有の苦味が怒濤のように押し寄せてくる。この苦難から早く逃れるために、いっそ一気飲みをした方がいいのかという悩みは吹き飛んだ。無理。初めてのまともな酒の味にあっさり敗北したなまえは、一度グラスから口を離し一頻り咳をしたあと、日本酒をゆっくりゆっくり嚥下し、時間をかけて飲み干した。

「ぷはー!」

喉の奥から気化したアルコールを吐き出すように口を開ける。

「どーやった? 初日本酒の味は?」
「…………先輩ハ大人デスネ」
「まあ、自分よりはな」
「大体先輩は……っ!?」

二三憎まれ口を叩いてやろうと口を開けた瞬間、かあっと顔に血が集まる。心臓の拍動がやけに頭に響き、それもいつにもなく激しい音だ。

「あ、れ……?」

自分の体の変化についていけず、なまえは熱くなった頬に触れた。冷たい指先が肌に触れる感覚がやけに鋭敏に感じられる。目の前にいる今吉を見ていたはずなのに、うまく焦点を定められない。

「みょうじ?」
「ん、」
「ちゃんとこっち見ぃ。どないしたん自分」

ぼんやりとした表情で、なまえは顔を上げる。

「あつい……」

何故か目に涙が溜まる。立っていられなくなり、その場にしゃがみこむと、投げやりに床にグラスを置いた。ぞくぞくと何とも言えない感覚が背筋を走り、息が上がる。座れば多少治まるかと思ったがそうではなく、じわじわと血の巡りが早くなり、身体中が沸騰したような錯覚に襲われる。その慣れない状態がなんだか怖くて、なまえはぎゅっと自分を抱き締めた。

「ちょっ、は? みょうじ? 大丈夫かお前」
「――だいじょーぶ、です……」

そうは答えてみたものの、なまえの頭の中は大丈夫じゃなかった。

――ぎゅーって、したいなぁ。

「へ?」
「ん? なんや?」

やや心配そうになまえを気にする今吉は正直相当珍しい。あの今吉が気持ち悪いほどに優しく自分を呼んでいる。いつものなまえなら新種の動物を発見したようにテンションが上がるだろう。
しかし、今はそれどころではない。ぞわぞわとざわめく神経を抑える。粟立つ皮膚が不愉快だ。何より、唐突に沸き上がった正体不明の欲に、歯止めをかけるのに必死だった。今吉のことは好きだ。先輩として、そう先輩として、尊敬している。いやらしい目で見たことは一度もない。それなのに、今自分は今吉に甘えたくて仕方がない。できるなら抱き締められたいし、抱き締めたい。彼を直視してしまえば、自分の緩んだ思考なんか途端に筒抜けになってしまう。それが考えなくともわかるかるからこそ、なまえは名前を呼ばれても顔を上げられなかった。

「っ、……ん、です」
「なん? 聞こえへんわ」

思いの外声が小さかったのか、あろうことか今吉はしゃがみこんで顔を近づけてきた。はっとして距離を空けると、今吉は不可解といった風に眉をひそめた。これはよくないとなまえは仕方なく顔を上げ、はっきりと告げる。

「近寄らないでくださいっ」
「はあ? なんでや」
「なんでって……今理性が本能げしげし蹴り倒してますからね! 駄目なんです!!」
「……意味がわからん」

じぃっとしゃがみこんだまま頬杖をつき、しばらく今吉はなまえを無表情に見つめた。

「ワシに何してほしいん?」
「……え?」

いつもの会話の一部のように、何気無い口調で尋ねられたため、反応が遅れた。今吉が口角を意地悪くつり上げたのを見た瞬間、全てバレてしまっていることを悟る。眼鏡を押し上げ、今吉は改めて赤くなったなまえを見据えた。

「顔見たらわかるわそれぐらい。えらい言いにくいことらしいけど?」
「な、別に、別に何にもして欲しくないですっ」
「ほんまに? そんなつれんこと言わんで、遠慮せんと言うてみぃて」」
「……う、」

なまえは今吉の声を発する薄い唇を見つめた。無意識に自身の唇を撫でながら。酒により涙が溜まった瞳は、とろんと今にも蕩けてしまいそうなぐらい潤んでいた。熱っぽく息を吐き出し、赤い舌がちろりと唇を舐める。どんな感触なんだろう、どんなに気持ち良いんだろうと、「今吉にしてほしいこと」ばかりを考えてしまう。しかし、口に出してはいけないと、冷静な理性が欲望全てを抑え込んでいる。ふるふると首を振り、「や、だ」と譫言のように呟くと、薄く目を開いた今吉ににんまりと笑いかけられ、ぞくりと背筋が震えた。

「酒飲んだら想像以上にやらしいやん自分」
「……っ!!」

今吉の台詞にはっと我に帰る。慌てて視線をそらしたときには、全てが遅かった。

「おねだりすんねやったらしてやらんこともないで」
「……いら、ない、です」

なまえの頬を手の甲で撫で、指先で唇に触れながら、今吉は顎に手をかける。

「せんでええん?」
「何をですか、」
「それは自分の口で言わんと面白ないやろ」

からかわれているだけだと、なまえは必死に自分に言い聞かせる。ここで本音を言ってしまえば、一生笑いものとして彼にいじられるのだ。やらしい奴、と飲み会の酒の肴にされてしまう。そうに決まっているのに、何故だろう。今素直に言ってしまえば、問題なくそれが聞き入られるような気がして。それを言えば、何かが変わってしまう気がして――そこで一気になまえは尻込みした。

「……大丈夫ですから」
「そうみたいやな」

ぱっと手を話すと、今吉は先程の空気などなかったかのように立ち上がる。

「飲ませてすまんかったな、」

そう言いながら距離をとろうとすると、台詞が止まる。そこを見下ろせば、案の定なまえが今吉の裾を引っ張り、繋ぎ止めていた。

「みょうじ?」
「…………ですか」
「はっきり言わんとわからへんで」
「先輩」
「ん?」
「違うおねだりしてもいいですか」
「うん、ええよ」

今日は無礼講だから、きっとわがままを聞いてくれるだろう。なまえは自分の言葉を待つ今吉を見上げた。恥ずかしいことを口にする、そう思うと今吉から目をそらしたくなる。本来なら心の準備が必要だ。しかし今日だけは酒のせいだと言い聞かせて、恥ずかしくなるのを何度も宥めた。

「もう少し、先輩と一緒にいたいです」
「……ほんま酔ったら甘えたなんやな」

少しだけ困ったように、今吉は苦笑する。そしてゆったりとなまえの傍に再び腰を下ろすと、ぞんざいに置かれたグラスを手に取り、なまえへと向けた。

「酌してくれるんやったら、一緒におってやらんでもないで?」

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