「救急車をお願いします」

現在地を手短に伝えると、ランスロットは電話を切った。

辺りからは噎せ返るような血の臭いがしている。
部屋の床には点々と、黒ずんだ紅が散らばっていた。

そっと、ランスロットは血溜まりに膝をついた。


血溜まりの中、倒れていたのは雁夜だった。



おそらくは喀血の発作だろう。脈はあるが酷く弱い。治療が間に合うかどうかは不明だ。

ここしばらく、雁夜の体の調子は少しだけ好転していた。胃にもたれない程度の固形物なら少し食べられるようになり、出先で倒れることもなく、先日は桜と私とと共に三人で一日出掛けたりもしたのに。


今日になって、リビングで倒れているのを見つけた時にはもう、雁夜は虫の息だった。



「雁夜」

初めて呼んでみた彼の名前。無論、意識のない彼からの返事はない。

もう、ここにはいられないのだろう。救急車を呼んだと知られれば、契約は終了する。元来、失語症の治療が終わるまでという条件で結ばれた契約なのだから。

存外、彼との共同生活は楽しかった。

彼は毎週、暇さえあれば彼の実家に預けられている少女に会いに行っていた。
しょっちゅう彼女、桜を連れ出すための交渉をし、稀に交渉に成功すると、桜と共に外出した。
時折、雁夜は酔ったり嫌なことがあると、すぐに彼の初恋の人を奪った男に対するコンプレックスを語り、(大抵は愚痴だ)、彼に対して物騒なことを口走ったりした。


己の主観から見て、悲しければ気落ちし、良いことがあれば喜ぶ。

言ってしまえば、取り巻く少々複雑な状況を除くと、彼は平凡な男だった。



――彼は、死んでしまうのだろうか。

考えながら、ランスロットはぼんやりと救急車を待っていた。

雁夜、

再び名前を呼ぼうとするも、何故だか胸が詰まって声が出ない。


待てどもサイレンの音は聞こえてこなかった。








彼女は夏におかしくなった。

その荷は、元より彼女一人の小さな背に負うには余りにも重すぎた。
いつか潰れてしまうだろうとは、誰の目から見ても明らかだった。

それでも彼女は懸命だった。
周囲の期待に応えようと、過度の重圧にひたすらに耐えた。いかなる時も王たろうと、気高い姿であってみせた。


そう、彼女はよく耐えた。



『王は人の心が分からない』



それに止めを刺したのは、私の一言。

王は私のために死んでしまった。







まだ、消毒液の臭いがしている。

病院のエントランスで、ランスロットはふと先ほどの会話を思い出した。

雁夜が搬送された先の病院の委員長は、偶然にも彼の知り合いだったらしい。

その優雅な立ち振舞いや、堂々とした物腰から、ランスロットが彼が雁夜の目の敵にしていた“遠坂時臣”なる人物だと気付くのに、さほど時間はかからなかった。

奇妙な因果だ。雁夜が知ったら何と言うだろう。

「彼は、助かるんでしょうか?」

自ら彼の様子を見に来た委員長に尋ねると、流暢かつ上品な口調で返答がなされる。

「輸血は滞りなく行われています。何も問題がなければ、じきに目を覚ますでしょう」
「そうですか」

それまで何の感情も示さなかったランスロットが雁夜の状態を聞いたことが意外だったのか、青い目が興味深げにランスロットへ向けられる。

「彼と、お知り合いなのですか?」

答えなどずっと昔から用意してあったかの様に、一切言い淀むことなく、ランスロットは告げた。



「いいえ」




これで、良かったのだ。
彼女の時も、私は何も言わず、去るべきだったのだ。


行く当てなど何処にもなかったが、ランスロットは歩き続けた。此処ではない何処かへ、このまま餓死しようとも歩き続けるつもりだった。


けれど、それでも、もしかしたら。

ふと、空想が脳裏をよぎる。


雁夜と、話せてみていたら。
傷を、見せ合えていれたならば。




――愚かしい。

らしくない考えを、ランスロットは自嘲した。




有り得ない事柄を想定したりして、いつまでもそれに拘ったりして、それが、果たして、





一体何になるというのか。





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