「うん、まあこれならいいかな。御苦労様」

二人しかいない室内に凛と放たれた声。心の篭らぬ労いを受けた青年は僅かながら感じた安堵に、そして緊張の糸が緩んだ空気感に胸を撫で下ろす。
そしてその様子を視界の端に捕らえていた依頼主は、唇を歪めた。

「君っていつでもそうだよね、まるで仕事の出来が悪いと俺が正臣君を取って食うと思ってるみたいに」

青年――、紀田正臣は重い唇を開いて問いを続ける。

「……違うんすか」

「ああ、違うね」

くるり、くるり。
落ち着いた声音とは裏腹に子供のような表情を浮かべ椅子を回転させる。

「時に正臣君。君は煙草を吸うんだったかな?」

唐突な質問に心臓が跳ねた音が聞こえた。と、同時にこの音が目の前の男に届いていないようにと切に願う。

「…ちょっとした、若気の至りってやつっすよ」

「若気の至り、ねぇ」

「仕事も終わったんで、俺もう帰りますね」

深く掘り下げられぬ内に話を切り上げ返す踵を、たったの一言に阻まれた。

「誰が帰っていいって言ったの?」

「………まだ、何かあるんすか」

背後から静かな靴音が近付く。一歩、また一歩と鳴り響く音に比例して背筋が硬直する。…どうか、頼むから。

「この煙草、どこかで嗅いだ事があるなぁ。胸糞悪い、この匂いは確か――…」

わざとらしく言葉を切るとほぼ同時に、無機質な音が止む。そしてたっぷりと間をとってから、耳元でぼそり。

「シズちゃんの煙草の匂い」

渇いた喉で何とか生唾を飲み込む。唇を巻いて、視線を落とす。

「嗚呼、その様子じゃ図星だ?」

「……たまたま、会っただけっすよ」

「嘘。黙っていようとしたって事は少なからずやましさがあるからだろう」

心臓が忙しく脈を打って、心なしか冷や汗すら滲んできた。どうごまかす、か。否、彼の情報網を思えれば全てがこの男の耳に入っていることは間違いないだろうが。「ねえ、正臣君。俺はさ」

「………何すか」

「俺は仕事は頼んだけど、シズちゃんと親しくなれとは一言も言ってないんだよ。解る?」

渇ききった唇から虚勢を紡ぐ。

「それを言うと親しくなるなとも言われてないんすけどね。つーか、臨也さんの許可が必要なんすか?……静雄さんと、そういう関係になるのに?…意味解んないっす」

臨也の唇が、双眸が、少しずつ変化を始める。

「話を戻そうか、正臣君。俺は、仕事の出来が悪いと君を取って食う訳じゃないんだ」

愉悦にまみれながらもどこか美しい、

「君の事はいつだって食いたいよ」

細い細い三日月に。

その瞬間に視界が歪んだ。乱暴に腕をひっつかまれ無機質で冷たい壁に背中を押し付けられる。痛みに眉根が近付き、文句を口にする隙もないままに腹部へ、立て続けに左頬へと華奢なはずの拳が叩き込まれた。

「……ッ、が…!」

「シズちゃん相手にしてるんなら、これくらいは軽いものでしょ?」

切れた口唇から垂れた血を感情の読めぬ笑顔が接近し、舐め取られる。徐々に力の抜ける足の代わりに壁へと体重を預けて何とか均衡を保つ。

「…臨、也さ…っ」

「ああ、うん。やっぱりそうだね、そうしよう」

荒い呼吸だけが響く室内に静かな、しかし確かな金属音が鳴らされた。折原臨也が常備しているナイフが取り出された音。

「君は俺だけを見てればいい。…否、君には俺だけしか見せてあげないよ。人たらしの君には多少辛いだろうけど」

ずるずると地面に座り込んだ明るい茶髪を、強く捕まれ顔を上げさせられる。痛、い。

微力ながら抵抗しようとした腕の袖を、牽制とばかりに刃物で壁に固定される。…――助けて、助けて、助けて…

「静、ッ…さ……ん」

「それか、シズちゃんに奪われる位なら――」

薄れ行く意識の中に唯一残ったのは、紅。

俺の身体から流れてあちこちに付着する血液の紅と

狂気に、狂喜に爛々と輝く紅の玉が二つ。




「いっそ」



「殺しちゃった方がいいのかもね」




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