no title | ナノ


(3/5)

『…?』

ぞわりと妙な悪寒を感じて***は辺りを見渡すが、特に何か変わった様子はなかった。

「こら、動くんじゃねェよ」
『ご、ごめんなさい』

かわりに脱脂綿を挟んだピンセットを片手持ったバルドに怒られ、***は慌てて正面に向き直る。
その彼女の周りでは心配そうに様子を見守るメイリンとフィニの姿があった。

「バルドどうですだか?ワタシじゃ遠視が酷くて見えないだよ」
「うー…僕もそういう作業はちょっと…」
「ったく、少しは黙ってろ。集中できやしねぇ」

いつも銜えているタバコを皿に置き、***の左頬を見ているバルドの目は真剣そのもので誰もが口を噤む。

「しみるぞ」
『いっ…』

短い言葉と共に頬にピリリと痛みが走り、脱脂綿がゆっくりと赤を吸い上げていく。
痛みの震源をなぞるかのようにバルドは脱脂綿を動かすと、今度はピンセットだけに持ち帰る。
それを視界の端で捉えた***は自然と握りしめた拳に力を込めた。

「痛くても我慢しろよ、取らなきゃならねぇんだ」
『う、ん…』

耳元で恐怖を煽るようにカチカチとピンセットの先端が音を鳴らす。
こんな事なら気付かないふりをすれば良かったと頭の隅で考えるが、それは良くないと思った結果が今なのだからどうしようもない。
そもそも恨むなら皆の注意を聞かず飛び出して行った過去の自分と、中途半端に治癒力の高い自分を恨むべきだろう。

(そんなガラス片が刺さってるなんて思わないじゃない…)

確かにグレルに顔の傷は指摘されていた。でもそれは風圧で掠めたガラス片のせいだと思っていた。
しかし実際は掠めたのではなく、刺さっていた。そしてそれを奥に押しやったのは***自身。
部屋に戻り乱暴に頬を拭った瞬間、頬と手の甲に走った痛みにほんの一瞬思考が止まった。
戻ってきた思考は冷静に現状を把握したが、把握しただけで解決策を見出せず、知恵を借りようと彼らの元を訪ねて今に至っている。

「―何か言いたいこと、あるんじゃねぇのか?」
『…え?』
「言ったろ。“全て終わったら聞いてやる”って」
『…あ…』

玄関ホールで交わした会話、あれの事をバルドは言っているのだろう。
けれど今の様態ではまるで懺悔と例えてもいいようなタイミングではないだろうか。
とは言え実際言いたいことは懺悔に近いものだから、当たらずも遠からず。
ちらりと視線を巡らせば、さっきの不安そうな表情と何かに構える様なメイリンとフィニの姿を見つけ“ごめん、なんでもないの”と逃げられないと***は感覚で悟った。

『…その、ごめんなさい。バルドに言われたのに、自分から飛び出して、結局怪我して、迷惑かけてる…』
「―それだけか?」
『ううん。もし間違えていたら、リジーだって巻き込んでたかもしれない。そうしたら、もっと大変なことになってたと思うの」
「―なってたと思うじゃなくて、実際になっていただろうな」
『…うん。だから、言う事聞かないで、勝手なことして、ごめんなさい…」

頭を下げられない今、目を伏せてその気持ちを素直に示す。
直後、左頬に痛みが走った。

『いっ!!』
「痛かったか?…取れたぞ」

カランと皿の上に落とされた赤く濡れた透明な破片。鋭利なそれは確かに痛みを与えるには十分だった。
消毒液を染み込ませた脱脂綿を再びピンセットでつまんだバルドは最後の消毒をしながらポツリと呟いた。

「それだけ判ってりゃ十分だ」
『…』
「戦場じゃ自分の能力を過信して無駄死にしていく奴らや現状を把握できずに死ぬ奴らがいる。勿論場に不相応でも行かなきゃならねえ時はあるけどな。でもそれはオレ達“使用人”の役目だ。***は違うだろう?」
『…うん…』

“使用人”
その言葉が***とバルド達を隔てる壁となり目の前にそびえたつ。
同時に思う、結局この屋敷での自分の立ち位置は何なのだろう、と。
シエルを狙う奴らをおびき寄せる為の餌であれ、と思っていてもそれはあくまで***個人の考えで。
屋敷の主であるシエルや、執事のセバスチャン、バルド達使用人と考えた時、***には何もなかった。

『…私、迷い込んだだけなのに、なんでここにいるのかなぁ…』

思わず口に出してしまった本音。
それを拾い上げたのはフィニとメイリンだった。

「あの、うまく言えないけど…きっと坊ちゃんも何か考えがあるんですよ!」
「そ、そうですだよ。意味もなく、坊ちゃんが他人を屋敷にこんなに長い時間住まわせる訳ないですだ!」
「…おめぇらのそれはフォローか?ま、2人の言う事は尤もだと思うぜ。ただの客人にしては嬢ちゃんは長居しすぎだからな」

処置を終え、トレードマークの煙草をくわえたバルドがニカリと笑う。
ただそれだけでほんの少し***の気持ちも軽くなったような気がして、ほんのわずかに***の口元も緩んだ。

「さ、手当はした。後はメイリンに絆創膏でも貼ってもらって寝な。もうこんな時間だぞ」
「うわ!本当だ!もうこんな時間ですよ!」
「た、大変ですだ!***これ貼ったら部屋に行くですだよ!」

今までの空気は霧散して、いつもの彼らの纏う空気が戻ってくる。
たとえ普段の***なら完全に夢の中の時間だったとしても、今はそれが妙に嬉しかった。

『あのね。みんなありがとう。シエルが戻ってきたら…その、もう一度聞いてみようと思う』

***の決意の言葉にバルド達は笑顔で大きく頷いた。

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