「ケイネス・エルメロイ・アーチボルトだ」


初対面にそう言って差し出した右手を目にした時の男の顔を、ケイネスは忘れられない。



芸術性の高い美術的彫刻品のような、道を歩けば感嘆の声が上がるであろうほど端正な顔立ちをしたその男は、その琥珀色の瞳に隠しきれない恐怖の色と絶対的な嫌悪感を滲ませて、男は――ディルムッドは、一切動かないでいることでケイネスの挨拶に返答した。









「…私はお前の下男ではないのだがな」



嫌味を一つ吐いて、ケイネスはドアの前で立ち尽くすディルムッドに扉を開いた。



「…申し訳ありません」



目を伏せたこの男は、素手でドアノブになど触れられない。もしもそんなことをしてしまったら、胃の中のもの全てを出しきるまで嘔吐し、擦りきれるほどに両手を洗うだろう。ディルムッドは過敏なまでに潔癖症だった。ケイネス自身、手袋は常にはめていたが、ディルムッドは手袋さえも、一度汚れがつけばその場で取り替えなければ気がすまず、また一度着けた手袋は二度と着けなかった。

ディルムッドにとって、日常生活は困難を極める苦行のようなものである。

――それを共に送るものにとっても。


心の中でケイネスは付け足した。








ケイネスは優秀な精神科医である。そのことは周知の事実であり、またケイネスもそれを自負しており、仕事に高い誇りをもっている。


しかし、誤って――そこに他意は無いと信じたい――彼に触れてしまい、彼の激しい拒絶に自身の婚約者であるソラウが涙するのを見てから、患者であるこの男に対してケイネスは内心穏やかでなかった。



彼女はどうであれ、ケイネスは自身の美しい婚約者を愛していた。彼女に殉じてもいいと思えるほど、深く深く愛していた。



反射的にソラウをはたいた瞬間、ディルムッドはケイネスの世界で一番美しいものを否定したのだった。





「…お前は自分以外を愛せないのか?」


自身が何にも触れないように慎重に、玄関から部屋へと移動するディルムッドに問いかける。
突然の質問に困った顔をしたディルムッドに、ケイネスはこんなことは医者の言うことではないと苛立ち、それからこんなことを自分に言わせたディルムッドに苛立った。



恣意的でなかったとはいってもこの男のソラウに対する狼藉は、ケイネスにとっては心の奥底を土足で踏み荒らされたような気分で、患者とは分かっていても嫌味の一つでも投げずにはいられない。



「…いえ。愛した人は、確かにいます」



「貴様は愛する者にも触れられないわけだ」



「はい」



返答する男の声音が余りにも寂しげだったために、一瞬、ケイネスは怒りを忘れ驚いて男を見つめた。


「…愛しているなら、汚いと思うはずがないだろう」


あるいは、それがどんなに汚くても触れられるだろう。それにより自分がどんなに汚れても、それを愛していられるのだから。



ケイネスの言葉に、ディルムッドはより一層寂しげだった。ただひたすらに寂しげに、隠しきれない哀しみをたたえた低い声で、潔癖症の男はケイネスに告げる。






「愛しているために、汚してしまわないように、それに触れられないでいるのです」



俺は、汚いですから。



男の琥珀色が伏せられる。嫌うどころか、この男は愛していたのだ。世界を、彼を取り巻く世界を。自分は触れてはならないと、汚してはならないと思うほど、深く深く愛していたのだ。


男の愛を、ケイネスは笑わなかった。ディルムッドの世界に対する献身的な愛は、ケイネスにとってただひたすらに哀しいだけのものだった。


「貴様が触れて汚れてやるほど、この世界は美しくなどないぞ」



だから、彼の美しい世界をどうにか壊してしまいたいと、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトはディルムッドに告げた。








- ナノ -