ヤクソク
・凪音と天音
『おおきくなったら、けっこんしようね』
それは、まだ結婚の意味も満足に知らないような幼い時分の約束。
『いいよ』
そう返すと、少女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
差し出された小指に己の小指を絡める。
『やくそくだよ』
幼少期特有の舌足らずな声が言うその言葉を、俺は忘れたことがなかった。
*
「入るぞ」
数回扉をノックし、控室の扉を開ける。
純白の衣装に身を包んだ少女――天音は、ゆっくりと振り返る。その瞳が俺を捉えると、恥ずかしそうに笑った。
「凪、どうかな?」
「…………」
未だに幼さが残る顔。だが化粧を施したそれは年相応の『女』の姿をしていて言葉を失う。
だがその瞳に褒め言葉を期待する色を見つけて苦笑を漏らした。そういうところは変わっていない。普段は売り言葉に買い言葉の幼稚な応酬を繰り返しているが、この日ばかりは悪態を吐く気にもならなかった。
「まぁ、いいんじゃないか?」
「ほんと!? 良かった!」
“可愛い”“綺麗”などと言った言葉をかけることは出来ないが、自分の中では精一杯の褒め言葉を口にする。
天音はその言葉を素直に受け取り、緊張で強張っていた表情を少し緩めた。
「今からそんな緊張してんのか?」
「うー……、してるよ〜……。凪は緊張しないの?」
「……するわけないだろ」
「いいなー……」
はぁー、と大げさに溜め息を吐くが、天音はそれには気付かず未だにうーうー唸っている。
「どうでもいいが、緊張しすぎて転ぶなよ」
「うー……、プレッシャーかけないでよぉ……」
「式が無事に終わるように俺から忠告してやってるんだ」
「自信ないよぉ……」
早くも泣き言を言う天音に俺はまた苦笑を返す。壁に掛けてある時計を見ると、式が始まるまではまだ時間があった。
「少し、話でもするか」
「話?」
「ああ。その方が気も紛れるだろ」
手近な椅子を引き寄せ、腰を下ろす。天音はパッと顔を輝かせて俺の方へ向き直った。
「何だかこうやって話すのって久しぶりだね」
「そうだな。引っ越しやら式の準備やらでお前も忙しそうだったし」
「しっかり向かい合って話をするって変な感じがする。ずっと一緒にいたのにね」
「ずっと一緒にいたからだろ」
そっか。と天音は納得して頷く。思えば長い時間を共に過ごしてきた。
そこから2人でぽつりぽつりと思い出を語っていく。
「お前はとにかくじっとしてなかったな。毎日泥だらけになって駆け回ってた。幼稚園の時なんて、服が綺麗だったことないんじゃないか?」
「確かにそうだけど、それは凪だって一緒でしょ! あ、小学生の時、冬に水遊びなんかしたね。あの時は流石にお母さんに怒られたなー。お母さんにはあんまり怒られたことなかったから、流石にあの後は大人しくしてたね」
「普段怒らない人ほど怒ると怖いってのは本当だな。そういや、2人で探検して迷子になった時も怒られたな」
「うん。あの時はこよ兄が迎えに来てくれて、それで安心してわあわあ泣いちゃった」
「泣き出したお前を見て琥翼まで涙目になってたな。俺は2人を慰める羽目になったんだから……。でも、琥翼も一緒に謝ってくれたんだよな」
「優しいお兄ちゃんだからね!」
「そのお兄ちゃんは今どうしてるんだ?」
「えっとね……、朝から泣きっぱなし……。凪より前にここに来てくれたんだけど、『堪えらんない!』って泣きながら行っちゃった」
困ったように天音は笑う。2人の間にも色々あったが、元どおりの関係を築けていることに心底安心する。
天音も苦笑しながらも嬉しさが滲み出ている。大事に想われていることを改めて感じているのだろう。
「しょうがない。暫く放っておいてやれ」
「そうだね」
また思い出話を重ねていく。
花見に行ったが、みんな花より団子派だったこと。
何本同時に花火が付けられるか試し、危うく火傷するところだったこと。
祭りで出店制覇していったこと。
雪が積もると駆け出し、雪合戦をしたこと。
琥翼も一緒だったが、それ以上に2人で過ごしたことの方が多かった。
それから、思春期に入り、周りに冷やかされたこと。それを機に少し距離を置いたこと。
「お前は全然気付かなかったけどな」
「しょうがないじゃん! あたしは凪が離れていくことが悲しかったよ!」
「あたし、か」
不意に彼女の一人称が気になった。俺の呟きに気付いた天音は苦々しい表情に変わる。
「もう『ボク』は止めたの! まだまだ幼かったってことですー!」
「いや、高校卒業まで使ってただろ。まぁ幼いことは否定しないが」
「もーー!! ちょっとは大人になったの!!」
知ってる。
天音が一人称を改めてから『大人』になっていくのをずっと側で見ていた。そこに一抹の寂しさを覚えながらも。
「そろそろだな」
「え?」
「え、じゃねぇよ。大事な式が始まる時間だろ?」
時計を見るとだいぶ時が経っていた。そろそろ式が始まる時間になる。いつまでもここにはいられない。
控室を後にしようとドアノブに手をかけた時だった。「凪」と天音が静かに俺を呼んだ。
「なんだ?」
「ありがとう」
ふわり
そんな効果音が似合いそうなほど穏やかに彼女は笑った。
そんな表情が出来ることを初めて知った。何十年も隣にいたのに。
ああ、とだけ答えて部屋を後にする。
扉が閉まる寸前、左手を掴まれた。
「あま――」
名前を呼ぼうとしたが出来なかった。
腹に回された腕に、背中から伝わる熱に、俺は言葉を失った。
「凪、あたしね、ずっと忘れられなかったことがあるんだ。だけどずっとずっと言えなかった。さっきも言えなかった。でも、でもね、このまま忘れたふりをするのは嫌なんだ。凪はもう忘れてると思うけど、あたしは、ボクは……」
天音は早口に捲したてる。腹に回された腕に力がこもり、微かに震えていることがわかる。
やめろ。やめてくれ。
それすらも声にならなかった。
「小さい頃の約束……ボクは一度だって忘れたことがなかったよ」
その“約束”が何を指しているかは考えずともわかった。自分だって同じだったから。
『おおきくなったら、けっこんしようね』
言い出したのはどちらだったか。何故そんな話になったのか。
詳しいことは何一つ覚えていない。だが、そう約束したことははっきりと覚えている。
「…………」
「………………それだけ。じゃあ、また後でね」
背中から温もりが離れていく。不意に、振り返ってあの小さな体を抱き締めたいと思った。
だが、それはもう許されない。彼女はもう自分のものではないのだから。
いや、彼女が自分のものだったことは、一度たりともない。
「俺だって、忘れたことはなかったよ」
その小さな呟きは扉が閉まる音にかき消され、誰にも届くことはなかった。