気が付くとそこは、冥界だった。わたしは死んだのだ。死後の世界なんて信じていなかったけど、本当にあったんだ。気が付いてからしばらくは、わたしの記憶はぼんやりと曖昧で、死者が裁かれる順番を待つ列にただただ並んでいた。そうしなければいけないことは、何故かわかっていた。人間の本能なんだろうか。やがて、わたしが裁かれる番がきた。目の前の門をくぐり、大きな建物の中に入る。殺風景な部屋に執務机が一つだけ置かれ、そこには黒い着物を着た男がゆったりと腰かけていた。男は手元のファイルらしきものをいじっていた手を止め、顔を上げ、一瞬目を丸くした。しかしすぐに微笑むと、ファイルをぱらりとめくった。

「どうも、こんにちは。冥界にようこそ、俺は閻魔大王だよ。えーと、君の死因は…自殺か」

閻魔大王は抑揚のない声で言った。毎日毎日、こればっかり言っているんだろう。

「…自殺?」
「覚えてないのかな?」

閻魔大王がちょいっとわたしに向けて人差し指を振った。その途端、記憶が全部、鮮明に蘇る。ぼーっとしていた頭が、はっきりと、覚醒する。

「…あの人は」
「ん?」
「あの人はどこ!どうしてあの人を殺したの!!どうして、わたしから奪ったの…!」

わたしには恋人がいた。結婚を約束していた。なのに、彼は交通事故で、死んでしまったのだ。生きる希望をなくしたわたしは、彼の後を追うように、ナイフを自分の心臓に、突き刺したのだ。閻魔大王は馬鹿にするように、肩をすくめてみせた。

「それはやつあたりだよ。俺は人の命を奪うことはできない。ただここに座り、人を裁き続けることだけが俺の仕事さ」

ナイフは、死んだときと同じように、今もわたしの手の中にあった。たまらず、わたしはナイフを閻魔大王に向けて、走り出す。

「やつあたりでもなんでもいいの!どうして死んでまで、辛い思いをしなくちゃいけないのよ!ここまでしたんだから、死んでまで同じ場所に来たんだから、あの人に、会わせてよ!!!」

閻魔大王はナイフを避けたりしなかった。ただ、真顔で、それを受け止めた。ずぶずぶと、ナイフが閻魔大王のお腹に埋まっていく。あまりに表情を変えない閻魔大王に、急に冷静さを取り戻したわたしは、ナイフを放し、よろよろと後ずさる。閻魔大王はため息を一つ吐いて、ナイフを掴んだ。

「悪いけど、俺は死ねないんだ。もう死んでるから」

そう言って、閻魔大王は自分でナイフをお腹から引き抜いた。血は一滴も出ず、ぽっかりと向こう側が見えるほどの穴が一瞬見えたかと思うと、すぐに閉じてしまった。

「それと、悪い話がもう一個あるんだ」

閻魔大王はナイフを机の上に置くと、机の前に出てきて、そこに体重を預けながらわたしを見た。

「君は恋人には会えないよ」
「な…なんで?!」
「理由は二つある。一つ目は、君が自殺だから。このファイルに載ってる情報だと、君の恋人だった人は交通事故で、信号無視のトラックに突っ込まれて死亡しているけど?」
「そうよ…だから?」
「これは不慮の事故だ。そして彼は生前の行いも悪くなかった。だから俺は彼を天国行きとしたんだよ。一昨日のことだ」

その言い方では、まるで。

「わたしが地獄行きだって言ってるみたいじゃない」
「勘がいいね。そう言ってるんだよ。君の死因は自殺。つまり、自分で自分を殺した。これは立派な殺人だよ。殺人を犯した人は、問答無用で地獄行きなんだ。命を奪うのは、何よりも重い罪だからね」

地獄行き?わたし、地獄に行かなきゃいけないの?地獄?地獄ってなに?どんなに恐ろしい場所なの?追ってきた彼にも会えず、これからどんな酷い目にあうの?

「…面白いことを教えてあげよう。俺はね、人間で最初の死者なんだよ。だから、死者の国、冥界の王になったんだ。その時からここに縛り付けられ、一日も休むことなくやってくる死者を、その人の生前の行いを見て、はいあなたは天国行き、はいあなたは地獄行き、とひたすら裁き続けてきたんだ。楽しいと思うかい?そんなわけ、ないだろ?俺は望んで最初の死者になったんじゃないんだよ。今はこの通り、死にたくても死ねない体だしね。だから、つまり、俺は君みたいに自分で自分の命を絶った人には、ちょっと厳しくしたくなるのさ。俺は、命があることの大切さを、今ここに来たばかりの君よりもよっぽどわかっているんだよ。自殺がどんなに重い罪か、わかったかい?」

閻魔大王は、穏やかに微笑んだ。言っていることは少し怖かったけれど、声に怒気はなく、諭すような言い方だった。わたしはなんだか、自殺した自分が恥ずかしくなってきた。わたしの人生あれでよかったのかな。わたしがあとを追って自殺することなんて、あの人の本望ではなかったかもしれない。ただ、今さらわたしが何をどう後悔しようと、結果は変わらない。…わたしは、地獄に行くんだから。

「あ」
「ん?」
「もう一つの理由は?理由は二つって言ったでしょ」
「ああ、それね」

何故か閻魔大王は少し寂しそうな顔で笑った。初めて彼の人間らしい表情を見た気がする。

「俺も元は人間だったと言ったね。俺にも生前は家族がいたんだよ。だけど、一番に死んだ俺以外は今も輪廻転生を繰り返していてね。何度人生を繰り返しても、その姿は変わらないんだ。だから、こんなつまらない暮らしをしている俺の唯一の楽しみは、家族の生まれ変わりをここで迎えることなんだ。現世では死んだってことだから喜ぶべきことではないけど…俺にとっては、冥界に帰ってきたという感覚になるからね」
「ねえ、前置きが長い」
「おや。勘がいいから気付いてくれるかと思ったのに。だから、つまり、君は俺の生前の奥さんなんだよね。地獄行きの理由は嫉妬さ。天国に行って恋人と再会する君なんて、見たくないんだ」
「…オクサン?おくさん?……お、奥さん?!?!」
「そう。毎回、君は俺を忘れてしまっているけどね。そして、この事実を話したのは、今回が初めてだ。何百回も、俺は様々な死に方で死んだ君を見てきたよ。死因を見るのは楽しいことではないけど、君の姿を見るたびに、やっぱり嬉しくなるんだ。こんなに気が遠くなるほどの年月を、俺は君だけ想っていたのに、十数年一緒にいただけの男に君を取られて、そいつに会わせる為に天国へなんて、とんでもないよ。」

当然のように、信じられない。閻魔大王という仕事に私事を挟むなと言いたいけれど、わたしが彼の元奥さんという私事がまず信じられないので、言えない。

「信じてないね?」
「う、うん」
「悲しいなあ。…よし、思い出させてあげるよ。今は都合がいいことに、口うるさい秘書が用事で外しているから」
「ど、どうする気?」
「さっきみたいに、君の記憶を呼び戻してあげる。何度も繰り返した人生の分、全部。今回の人生の分も思い出したんだから、この力のことは信じてくれるだろう?」
「ちょっと、待っ…」

閻魔大王はわたしの言葉を聞かず、さっきのように人差し指をこちらに向けた。それが小さく上下に振られた瞬間、凄まじい量の記憶がわたしの中に流れ込んできた。何度も何度も、わたしはいろんな時代に生きて、そして死んでいた。ここには何度も来ていた。その度、閻魔大王は寂しそうな顔をしていた。膨大な記憶の一番後わりのところには、子どもを抱いて笑っている、閻魔大王がいた。わたしもそれに寄り添って笑っていた。わたしはしばらく、何も言えずに、ただ立っていた。気付くと目からは涙が流れていた。

「一気にたくさん思い出させて、疲れたかな?でもわかっただろう?俺は、今回の君が死ぬほど会いたくてここまで追ってきた恋人よりも、よっぽど君が好きなんだよ。一途だろう?だから、天国には行かせてあげない」

閻魔大王は体重を預けていた机から離れ、わたしの前まで来ると、涙を拭った。死んでいる彼の手は冷たかった。今度は穏やかな笑顔じゃなくて、ちょっと怖い、何を考えてるかよくわからない笑顔。わたしは混乱してしまって、何も言い返せなかった。確かにわたしの記憶の一番初めには生前のこの閻魔大王がいて、でも今回のわたしには別に彼がいて。閻魔大王にとってのわたしは何千年も待った人だとしても、わたしにとっての彼はたくさんの中の一人なのである。閻魔大王の顔を見れないままでいたわたしは、顎を持ちあげられて、彼の方を向かされた。かつては旦那さんであった彼に、これだけのことでドキドキしている。

「地獄、行きたくない?」
「…!行きたくない!」
「一つだけ方法があるよ」
「何…?」
「鬼になるんだ。それで、ここで俺の秘書をするのさ。もう一生、生まれ変われない。本来は地獄行きよりも悪い処置だ。俺の命令を絶対聞かなくちゃならない。でも君なら、悪いようにはしないよ。鬼の処遇も、俺次第だから」

閻魔大王は意地悪く笑っている。地獄行きよりも悪いなんて即お断りしようと思ったけど、悪いようにしないって、本当かなあ。それに、これまで何百回も死んだわたしの記憶の中で、何百回も会った閻魔大王の、いつも寂しそうだった顔が頭をよぎる。本当にわたしにとって彼は、たくさんの中の一人なの?

「迷うことなんて、ないじゃないか。もう何千年も待ったんだ、これからは俺の側にいてくれよ」

流されてないかな?なんて不安もちょっとあったけど、記憶の中でも一度も行ったことのない地獄が怖くて仕方ないのと、彼の一途さに、わたしは、負けた。ごめん、今までのたくさんのわたしの前世の恋人の皆さん。初恋の人には勝てない。自分は都合のいい女だなあなんて思いながら、わたしは背伸びをして、閻魔大王にキスをした。

「閻魔大王、わたし鬼になる」
「…そうか。おかえり」

閻魔大王は今度こそ、嬉しそうな顔で笑った。



ちょっと懐かしい味がした、なんてね
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