わたしはとある国の、しがない商人の娘として生まれた。小さい頃から貧乏だったけど毎日幸せだった。お父さんとお母さんは頑張って稼いだお金でおいしいご飯と教育をわたしに与えてくれた。わたしは勉強が好きになり、将来の夢は同盟国であり南海の楽園とされている、シンドリアの王宮で役人として働くこと、になった。家はわたしよりも商売の才能のあるお兄ちゃんが継ぐから、わたしはわたしの得意なことをいかして、たくさん勉強して、シンドリア王国で一番難しく競争率の高い試験を受けて、役人になり家族においしいものを食べさせてあげるのだ。わたしがそう言うと家族は笑って、それじゃあ早くシンドリアの役人になってもらいたいね、なんて言って。全然本気にはしてなかったけど、わたしだけは本気だった。


大きくなったわたしは、たくさんたくさんたくさん勉強して、生まれて初めてお兄ちゃんの商船に乗り国を出て、シンドリアの文官試験を受け、そして合格した。合格を伝えたときの家族の、鳩が豆鉄砲を食ったような顔は、忘れられない。わたしは国を出て、夢にまで見たシンドリアの王宮で、住み込みで働くことになった。周りは歳上ばかりで、田舎者で幼いわたしは、あまり話が合わなくて、なんだか寂しい気持ちになることも多かった。とは言え、収入は商人の仕事からは想像できなかったほど、一気に増えた。わたしも毎日おいしいものを食べられたし、家族に仕送りもたくさんできた。安定した仕事、安定した地位があれば、わたしはそう多くを望まなかった。あの人に出会うまでは。


それはわたしが初めて経験した謝肉宴でのことだった。政務を行う役人のトップであり、同時に八人将の一人でもある、ジャーファル様。噂でお優しい方と聞いてはいたけれど、シンドバッド王と共にしばらく国をあけていた彼を、新人のわたしが見かけることはそれまでなかった。ジャーファル様は南海生物をあっという間に倒し、その夜はわたしの人生で一番盛大で楽しい宴が催された。わたしは王宮内で数少ない友人と呼べる、同じ部署で仕事をしているおじさん達や、侍女の子達と楽しく過ごした。途中、侍女の子達はシンドバッド王にご挨拶をしに行くと楽しそうに席を抜けたので、わたしも行くべきなのかとちょっと様子を見ていた。が、どうやらわたしの思っていたご挨拶とは違ったようで、彼女たちはシンドバッド王のお膝にのって楽しそうにしていたので、目をそらした。しかし、わたしはシンドバッド王よりも、ジャーファル様にご挨拶をしたかった。政務官でありながら、さっきのような強さ。そして優しそうな物腰。胸が高鳴った。

「先輩。ジャーファル様が国に戻られたということは、明日からは一緒に仕事ができるんですか?」
「いや、俺は、姿は毎日見るが、会話はしたことないな。俺たちのやってる仕事は、下の下の仕事だからな。ジャーファル様とは違う仕事さ」
「そうなんですか…」
「それより、お前はシンドバッド王様のとこに遊んでもらいに行かなくていいのか?」
「いいです!」
「はは、真面目だな」

文官では若い方で、話しやすい存在である男の先輩は、わたしが真面目だと言ってよくからかってくる。それはともかく、どうやらわたしの地位ではジャーファル様と関わる機会なんて全くないらしい。ジャーファル様とお話がしてみたい。もっと近くにいたい。生まれて初めての感情に、わたしの安定志向は、完全に向上心へと変わった。勉強は好きだ。苦ではなかった。


ジャーファル様と関わることなく、文官になって三年が過ぎた頃、わたしは随分と昇進していた。実力主義の職場は、わたしにとって幸せだった。職場の人とはだいたい仲良くなり、みんなに応援してもらい、わたしはようやく、ジャーファル様と共に仕事をすることができるところに立つことができた。初めてジャーファル様と顔を合わせた日、顔が真っ赤になって恥ずかしかったことをよく覚えている。メキメキと昇進したわたしを良く思って下さっていたらしいジャーファル様は、真っ赤なわたしににこりと笑って、これからも精進するようにと、これからは一緒に頑張ろうと、声をかけて下さった。嬉しくて飛び上がれそうだった。すっごく頑張ろうと思った。それからわたしの仕事は、ジャーファル様の補佐になった。たった三年目の若い女の文官がそんな役目に?と、他の役人から甘く見られることが、わたしは一番悔しかった。だから勉強を怠ることはしなかったし、ジャーファル様の仕事には積極的について行った。


補佐をするようになって一年が過ぎると、わたしを馬鹿にする人はいなくなった。実力を認められたこともあると思う。それだけ頑張った自信もある。しかし、ジャーファル様にくっついていることで八人将の方と仲良くなったことも、きっとその理由の内だと思う。文官に比べ年齢層が若く、しかもフレンドリーな八人将のみなさんとは、すぐに仲良くなれた。十九という若さで試験に受かったわたしにとって、歳の近い友人ができたことはとても嬉しいことだった。何より、女の子の友人ができたこと。侍女は入れ替わりが激しく、仲良くなってもすぐに辞めてしまうことが多かったのだ。



「よう、今日はジャーファルさんといないのか」
「シャルルカン様」

どうやら銀蠍塔での鍛錬を終えた後らしいシャルルカン様が、中庭で休んでいたわたしに声をかけた。

「こっそりサボりか?」
「サボってないですよ、資料が重たかったからちょっと休憩してたんです!」
「それ、サボリじゃねぇ?」

けらけらと笑って、わたしの隣に腰掛けるシャルルカン様。わたしは彼よりも歳上だけれど、多分歳下として扱われている。まあ、構わないんだけど。

「シャルルカン様こそ、ヤムライハ様と一緒じゃないんですね」
「はあ?別にあんな奴といつも一緒にいねぇよ!」
「そうですか?大抵一緒にいるように思いますよ…」
「シャルルカン様!」
「ん?」

一人の役人が、私たちの元に駆け寄ってきたことで、話は中断された。八人将の元に急ぎの伝令がくる時の用件は、大抵一つだ。

「港に南海生物が現れました!」
「お、随分久しぶりだなァ。お前も行くだろ?」
「えっと、行けばいいんでしょうか?ジャーファル様の補佐をするようになって、初めてのことなので…」
「そういや、そうだな。とりあえず来いよ!今夜は、初めてお前と一緒に飲むっつうことだな!」

シャルルカン様はニィと笑い、わたしの腕を引っ張り港へ駆け出した。わたしは引っ張られるままに、足を動かす。シャルルカン様は足が早いので、港に着いた頃には息が上がっていた。

「お、来たな、シャルルカン」
「な…なんで君がシャルルカンと一緒に」
「妬くなってジャーファルさん!たまたま収集の時に一緒にいたから、手を繋いでここまで走ってきただけだよ」
「手を繋いでと言うよりは、腕を掴んで、に見えましたが…」
「まあまあ、そう睨み合うな。今日はマスルール、お前が仕留めろ」
「…仰せのままに」

南海生物に向かっていくマスルール様を見送り、手を離したシャルルカン様にお礼を言って、ジャーファル様の後ろに付く。そこはわたしの定位置なのである。マスルール様の安心感のある戦いぶりから目を逸らして、ジャーファル様がこっちを振り返った。

「資料を取りに行ったきり戻らないと思えば…シャルルカンに捕まっていたということは、どこかで油を売っていたね?」
「ご…ごめんなさい…」

小さくなって謝ると、ジャーファル様はいつものようにため息をついてから、微笑む。

「まあ、普段の仕事ぶりを見ているから、あまり強くは言えないけれどね」

ああ、ジャーファル様の笑ったお顔が見れれば、わたし、また頑張れる。こんなふうに話せることすら、たまに夢じゃないかと思ってしまう。そんなことを考えている間に、マスルール様は南海生物を倒してしまっていた。国民から歓声があがり、シンドバッド王が宴の準備を!と高らかに宣言した。

「一年ぶりの謝肉宴ですね」
「そうだね、そういえば君を部下に持ってから、初めての謝肉宴か」
「そうなんです。楽しみだなあ」
「国民も、久しぶりの宴で喜んでいることでしょう。私も、お酒が苦手でなく、羽目を外し過ぎたシンの処理をしなくてもいいのなら、存分に楽しめるのだけれど…」
「ジャーファル様は、お酒が苦手でいらっしゃいますか?」
「ああ。君は飲むのかい?」
「うーん、わたしもそんなに、強い方ではありません…ですが、飲むのは好きです」

ゆるゆるとお話をしていると、ぴょこぴょこと近付いてくる姿が二つ。

「あなたと飲むのは初めてね」
「楽しみだなあ!今夜は、文官じゃなくて私達と一緒に飲むよね?」
「ヤムライハ様、ピスティ様!ぜひ、ご一緒させて下さい!」

にこにこと手を振って王宮の方へ向かう二人に、手を振り返す。笑って見ていたジャーファル様が、さて、と呟く。

「私達も一度王宮に戻り、仕事を一段落させなければね。それで、資料は今どこに?」
「あ…中庭に残したまま来たんだった…!」
「中庭でシャルルカンとサボっていたのですか」
「さ、サボリじゃなくて!……すみません…」
「君は見ていて飽きないな」

クスクス笑って、先に歩きだすジャーファル様。わたしは顔を赤くして一瞬立ち止まったあと、慌ててそれを追いかけた。


夕方頃から、謝肉宴が始まった。騒ぐ国民達を一望できる、高く作られた櫓に、わたしは初めてのぼった。この櫓が、シンドバッド王への"ご挨拶"の女の子を除くと、シンドバッド王や八人将、一部の食客の特等席であるという認識の強い、わたしのようなヒラ役人上がりの文官には、なんだか緊張する場所であった。

「そう堅くなるな。今日は宴だ、無礼講だ。さあ、飲め!」
「お、恐れ入ります、シンドバッド王にお酌して頂くなんて…」
「お、良い飲みっぷり!この酒も、美味いんだぜ!ほら!」
「シャルルカン様まで…!あ、ありがとうございます、では、頂きます」
「やっほ〜、私とも乾杯しよ!」
「ピスティ様!えっと、お酒は今飲みきってしまいまして…」
「酒が欲しいのか?ならこれを一杯やろう!」
「わ、わあ、すみませんヒナホホ様…!」
「かんぱーい」

ピスティ様が一気に飲んだのでわたしだけちびちび飲むのも申し訳ないと思い、一気に煽ると、喉が焼けたように熱くて、思わずむせた。ヒナホホ様が豪快に笑う。

「北国の酒はアルコールが強いんだ。よく一口でいけたな!」
「さ、先に、教えて下さい…」

むせているわたしの持っているカップに、継ぎ足されるお酒。

「や、ヤムライハ様、もうだいぶ酔いが回ってきてるんですが…」
「あら、私のお酌したお酒、飲んでくれないの?」

お酒でちょっと赤らんだ頬、潤んだ目のヤムライハ様にそんなことを言われては、断ることなどできるはずがない。いや、酔ってなくても断れないのはさっきまでの流れから明確だ。部下ってそんなものだ。結局、わたしのカップには絶え間なくお酒があり、すっかりわたしは酔ってしまった。辛うじてそれは自覚していたので、最後にシャルルカン様に注がれたお酒を飲めずに持ったまま、わたしは櫓をおりて、人気がない静かな裏通りに向かった。ちょっとでも酔いが覚めればと思ったが、頭はフワフワしている。シンドリアへ来て四年、何度も謝肉宴は経験したけれど、今までで一番楽しく騒がしい宴になったことは間違いなかった。冷えた夜風に乗って聞こえてくる音楽に耳を傾けていたら、それに混ざって土を踏む音が聞こえた。誰だろう、と思いつつも目を閉じたまま音楽に集中していると、足音が目の前で止まった。

「こんなところにいましたか」
「ジャーファル様?」
「途中から姿が見えなくなったので心配したよ。君は断ることが下手だね」
「でも、楽しかったです。わたし、あんなにたくさんの友達と宴を過ごすこと、初めてだったので」

わたしの隣に座るジャーファル様。にこにこへらへらして、呂律も若干回らなくなっているわたしに、ジャーファル様は幻滅しただろうか。

「ジャーファル様は、お酒は?」
「飲んでいないよ」
「わたし、一杯持っています。シャルルカン様に頂いたんですけど、いかがですか?」
「いや、私は…」
「一杯くらい、駄目ですか?ジャーファル様」

わたしがじっと見つめれば、ジャーファル様は渋々それを受け取った。さっきのヤムライハ様とわたしのような感覚だろう。ジャーファル様は一気にお酒を飲み干した。ヒナホホ様に頂いたものよりは弱いが、結構なお酒であったので、弱いと自称していたジャーファル様はすぐに顔を赤くした。

「…暑いな」
「ふふ、ジャーファル様、お顔が真っ赤です」
「君が飲ませたのでしょう…」

いつもと違う、少し気だるそうなジャーファル様の表情に、落ち着いてきていたはずのわたしの鼓動が再び速くなった。

「ジャーファル様。わたしがどうして、あんなに頑張って昇進しようとしたかわかりますか?」
「話が急だね…それは前に聞いたよ、ご家族の為だろう?」
「本当は違うんです。わたし、ジャーファル様とお話がしたかったんです。お側にいたかったからなんです」

わたしの言葉にぽかんとするジャーファル様。こんなこと、お互いに酔っている今しか、絶対に言えないと思って、思わず口をついて出た言葉だった。恥ずかしいよりは、言えてすっきりした気持ちになった。ジャーファル様はしばらく呆然としたあと、少し考えてから、口を開く。

「どうやら、酔っているようだね」
「酔ってるけど、本当ですよ」
「いや、私のことだよ。どうやら、たった一杯で酔ったらしい…だからこれは、聞き流してくれればいいんだが…」

ジャーファル様はそう前置きすると、わたしの手を握った。わたしはどうすることもできない。

「一緒にいればいるほど、君を愛おしいと思ってしまうよ。マスルールやスパルトスや…あと特にシャルルカンと話していたりすると、モヤモヤするんだ。ただの部下なのに独占欲だなんて、馬鹿げているけれどね…」
「う…うそ?」
「本当だよ…酔っているけど」

ジャーファル様。わたしがどれだけあなたに焦がれていたか、ご存知ですか。あなたの笑ったお顔に嬉しくなったり、あなたの疲れたお顔に心配になったり、あなたのことで一喜一憂していたことをご存知ですか。あなたに近付きたい一心だけでこれだけの努力をしたわたしの想いの強さ、わかって頂けますか。

「酔っているから、言っちゃいますね、ジャーファル様…大好きなんです」

手を握り返してそう言った。お互い、さっきから恥ずかしくて目が合わせられず、繋がれた手に視線を落としたままだ。手がぽかぽかして、赤くなっている。お酒のせいかな、それともジャーファル様と繋いでいるからかな。きっと、後者の理由が大きい。

「私もだよ」

くい、と繋いでいた手が引かれる。そのままわたしはジャーファル様の胸の中へと倒れ込む。おでこが当たったジャーファル様の心臓あがるところから、わたしと同じくらいに速い鼓動が伝わる。

「…そろそろ宴もお終いですね」
「そうだね…直に、夜が明ける」
「でももう少し、夜が明けるまでは、こうしていたいです…なんて」
「…そうしようか」

ああ、幸せ。


戯れ微睡む午前三時


明日、どんな顔でジャーファル様とお話すればいいのかしら。

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