休日、久しぶりに事務の仕事も少なく済んだので、食堂で朝食の手伝いをした後、時間が空いた。といってもすることが特に思い付かず、休日に誘うような人も思い付かず、わたしは部屋の前の廊下で腰掛け、足をぶらぶらしながら庭の池を眺めた。秀作くんは、休日で出入りする生徒が多いので、サイン集めに燃えていて、部屋にはいない。池の鯉の数を数えていたら、突然肩を叩かれた。
「わっ」
「う、わあ!」
「へへ、びっくりした?」
後ろに立っていたのは、タカ丸くん。
「びっくりしたぁ、気付かなかった!」
「昨日教えてもらったんだ、足音をたてない歩き方!」
「忍者してるんだ、タカ丸くんも」
「でしょ〜」
ふにゃりと笑って、隣に腰をおろすタカ丸くん。休日だからかいつもの紫の制服ではなく私服を着ている。
「父さんからの言い付けだからね!」
「なにが?」
「忍者になれって」
「そうだったの?!でも、前にも聞いたかもしれないけど、髪結いにはならなくていいの?」
「もし忍者になるとしても、おじいさんのように髪結いをしながらできたらって思うんだ」
「ちゃんと考えてたんだね、意外」
「まあね!でも、こんな俺で忍者になれるかはわからないけど…」
確かにタカ丸くん、辻刈りはすごいけど、わたしと同じくらい忍者に向いていないような、気がする。けど、頑張ってるんなら、応援したい。
「ところで、誰か先生に用事があったの?」
「ううん。どうして?」
「ここ、教師の長屋だから」
「ふらふらしてたら着いたんだ」
タカ丸くんのことだから、本当にただ、ふらふらしていたんだろう。わたしがちょっと笑って池に目を戻した後も、妙にタカ丸くんから視線を感じたので、横目で見てみたら、彼はじっとわたしの、髪、を見ていた。
「…タカ丸くん?」
「あっ、ああ、ごめんね!ホントに綺麗な髪だな〜って思ってさ」
無意識だったのか、声をかけるとタカ丸くんは顔の前で手をパタパタ振って弁解した。それから、髪に手を伸ばす。
「柔らかいし、さらさら。ちゃんと手入れされてるね」
髪をすくように触るタカ丸くん。ちょっと恥ずかしくなって、再びタカ丸くんから視線を外す。
「ひ、人並みにね、女の子だから」
「元々の髪質もいいから、あまりいじらなくても綺麗なんだね」
うっとりしたように言うタカ丸くん。褒めてもらえたら、もちろん悪い気はしない。髪をいじっていたタカ丸くんの手が、だんだん上に上がり、頭を撫でるような手つきに変わる。不思議と気持ち良く感じるのは、髪結いの滑らかな手つきのせいだろうか。なんだか、穏やかな時間。
「なまえちゃん」
「うん?」
名前を呼ばれ顔を上げれば、真剣な顔のタカ丸くん。鼓動が一気に速くなってしまう。
「あのさ、俺、」
「斉藤!ようやく見つけたぞ!」
足音もなく曲がり角から飛び出してきた人影が叫んで、わたし達は一緒に何寸か浮いたんじゃないかというくらい驚いた。叫んだ人の正体は、わたしよりさらさらの綺麗な黒髪を少し乱し、鬼の形相の仙蔵くんだ。
「た、立花くん、どうしたの?」
「どうしたのじゃない。お前を探していたんだ」
「俺、何かした?」
「身に覚えがないとでも言う気か?硝煙蔵の鍵、返し忘れてお前が持っていると土井先生がおっしゃっていたぞ」
「……あ!」
タカ丸くんがすぐに全身をぽんぽんと触って確認して、また顔を青くする。
「部屋に…」
「取って来い」
ギンと睨みつけられ、タカ丸くんはじゃあねと一言残して、ばたばた足音をたてて走り去る。それを見送りため息をつく仙蔵くんを見ていたら、目が合った。機嫌が悪そう。これは良くない。いじめっ子スイッチが入っている顔だ。
「…嬉しそうに撫でられて。犬か」
「いっ…犬?!ていうか、見て…?」
「見たくもなかったが見えたのだ。人目につくところだと、気付かなかったか?」
歪んだ口元、小ばかにするような表情に、しかし言い返せない。そんなわたしの頭を、ぐしゃぐしゃと撫でる仙蔵くん。タカ丸くんとは全然違い、優しさを感じない、むしろ乱そうという悪意すら感じる撫で方だ。
「そろそろ昼飯時じゃないか?犬」
「犬じゃないってばー!」
「そうぎゃんぎゃん刃向かうところも犬っぽいな」
「もう!」
確かにもう昼食の準備が始まる時間だったので、立ち上がって髪を直し、仙蔵くんの横を足早に通りすぎる。
「犬は嫌いじゃないぞ」
「嬉しくない!仙蔵くんなんて、猫っぽいんだから!」
「ああ、猫の方が好きだ」
振り返って一度わんと噛み付く真似をして、食堂まで走ろうと思ったら、角で会った山田先生に廊下は走るなと怒られてしまった。
昼食。タカ丸くんと仙蔵くんは、終わり頃に二人一緒に来た。先に並び、にやりとした仙蔵くんに、頬を膨らませる。
「定食を一つだ、犬」
「犬じゃないから受け付けません」
「後ろが詰まるぞ?」
「うっ…」
渋々おばちゃんに伝えようとした時、がちゃんと食器をさげる音。
「仙蔵遅いから、先に食い終わってしまったよ!」
「…お前より犬っぽいやつがここにいたな、」
「間違いないわ」
「へ?」
きょとん、とした小平太くんは、まさしく大型犬。わたしと仙蔵くんの言葉など気にせず、特訓だー!と食堂を飛び出して行った。苦笑いして、仙蔵くんに定食を渡す。仙蔵くんも呆れたような顔をして、まだ残っていた六年生の近くに席を取った。
「タカ丸くんはどうする?」
「俺も、定食にするよ」
「怒られた?」
「そりゃあもう…立花くんだけでも十分なのに、ご飯を食べたら土井先生にも叱られに行かないといけないよ〜」
「硝煙蔵は危ないもの、仕方ないよ」
「そうだよねぇ…でさ、さっきの話なんだけど」
「え?!」
「え、覚えてない?立花くんが来る前、話しかけてたんだけど…」
「お、覚えてるよ」
「あれ、また今度改めて話すから、聞いて欲しくて」
「う…うん」
「よかった」
タカ丸くんがにっこりと笑い、ちょうど盛り付け終わった定食を渡す。心臓がどきどきうるさいのは、わたしの自意識過剰だろう。