この世に生を受けた日のことを、覚えてはいない。
けれども確かに言えることは、その時に自分がクダリと共にあったということで、そして自分は心臓がその役目を終えるまで、この片割れと共に有りたいということだ。

「ノボリにだけ、教えてあげるよ」

そのクダリが、ノボリの絶対の愛すべき対象が、つい先程声を潜めてノボリに耳打ちした。

「ぼくらは、飛べるんだよ」

告げて、クダリが顔いっぱいに微笑む。この世一切の邪気を排したような、ひたすらに無垢で純粋な笑顔だった。

その顔を目で見て、その声を耳で聞いて、ああ、そうだったのか、とノボリは納得した。
私達は飛べるのだ。方法はわからないが、恐らく羽根を生やすなり何なりして。
クダリがそう言うのなら、それに間違いはないのだから。

「さっき、アーケオスと散歩してて、気がついたんだ」

「そうですか」

「ぼくたちは、浮かんでいける。そうしたければ、どこまでも」

ノボリは肯定を示すために一つ頷いた。
クダリは飛べるだろう。澄んだ遠い群青色に、どこまでもどこまでも浮かびあがって飛んでいけるだろう。

「けど、ぼくは、飛ばない」

空想に浸っていたノボリは、続けたクダリに驚いて目をしばたかせた。

何故。どうして。飛べるのに。

目を瞑れば、瞼の裏で空に浮かびあがるクダリが見える。
ノボリにとってそれは単なる想像などではなく、一つの確固たる事実だった。
クダリの言うことが叶う、美しい美しい世界の内側に、ノボリは住んでいたのだ。

打ち壊された事実に狼狽して目を泳がせると、おもむろにクダリと視線があった。
薄い唇が言葉を紡ぐために開かれる。

「だって、空なんか行かなくたって」


ここに、ノボリがいるから。



「心臓が止まるまで一緒がいいね」

微笑むクダリはただただ無邪気だった。






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120303
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