ドラム缶の中で生き物の白い骨が硝酸をかけられて溶けゆく。
缶の側に無気力に佇むまだ若い青年――雨生龍之介は、いつもよりも処理に時間をかけてしまったことに舌打ちした。
龍之介の今日の獲物は太った女だった。
屠殺場に送られる直前の豚のようななりをした女を見て、龍之介は肉屋の苦労を慮りこの女を代わりに解体してやることをかってでたのである。
いつものようにまんまと女を殺すのに成功したものの、痩せ形であまり良いとは言えない体格をした龍之介はその巨体の処理に若干時間がかかった。
――あーあ、診察に遅れるなぁ。
返り血まみれの両手を見て、龍之介は肩を落とした。
『人を、殺して来たのですか?』
男の言葉に、ぱちくりと、龍之介は目をしばたかせた。
飛び出さんばかりに突き出された大きな二つの目が、真っ直ぐと龍之介を見つめている。
一瞬の衝撃から立ち直り、龍之介はヘラリと、笑みを浮かばせた。
何せ相手は狂った連続殺人鬼なのだ。殺人しか頭にない男が遅れてきた龍之介に対して、人を殺して来たのかと問うのは格別驚くべきことではない。
例え、それが真相を突いていたとしても。
酷いなぁ、と普段の調子で茶化すように笑うと、それでも龍之介から目を逸らさずに、連続殺人鬼は――ジル・ド・レェは、淡々と事実だけを述べるかのような声音で言った。
「だって、あなたは、先日の私の話に、酷く興奮していたじゃないですか」
雨生龍之介が精神科医になったのは、様々な紆余曲折を経てからである。
国文科から医学部に転向した時、龍之介が最初に目指したのは外科医だった。
目指した理由はただ単純に、人が死ぬことへの好奇心だったが、その後の死体の解剖実習で、龍之介は生まれて初めて雷に打たれたかのような感銘を受けた。
その時、龍之介は余りの感動に思わずその後で吐き、冷えた灰色の床に泣き崩れた。
駆け寄る同期達の白衣の姿も、やけに白い解剖室の壁だってもう見えなかった。
ただ、人体の内臓の、目の覚めるような赤色だけが、龍之介の全身全霊を魅力して離さなかった。
龍之介の人間の内臓の美しさを語る論文は受理されず、せめて小児科医がいいという訴えもあっさり無視され、龍之介は無理やりに精神科医に転向させられた。
その結果、血を見ることができなくなって3日目、龍之介は自身の姉を殺した。
彼女の死体を見て、自分をこんなにも美しい血を流す女の弟として造ってくれた神様に、心の底から感謝を伝えたのを覚えている。
そんな、最初の殺人の高揚を、高鳴る心臓の鼓動を思い出させる何かが、目の前の殺人鬼、ジル・ド・レェに確かに存在していた。
彼の言う通り、龍之介があの豚を想わせる太った女を殺したのは、彼が人の皮を剥いで本の装丁にしたと聞いて、人間の皮を手に入れようと思ったからである。
精神鑑定の結果次第では死刑判決を受ける連続殺人鬼である彼の殺人の手口はどれも残忍で芸術的であり、悉く龍之介の胸を打つ物だった。
透明なガラスケース越しある彼の指が、数多の子供達を馘り殺したものかと思うと、その手を掴んで尊敬の念を込めてブンブンと振りたくなる衝撃をどれほど必死の思いで抑えてきたことか。
その彼は、龍之介の想い全てを見抜いていたのである。
「…最高だ……!」
つーっと、温かい涙が頬を伝った。
今この瞬間、肉体的ではなく、精神的にガラスケースの向こう側の彼に触れた気がした。
「あんったは全部分かってる!!」
感涙に咽び泣いて、龍之介は叫んだ。
龍之介に全身からの称賛を与えられた彼は、子羊を導く聖職者のような微笑みを浮かべている。最高だ!最高にCOOLだ!これがおかしいっていうんなら、世界の方が間違ってる!
「旦那は一切狂ってなんかないよ!!」
精神鑑定の“正常”の欄に力一杯大きく丸をつけると、ジル・ド・レェその人は慈しむようにガラスケース越しに涙の伝う龍之介の頬を撫でた。