ヤクソク




・凪音と天音





『おおきくなったら、けっこんしようね』



それは、まだ結婚の意味も満足に知らないような幼い時分の約束。



『いいよ』


そう返すと、少女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
差し出された小指に己の小指を絡める。



『やくそくだよ』



幼少期特有の舌足らずな声が言うその言葉を、俺は忘れたことがなかった。









「入るぞ」



数回扉をノックし、控室の扉を開ける。
純白の衣装に身を包んだ少女――天音は、ゆっくりと振り返る。その瞳が俺を捉えると、恥ずかしそうに笑った。



「凪、どうかな?」

「…………」




未だに幼さが残る顔。だが化粧を施したそれは年相応の『女』の姿をしていて言葉を失う。
だがその瞳に褒め言葉を期待する色を見つけて苦笑を漏らした。そういうところは変わっていない。普段は売り言葉に買い言葉の幼稚な応酬を繰り返しているが、この日ばかりは悪態を吐く気にもならなかった。



「まぁ、いいんじゃないか?」

「ほんと!? 良かった!」




“可愛い”“綺麗”などと言った言葉をかけることは出来ないが、自分の中では精一杯の褒め言葉を口にする。
天音はその言葉を素直に受け取り、緊張で強張っていた表情を少し緩めた。



「今からそんな緊張してんのか?」

「うー……、してるよ〜……。凪は緊張しないの?」

「……するわけないだろ」

「いいなー……」



はぁー、と大げさに溜め息を吐くが、天音はそれには気付かず未だにうーうー唸っている。



「どうでもいいが、緊張しすぎて転ぶなよ」

「うー……、プレッシャーかけないでよぉ……」

「式が無事に終わるように俺から忠告してやってるんだ」

「自信ないよぉ……」



早くも泣き言を言う天音に俺はまた苦笑を返す。壁に掛けてある時計を見ると、式が始まるまではまだ時間があった。



「少し、話でもするか」

「話?」

「ああ。その方が気も紛れるだろ」



手近な椅子を引き寄せ、腰を下ろす。天音はパッと顔を輝かせて俺の方へ向き直った。



「何だかこうやって話すのって久しぶりだね」

「そうだな。引っ越しやら式の準備やらでお前も忙しそうだったし」

「しっかり向かい合って話をするって変な感じがする。ずっと一緒にいたのにね」

「ずっと一緒にいたからだろ」



そっか。と天音は納得して頷く。思えば長い時間を共に過ごしてきた。
そこから2人でぽつりぽつりと思い出を語っていく。



「お前はとにかくじっとしてなかったな。毎日泥だらけになって駆け回ってた。幼稚園の時なんて、服が綺麗だったことないんじゃないか?」

「確かにそうだけど、それは凪だって一緒でしょ! あ、小学生の時、冬に水遊びなんかしたね。あの時は流石にお母さんに怒られたなー。お母さんにはあんまり怒られたことなかったから、流石にあの後は大人しくしてたね」

「普段怒らない人ほど怒ると怖いってのは本当だな。そういや、2人で探検して迷子になった時も怒られたな」

「うん。あの時はこよ兄が迎えに来てくれて、それで安心してわあわあ泣いちゃった」

「泣き出したお前を見て琥翼まで涙目になってたな。俺は2人を慰める羽目になったんだから……。でも、琥翼も一緒に謝ってくれたんだよな」

「優しいお兄ちゃんだからね!」

「そのお兄ちゃんは今どうしてるんだ?」

「えっとね……、朝から泣きっぱなし……。凪より前にここに来てくれたんだけど、『堪えらんない!』って泣きながら行っちゃった」



困ったように天音は笑う。2人の間にも色々あったが、元どおりの関係を築けていることに心底安心する。
天音も苦笑しながらも嬉しさが滲み出ている。大事に想われていることを改めて感じているのだろう。



「しょうがない。暫く放っておいてやれ」

「そうだね」



また思い出話を重ねていく。
花見に行ったが、みんな花より団子派だったこと。
何本同時に花火が付けられるか試し、危うく火傷するところだったこと。
祭りで出店制覇していったこと。
雪が積もると駆け出し、雪合戦をしたこと。
琥翼も一緒だったが、それ以上に2人で過ごしたことの方が多かった。


それから、思春期に入り、周りに冷やかされたこと。それを機に少し距離を置いたこと。



「お前は全然気付かなかったけどな」

「しょうがないじゃん! あたしは凪が離れていくことが悲しかったよ!」

「あたし、か」



不意に彼女の一人称が気になった。俺の呟きに気付いた天音は苦々しい表情に変わる。



「もう『ボク』は止めたの! まだまだ幼かったってことですー!」

「いや、高校卒業まで使ってただろ。まぁ幼いことは否定しないが」

「もーー!! ちょっとは大人になったの!!」



知ってる。
天音が一人称を改めてから『大人』になっていくのをずっと側で見ていた。そこに一抹の寂しさを覚えながらも。



「そろそろだな」

「え?」

「え、じゃねぇよ。大事な式が始まる時間だろ?」




時計を見るとだいぶ時が経っていた。そろそろ式が始まる時間になる。いつまでもここにはいられない。
控室を後にしようとドアノブに手をかけた時だった。「凪」と天音が静かに俺を呼んだ。



「なんだ?」

「ありがとう」



ふわり


そんな効果音が似合いそうなほど穏やかに彼女は笑った。
そんな表情が出来ることを初めて知った。何十年も隣にいたのに。

ああ、とだけ答えて部屋を後にする。
扉が閉まる寸前、左手を掴まれた。



「あま――」



名前を呼ぼうとしたが出来なかった。
腹に回された腕に、背中から伝わる熱に、俺は言葉を失った。



「凪、あたしね、ずっと忘れられなかったことがあるんだ。だけどずっとずっと言えなかった。さっきも言えなかった。でも、でもね、このまま忘れたふりをするのは嫌なんだ。凪はもう忘れてると思うけど、あたしは、ボクは……」



天音は早口に捲したてる。腹に回された腕に力がこもり、微かに震えていることがわかる。

やめろ。やめてくれ。


それすらも声にならなかった。



「小さい頃の約束……ボクは一度だって忘れたことがなかったよ」



その“約束”が何を指しているかは考えずともわかった。自分だって同じだったから。



『おおきくなったら、けっこんしようね』



言い出したのはどちらだったか。何故そんな話になったのか。
詳しいことは何一つ覚えていない。だが、そう約束したことははっきりと覚えている。



「…………」

「………………それだけ。じゃあ、また後でね」



背中から温もりが離れていく。不意に、振り返ってあの小さな体を抱き締めたいと思った。
だが、それはもう許されない。彼女はもう自分のものではないのだから。
いや、彼女が自分のものだったことは、一度たりともない。



「俺だって、忘れたことはなかったよ」



その小さな呟きは扉が閉まる音にかき消され、誰にも届くことはなかった。


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