ひとりきり | ナノ



(ただしCPではない)





 いけすかない眼鏡。と言うのが、嘘偽りない徒紫乃の刻雨に対する第一印象だった。第一印象と言い切るのもどうだろう、というところではあるが。そもそも一番最初に会ったのがどこか、いつか、徒紫乃は覚えていない。学生時代に見かけたような気もするが、あやふやだ。言葉を交わしたのは司書試験の前後がはじめてであるはず、と考えはしても、やはり確証はない。そもそもそれらに、意味はない。
 ともかくも。その印象は今でも、ニュアンスが変わりこそすれ、相違ないが、ともかくも。
 徒紫乃が、いけすかない眼鏡だと思っていた刻雨を、結果として拾ったのは、事実だ。


 雨の日だった。春先のまだ肌寒い日だった。湿気た空気が染み付いてくるようで、肌を露出している場所から冷えていく。指先はすでにかじかみ、頬を撫でても鈍く痺れた感触があるだけだ。手袋をして来なかったことを、寒さに弱い徒紫乃は酷く悔いていた。そうやって苛立つ中、刻雨の背中を見かけた。徒紫乃はそう記憶している。日程がずれ込みにずれ込んだ試験の中日で、忙しさにかまけ後回しにしていた書類を、この機会にと出してしまえば、あとはする事もなかった。さっさと帰ろう、徒紫乃は確かにそう思っていたのだ。記憶している。だのに、何故だか、図書館から遠ざかっていく背中を追いかけてしまった。理由は、今思い返しても判らない。

「……」

 ざあ、と少しばかり雨脚が強さを増した。声をかける訳でもなく、少し離れてついて歩く。別段、見失っても、気付かれても、構わなかった。多分寒さで頭が回っていなかったのだろう。記憶を辿り首を傾げるたび、徒紫乃はそうやって自己を納得させた。あまりにもらしくない。らしくないと言えば多分この時の刻雨も、相当にらしくなかった。気配には敏いであろう、戦闘班。後ろに志望が付くとは言え、ここまでの試験をそつなく、より正しく言えば、優秀な成績でこなしてきたのは、一緒に受験している徒紫乃がよく知っている。それなのに。
 徒紫乃は刻雨の背を見る。傘に半ば隠れてはいるが、見える範囲、少なくとも骨と筋肉に異常はない、と半ば職業病の域に達した判断を客観的に下す。それから、主観を含めた目で改めて見る。冷たくなった指で傘を握り直した。もうずいぶん歩いたような気がするのに、刻雨の歩調は確かなものだった。確かなのだけれども、どこか覚束無い。その不安定さの理由を考え、徒紫乃は、ぱしゃりと音も高く立ち止まった。刻雨は弾かれたように、それでいてゆっくりと、相反を抱えて振り返った。

「……敷金礼金無し。風呂とトイレは共同。ちなみに風呂はちょっとした大浴場だ。部屋は八畳、ワンルーム。ベッドと机と椅子と本棚は備えつけ」

 この時の徒紫乃は、刻雨に行く宛がない事を知らなかった。ずれ込みにずれ込んだ日程のせいで、奨学金という唯一の収入を失い、住んでいたアパートに居られなくなった事など知らなかった。

「若干図書館から離れているが、その分静かだ。それから、三食おやつ付き。頼めば弁当も作ってくれる。ツケは三ヶ月まで可能。ある程度の家事手伝いを前提に、それで、家賃は食費光熱費全て含めて月二万」

 徒紫乃には自身の行動の理由が、今思い返しても、判らない。判らないままに、冷え切った自分の頬が、皮肉げな笑みを形作ったことを、覚えている。鼻で笑って言い放つ。

「要するに俺の下宿だが、行くところがないなら、大家さんに紹介してやるのも吝かではない」

 理由は、今思い返しても判らない。ただいけすかない眼鏡が驚いたような顔をしているのが、少しだけ愉快だった。それは確かに、はっきり、今でも記憶している。




ルビコン川を渡れ





(旦那宅刻雨さまお借りしました)
11/08/23




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