本日は、晴天なり。 雲一つない青空ってのは多分今日のことだと思う。というか、今日のことだ。自信を持って断言しよう。にしてもよくもまあここまで綺麗に晴れるものだ。校長に言わせれば「皆さんの日頃の行いが今日のこの天気に反映されたのでしょう」といったところだろうか。そんなはずがないだろうに、馬鹿馬鹿しい。 ふう。 普段よりも深い吐息に乗った煙草の煙が上に向かって浮上して、宙に消えていく。その様子を目で追っていたら、天井にある不快な文字が私の視界の約八割を支配した。糞食らえ。私の憩いの場を、憩いの時間を邪魔しやがって。内心悪態吐きながらもまだ長いままの煙草を携帯灰皿に捩じ込む。 『校舎内禁煙』 なかなかの達筆だが、まあおれには敵わないかな。ふと、この文字を書いて掲示していった生徒の様子を思い出す。古澤せんせ。校舎内で煙草を吸ってはいけないの、知ってる?とか生意気な面引っ提げて楽しそうな声音で問い掛けてきたあいつは、いまは何をしているのだろうか。 そうだ、言い忘れていたが今日は秋の体育祭。の、前日準備。 本来ならば養護教諭である私は校庭の救護テントに行かなければならないのだが、9月になっても一向に下がる様子を見せないこの気温に熱中症になる生徒がでるかもしれない。クーラーのついた保健室での救護にすべきだと校長に直接交渉した結果、ここで一人涼んでいるという訳だ。このまま生徒なんて来なければいい。 ドアが開いた。ひょこ、と顔だけが現れる。 「古澤先生。ちょっとええ?怪我人」 ――…確かにおれは生徒なんて来なければいいと思った。確かに生徒は来ていない。だがしかしだからといって先生がくるのは、もっとうざったい。さらに言えば国語教師のこの彼、エアルくんはもっともっとうざったい。まず何を喋っているのかわからない。異国語だ。それに、なんか、なんとなく、気に食わない。心当たりは、ないこともない。 「はいはい、どうしたのエアルくん。怪我したの?お茶目だなあエアルくんは。」 薬品棚を通過して、簡単な治療のための道具――消毒液やピンセット、ガーゼや絆創膏――の置いてある台に到着。前の椅子に座って怪我人の到着を待つ。 「あー、俺ちゃうから。怪我人はこっち」 完全に開かれた扉の向こうにいたのは、エアルくんに肩を支えられながら立つ生徒。その顔はつい先ほど思い出していたものだった。こちらに来る前に洗ったんだろう、傷口から滲み出る血が水に混ざって床に滴り落ちている。薄れた赤が、ああ、汚ならしい。 「……どれすとくん」 「リレーで転んじゃった。治療してくれる?先生」 相変わらず生意気な口のききかただ。そんなこと考えていたら口唇が左右斜め上に引かれているのに気付いた。何を笑っているんだ私は。 「治療してください、でしょ。まあいいよ、座って」 「まあいいよってあのなあ、おるどんは保健医なんやから…」 「エアルくんはここで油売ってないでさっさと校庭戻ったら?」 んー。そうしようという気持ちは特にないのだが、言葉の端々に声音に棘があるのが自分でもわかる。原因がわかっているからこそ余計に阿呆らしくて、馬鹿馬鹿しくて、みっともない。29歳にもなって、まさかこんなことになるとは。 「そんなツンツンせんでもええやん。ま、そろそろ収集当番やしお暇するわ。どれすとくん、お大事にな」 「もう行っちゃうのかあ、寂しいなあ。えある先生ありがとう」 消毒液を手に取り、蓋を開けたところで背中で扉が閉まる音を聞く。容器の腹部を押して飛び出す鼻腔を刺激する液体を勢いよく患部へと浴びせてやった。漏れだした情けない声音と力の入る拳をみて少しだけすっきりした。 「古澤先生、痛いってー…優しくしてよ」 不満気な表情に優越感が浮上する。単純と言えば単純なのだが、気分が高揚したものは仕方ない。嗜虐心が頭をもたげたが――…さすがに自分を抑え込みながら傷口にガーゼを被せ、テープで固定。終わり、至極簡単な処置。 「はい、治療完了。ばいばいどれすとくん」 「なんか、先生今日冷たくない?」 図星だった。 自分でも恥ずかしいくらいにおれは、多分、至極あからさまに、嫉妬していた。 こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃなかったんだ。高校の保健医として生徒にも同僚にも大して好かれも嫌われもせずそれなりに仕事をこなして、夏は水泳の授業で戯れる女子生徒たちを眺めて他の季節は校庭だったり体育館だったりで授業をする女子生徒たちを眺めるというささいな夢を思い描いていたあの頃のおれには到底頭が上がらない。夢は所詮夢のようで、今のおれは確かに生徒にも同僚にも嫌われてはいないし仕事もそれなりにこなしている。だが、ふとした拍子にはあろうことか男子生徒のことを考えて、しかもそいつの水泳の授業まで覗きたいとか思ってしまう始末。…いや大丈夫、まだ覗いてないから。 「冷たくないよ、でれでれだよ。ほら、おれってクールな二枚目キャラだし」 「それってさあ、冷たくないの?クールなの?矛盾してるけど」 嫌な餓鬼だ、かわいげのない。……声以外は。 「はいはいどれすとくん。大人をからかうのはやめなさい、おれはクールじゃなくてかわいいキャラでしたっと」 「寂しいなあ」 「はい?」 言葉のキャッチボールと形容されるまでに互いを気遣って呼吸を合わせなければならないはずの会話が、なりたっていない。自分に非はないだろうと確信すると同時に消去法で決定された犯人を見る。彼はこちらをみていなかった。伏せられた睫毛は長くしなやかに柔らかそうな頬へと向かって伸び、静かに漏れた溜め息は含んでいた憂いを放出し室内の温度を少しばかり上昇させた。 「先生に嫌われたんだったら、保健室これなくなっちゃうし。つまんないな」 この台詞を彼は微笑みながら、鼻歌でも歌うように吐き出した。 なんというか、こいつは、本当にもう。 「………おれがいつ嫌いになったなんて言ったっけどれすとくん?」 尖らせた唇から何やらもごもごと呟かれた言葉はいまいちよく聞き取れなかったし、おれとしても最早それはどうでもいいことだった。ときどき混じる悪態のような中傷のような言葉も、無視することにした。 「ねえ、ねえねえどれすとくんどうしておれに嫌われたと思ったの?ねえねえどれすとくん」 「……うるさいよー先生は」 ああ、ああこいつは。可愛いところもあるじゃないか。そりゃあおれには敵わないけど、珍しくなかなかかわいい。ここ1番くらいでかわいい。本当にかわいい。おれ。 まあ取り敢えず、兎にも角にもおれの方を一切見ないままに頬を桃色なんかに染めちゃってる彼にこのおれが興奮しないでいられるか?いや、いられない。いられるはずがない。 「ねえ、どれすとくん」 「なにさ」 「先にシャワー浴びてこいよ」 「あのさあ…死んでくれる?」 あからさまに声の調子を変えて眉を顰める彼が吐き出した吐息ごと飲み込んで口を塞いだ。喉の奥の方を、く、と生唾と空気、そして少しばかりの驚きが通る音を聞いた。立て続けにくぐもった母音がおれの鼓膜に届く。 「…っう……、あ」 細められた双眸はおれの頬でも見ているのだろうか、睫毛の長さがいやに強調されていていつまでも見ていたいような、だけど見てはいけないものを見ているようなそんな心持ちがした。数回啄むような口付けを与えたあとに舌先を侵入させ、口内の温かさを堪能――しようと思ったのだが。冷たい。本当に、冷たい。まあ、想像通りと言えば想像通りだ。こいつって、低体温そうだし。本当に人間のものかと疑いたくなるような感覚器を絡めとった瞬間。 「!っ……、いって…」 鋭い痛みが脳内を占めた。思わず引っ込めた舌を口のなかで生存確認、嗚呼大丈夫、千切れてない。舌を噛まれた、こいつに。なんて忌々しいやつだ、本当カス。 口許を掌で覆い隠し生理的な涙で滲む瞳を向けると、そこには満足気な笑顔があった。畜生、年上は敬えっての。 「………ほら俺、虐められるだけっての性に合わないじゃん?」 「……へーえ?おれを虐めたい、とでも?」 「まあ、そうなりますけど」 ついつい渇いた笑い声が漏れてしまった。目前の眉がひそめられたのが見えたが、それとは逆におれの心は躍るばかりだ。こいつの不快感とおれの満足感は反比例してるんじゃないかと白衣の下のネクタイを緩め外しながら、思う。そういえば、このネクタイは確か自分を縛った時に使用した記憶がある。はは、まさかこれを他人に使うときがくるとは。ふと視線を落とした先のガーゼに赤が染み出している。汚いけど、うん。嫌いじゃない。 「………ねえ、どれすとくん」 そう、彼にはもっと苦しんでもらわないと。おれのためにもね。 「首と両手首、どっちがいい?」 |
水分補給って、うそついた。 |
Title by 安楽死 |