息が苦しいような気がした。鼻の奥がツンとした。しゃべろうとしたら、口からぼこぼこと泡が出た。あ、わたしは水の中にいるんだ、と気が付いた。がんばって目を開けたら、薄暗い青の世界。今が夜なのか、随分深くまで沈んでいるのかわからないけれど、光らしきものはあんまり見えなかった。暗い、暗い。どうしてわたしは沈んでいるんだろう。顔の横を名前のわからない魚が泳いでいった。海であることは間違いないようだ。わたしの体は頭からずんずん下へと沈んでいた。それに比例して周りは暗くなり、息は苦しくなり、耳が痛くなった。今どれくらい深いところにいるんだろう。このまま沈んでいったら、水圧でぺしゃんと潰れて死ぬのかな。そう考えると、人間って儚いものだ。そして、海は偉大だ。大好きな海でしぬのならこのまま落ちていくのもいいかもしれない。それに、上に向かうために手足を動かすのが面倒臭い。体がだるい。わたしの体はぺしゃんこになって、魚とかに食べられたりして、骨はゆっくり波に削られて砂になって、そうして自然に還る。わたしは海の一部になるのだ。すてきじゃないか。耳の奥でみしみしと音がした気がした。とうとうぺしゃんこの時間かな。そう思ったとき、どこかから声がした。声はわたしの名前を呼んでいた。だれだろう、と耳をすますけど、みしみしがうるさい。わたしは初めて、腕を動かした。上に向かって、水を掻く。なまえ、なまえ、声はだんだんはっきりする。あ、この声は、綱海の声だ。綱海、綱海、どうしてわたしを呼んでいるの。綱海は答えてくれない。わたしには綱海の声が聞こえているのに、綱海にわたしの声は届いていないのだろうか。口に出してみれば届くかなぁと思って口を開いても、出てくるのはごぽごぽという音と泡だけだ。なまえ、なまえ。綱海、綱海。わたしはわたしの声を綱海に届けたくて、力一杯水を掻いた。体にまとわりつく服が重い。わたしは周りがぼんやりと明るくなってきたことで、自分が大海原中の制服を着ていることに気が付いた。でも今は、そんなことはどうでもいいのだ。綱海の声が近くなる。だんだん周りが明るくなる。必死に腕を動かすと、ようやくきらきら光っている海面が見えてきた。もしかしたら夜明けの時間だったのかもしれない。もう綱海の声は随分はっきり聞こえていた。なまえ、なまえ。わたしは足で水を蹴って、右手を海面に伸ばした。あと少し、あと少し。ぼんやりと綱海の髪のピンクが見えた。でも、もう体力の限界だった。かなり深くから泳いできたし、冷たい水の中に長い間いたせいもあるかもしれない。せめて手だけでも海面から出たら、綱海が引っ張り上げてくれるだろうか。わたしは必死に腕を伸ばす。綱海、綱海。心の中で呼びかける。ちょん、と中指が海面に触れた。途端に誰かが、多分綱海が、わたしの手を掴んだ。そこからじわあ、と温かさが体中に広がる。そのままわたしの体は海の外へと、引っ張り出された。

「なまえ、なまえ」
「つなみ…?」

急に、いやにクリアな綱海の声がした。わたしも泡じゃなくて、ちゃんと言葉を発している。ゆっくり目を開けると、わたしはベッドの中にいた。綱海はわたしの手を握って、目を丸くしてこっちを見ていた。ベッドの周りには真っ白なカーテンがある。ぷうんと薬の匂いがして、ああ病院かぁと頭が理解した。同時に、自分の身に何が起こったのか思い出した。わたしは学校からの帰り道、交通事故に遭ったのだ。頭には包帯が巻かれているようだった。

「なまえ、お前…生きてるのか?」
「いきてるよ、つなみ、わたし生きてる」
「…なまえ!良かった、本当に良かった…!」

綱海は泣きそうな顔をして、わたしの手をさっきよりも強く、ぎゅっと握った。どうやらわたしは夢を見ていたようだ。長くて辛い夢だった。寒くて寂しい夢だった。でも本当は、綱海がずっとそばにいてくれていたようだ。

「俺、なまえが意識不明の間ずっとここにいて、考えてたんだけどな」
「うん」
「なまえが死んだら生きていけねえよ、俺」

綱海はそう言って笑ったけど、目はうるうるしていたし、声は泣きそうに震えていた。

「ありがとう、綱海。わたしが戻ってこられたのは、綱海のおかげだよ」

わたしはわたしの右手を握っている綱海の手に、左手を重ねた。

「綱海の声が聞こえたから、がんばれたよ。ありがとう」
「はは…当たり前だろ」

綱海はくしゃっと笑った。その拍子に、ぽろっと一粒、涙がこぼれる。それはわたしと綱海の繋がれた手の上に落ちた。あたたかい。ああ、生きている温度だ。

「綱海」
「なんだ?」
「呼びたかっただけだよ」

ぐしゃぐしゃっと頭を撫でてくれる綱海の手の温かさに、わたしも泣いてしまった。



 
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