忍術学園は、いたるところに落とし穴がある。わかるように一応の目印はしてあるようだが、くのたまを三年で辞めた事務員のわたしには、さっぱりわからない。特に、慌てていて下なんて見ないで歩いている時は、結構な確率で落ちる。穴の主な製作者は喜八郎くんであり、彼の落とし穴はまた、他の誰の落とし穴よりも見つけにくいと言える。もちろんわたしは、喜八郎くん以外の掘った穴に落ちることもある。一年生の作った穴だって馬鹿にはできないし、小平太くんの穴はかなり深かったりもするから要注意…しようがないけど。そして、落ちてしまったら、わたしが自力で這い上がれる穴は少ない。大抵は、作動した落とし穴は傍目に見てもすぐわかるので、そう経たない間に誰かが引き上げてくれる。が、たまに、ごくたま〜に、人気のない場所を通った時に限って深めの落とし穴に嵌り、なかなか助けが来ないこともある。本当に、たまに。わたしも一度しか経験したことがない。それが、今だ。

「だれかぁ〜」

昼にいつも使われていない蔵へ探し物に向かい、蔵の裏で落とし穴に落ちた。誰にも蔵へ行くことを告げずに来たことを深く後悔しつつ、夕陽も落ちようとしている空を見上げる。落とし穴自体、かなり前に作られたもののようだし、かなり深いみたいだ。喜八郎くんのじゃないかもしれない。落ちてからどれだけ時間が経ったか、もう人を呼び疲れて声が枯れてしまってきている。本当に場所が悪かった。在学中三年間で一度もこの蔵へ来る必要性はなかったし、事務員を初めてからも今日まで近づくことなく過ごしてきたし、存在もおぼろげにしか知らなかったし。しかも蔵の前ならまだしも、裏側だ。せめてもの希望は、これだけの時間席を外せばわたしがいないことは誰かには必ず気付いてもらえてるだろう、ということ。事務の仕事も溜まっただろうし、夕飯の鐘も聞こえなかったけどたぶんもう鳴っているだろう。食堂のおばちゃんか吉野先生、秀作くんの誰かは絶対わかるはず。これまでの職務態度なら仕事をすっぽかすような性格とは思われていないはずだから、何かあったってわかって、探そうってなってくれてれば、いいんだけど。わたしは落とし穴の底で、体操座りでお尻に冷たい土を感じながら、落ちてから何度目かもわからないため息をつくしかなかった。




日はとっぷりと落ちて、肌寒くなってきて、だんだんわたしは不安になってきた。探してくれているなら呼ぶ声の一つも聞こえてきそうなものだけど。無断外泊は禁止されているし、外泊許可をとってないから、さすがにみんなわたしに何かあったのは気付いてくれてるよね…このまま助けが来ないなんてことはあり得ないよね…良くないことに少し湿った匂いもするけど、もし今雨が降ったらここは沈んでしまうだろうか。水かさが上がって出れる可能性もあるのかな。狼や野犬や逃げ出した毒虫が入ってきたら、どうする?自分で登るのは何度も試したけど、指先が擦り剥けてジンジンしただけで、諦めた方が良さそうだった。

「なんで落とし穴なんて、掘るのよー…」

ぼそっとつぶやいた時、腕に何かが当たる感触。見上げると、とうとう雨が降ってきたようだった。ぽつぽつと、細い雨が、ゆったりとした間隔でわたしの腕を濡らす。意味もなく寂しくて、意味もなく怖くて、指と喉が痛くて、なんだか泣きたくなった。事務員としてここに来て、こんな気分は初めて。わたしは座り込んで、立てた膝に顔を埋めて、首筋に当たる霧雨を無視して、泣くのを堪えた。なんだか泣いたら負けの気がした。








「なまえちゃん!」

雨粒と一緒に降ってきた、聞き慣れた声に、弾かれたように顔を上げた。小雨で頼りない小さな炎を残すだけの松明を持って穴を覗き込んでいたのは、タカ丸くんだった。

「タカ、まる、くん…」
「大丈夫?!今、みんなでなまえちゃんのこと探してたんだよ!すぐに助けるから」

さすがに穴が深めだったので、タカ丸くんは道具を取りに踵を返そうとした。松明の灯りが揺れて、思わず声をあげる。

「待って、タカ丸くん…」
「え?でもこんな深い穴、きっと先生達でも…」
「違う、なんか、すごい寂しくて、行かないで欲しくて…」

消えそうな声は、なんとかタカ丸くんまで届いたようだった。向こうからこっちは暗くて見えないかもしれないけど、わたしの方からは松明の真横のタカ丸くんの表情が驚いたようなものになるのが、よく見えていたからだ。

「寒くない?声、枯れてるよ。でもそんなのよりもなまえちゃんが寂しいって言うなら俺、平気になるまでずっとここにいるよ」

タカ丸くんは優しく言うと、自分の笠をせめてもと穴にかざしてくれた。

「ごめん、タカ丸くん、ありがと」
「こんなに弱ってるなまえちゃんを見るの、俺初めてかな。小さい頃からなまえちゃん、しっかりしててあんまり泣いたりしない女の子だったから」

タカ丸くんはわたしを気遣ってくれているのか、わたしが返事をできないで嗚咽を漏らしていても、話を続けてくれた。

「なまえちゃんが忍術学園に通ってた頃は知らないけど、きっと変わらないまんまなんだろうなって思ってたよ。その時は俺も、長いことなまえちゃんと会えなかったから、ちょっと寂しかったなあ。ああ、そうだ。この前長屋で話してたこと、覚えてる?俺…俺の初恋の人、なまえちゃんなんだよ。へへ、驚いた?」

タカ丸くんの顔が穴から覗いた。わたしはそれを見上げながら、泣いて濡れた目をまん丸にして、それから、なんとかちょっと笑顔を作った。

「わたしも、初恋の人、タカ丸くんだよ。驚いた?」

少し間があって、タカ丸くんも笑った。

「じゃああの頃好きだよって言っておけば、なまえちゃんは俺のものだったかもしれないんだ」

今は、って聞かないの?って聞いてみたくて、でもわたしもはっきり答えられる自信がないし、タカ丸くんからの答えも怖かったから、わたしは曖昧に笑うしかできなかった。

「なまえちゃん、いつ頃落っこちたの?お腹減ってない?あ、声を出すの辛ければ、答えなくってもいいよ」
「…お昼過ぎだよ。怖くて、寂しかったから、お腹空いたのは、忘れちゃってた…」
「じゃあ、思い出さない方が良かったね、ごめんごめん。それにしても、誰もここに気が付いてくれないなぁ。近くに人が来たら、大声で呼ぼうと思ってるのに…」
「タカ丸くん、よく、気付いてくれたね」
「なんとなく、こっちかな?って、わかったんだ。こんなところに蔵があることは、知らなかったけど…でも、もっと早く来てあげられたら良かったのに…」
「ううん」

来てくれただけで泣けるほど嬉しかったんだよ、と言うのは喉が痛いのと話の流れがちょっと恥ずかしかったのとで、胸にとどめておいた。

「……あ」
「何?」
「足音」

地面の下にいるわたしは、上にいるタカ丸くんよりも地上の音がよく聞こえる。雨は細かいのであまり音はなく、それ以外に足音らしい音が聞こえた。タカ丸くんは笠をわたしの方へ落とすと、おーい!と大声を出す。行かないでくれるの、本当に優しい。

「誰かー!聞こえるー?!」
「斉藤か?!どっちで叫んでるんだ?!」

返ってきたのは、もうどうしようもなく頼りになる、食満くんの声だ。落とし穴の対処に関して、生徒の中では一番慣れていて、一番頼れると言えそうな食満くんの声に、タカ丸くんもホッとしたようだった。

「こっちだよ〜!蔵の裏!それと、なにか梯子みたいな物が必要なんだ!」
「大丈夫だ、持ってる!」

どんどん足音が近づいてきて、タカ丸くんと一緒に穴のふちに顔を出した食満くん。縄の梯子を担いでいる。なんて準備が良い。食満くんは自分の灯りをタカ丸くんに渡すと、すぐに縄梯子を肩からおろす。

「もしかしてこんなことじゃないかと思って梯子を持っといて良かったぜ。大丈夫か、なまえ?」
「大、丈夫」
「うお、声枯れてんな。すぐ梯子降ろすから待ってろ。斉藤もよくこんなとこ気付いたな」

言いながらも、食満くんはとても手際良く杭を地面に刺して、そこに括り付けた梯子をするすると穴に降ろしてくれた。ずっと同じ体勢でいたから体がすこし固まっていたわたしは、タカ丸くんの落としてくれた笠を被り直して、ぎこちなく梯子を登る。穴から出られて、ようやく二人と並んで立ったら堪らなくなって、わたしはまたしゃくり上げ始めてしまった。

「あ、あ、ありがと、タカ丸くん、食満ぐん…」
「しかしまあ、よくここまで分かりにくい場所で落っこちたもんだな。皆すげぇ心配したんだからな」
「う、う〜…ごめっ、ん……」
「食満くん、それは後にしようよ。なまえちゃんが一番怖かったんだよ」
「ま、そうだな。何にせよ無事で良かった」

タカ丸くんがぽんぽんと頭を撫でて、そのまま頭を引き寄せてくれたので、わたしはタカ丸くんの胸を借りて、一通り泣いた。雨が少し強くなってきたけど、二人とも何も言わずにそのまま泣かせてくれた。






「…ご迷惑をおかけしました」
「スッキリした?」
「そういや他の奴はまだ探してるんだった。俺ちょっと言ってくるから、斉藤はそいつ風呂にでも連れてってやれよ」
「頼むね食満くん」
「ほんとありがとうね…今度お礼するから…」
「おう」

食満くんは笑顔で、元気出せよと言い残すと、ぱしゃぱしゃとあっという間に走り去った。タカ丸くんはわたしの顔を覗き込むようにして、歩ける?と聞いてくれる。

「うん」
「お風呂…より先に、部屋かな。着替えがいるもんね」
「うん」
「その後ご飯だね。おばちゃんも知ってるからきっとなまえちゃんの分取っておいてくれてるよ」
「うん…タカ丸くんも本当にありがとう」
「いいよ」

ゆっくりと歩きながらタカ丸くんは笑う。

「俺忍者として全然ダメだし、あんまり頼りになる方でもないから、こんなでもなまえちゃんの為になれることがあって嬉しいよ」
「タカ丸くん、良い人すぎ」
「そんなことないって!なまえちゃんじゃなきゃ、そんなの思わないもん」

わたしはタカ丸くんから目を逸らす。

「つまり俺の言いたいことわかる?」
「わ、わかんない」

隣でタカ丸くんがふふっと笑った。なんでよ、笑うとこじゃないよ。多分、間違いなく、わたしがタカ丸くんだったら逸らされたくない話題のはずだもの。

「ほらなまえちゃん、長屋見えてきたよ。風邪、引かないでね」
「は、話終わりでいいの?」
「続けていいの?」
「……」

わたしが口ごもると、タカ丸くんはまた楽しそうに笑った。

「今何か言ったら全部ズルみたいな気がしちゃってさ」
「そ、そんなことはないけど…」
「とりあえず、俺も結構濡れたから、一旦忍たま長屋戻るよ。おやすみ」
「…うん、ありがとう、ごめんね。おやすみ。タカ丸くんも風邪引かないで」

そう言うとタカ丸くんはまた頭を撫でてくれて、それから食満くんほど颯爽とではないけれど、急ぎ足で忍たま長屋の方へ戻って行った。ちょっともやもやが残ったけど、穴の中でも思ったように、わたしははっきり答える自信がない。雨の中しばらく突っ立って考えていたら、ぶるぶるっと無意識に身震いするほど体が芯から冷えていたことに気が付いた。もう、風邪、引いてるかもしれないな。と、思いつつ、わたしは重い体を引きずって、部屋へ着替えを取りに入った。
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