暗闇の中で何かが蠢くのを意識の外で感じ、桜は小さく身をよじった。
名の分からない気配に耳を澄ませると確かに何かが、冷たい床を、這っている。
何かは分からない。けど分からなくても良い。この世にあるものはみんな、私を傷つけるものなんだから。
それでもぼんやりと目を開いた。理由は分からない。そんなものは無かったのかもしれない。それでも桜は目を開けた。なんて馬鹿な子だろう、と桜は思った。
飛び込んできたのは、いつもと同じ天井。こちらを圧迫する壁。私を閉じ込める蓋。
それから、ボロボロに傷ついた、大人。
雁夜、おじさん。
桜は開いた目を細めた。どうして戻って来たんだろう。この家にはおじいさまがいるのに。また、おじいさまにいじめられちゃうのに。
おじさんはあちこち傷だらけだった。ひっきりなしに血が流れているせいで、体はほとんど真っ赤だ。
痛くないんだろうか、なんて馬鹿な考えが浮かんだ。
「逃げよう、逃げよう、桜ちゃん」
うわ言のように、呟かれる声。満身創痍の指が桜の肩を、腕を、足を這った。冷たい、死人の指。その指に体をまさぐる蟲の記憶を呼び起こして、桜は少し不快になった。だがその指は蟲と違って、桜に繋がれた鎖を探しているようだ。
馬鹿な人。一人で逃げることも出来ないなんて。
桜は、雁夜の愚かさが少し可哀想になった。
カチカチと、ひっきりなしに指が動く。どうやら桜に繋がれた鎖の鍵を壊そうとしているらしかった。
壊れたってなんの意味もないのに。
逃げたってすぐにおじいさまは私を見つけられるんだから。
桜はぼんやりと雁夜を見下ろした。必死、だった。雁夜がもう長くないことは、桜にだって簡単に分かった。
パキン、
金属が割れる音を立てて、鍵が壊れた。
おじさんの全身から力が抜けていくのが分かる。
良かった、良かったね。
桜ちゃん、凛ちゃん――
葵さん。
ぐしゃり、と小さな音を立てて倒れて、それから、おじさんの体は蟲に埋もれた。どんどん、おじさんの体は食い尽くされていって、もう最初からいなかったみたいに、一欠片だって残りはしなかった。
残されたのは、また元の暗闇と、薄暗い天井と、小さく痛む胸。
暗闇の中、桜は痛む胸に手を当てた。
なんだか胸が塞がっている感じがする。
まるで身が切れるような、痛み。
これは憎しみだ。桜は気が付いた。
強い、怒り。
私は、この人が憎かった。一人で出ていったこの人が憎かった。幸福に一人で死んでいったこの人が、憎かった。
どうして、どうしてこの人はこんなことしちゃったんだろう。
考えて、考えてみても分からない。
あーあ、どうしてなんだろう。
私は、この人に、
側にいて欲しかっただけなのに。
:溺れる壁
120415