「やあ、綺礼。調子はどうだね?」
「…時臣師」


声をかけると黒衣の男――言峰綺礼は振り返った。
精神科医ながらにしてその黒いカソックは、綺礼の強い信仰心の表れである。1番上から下まで、全てのボタンを止めているところに、綺礼の人柄が伺い知れるというものだろう。
黙々と目標に向かって打ち込む彼の姿勢は彼の父親、言峰璃正の人柄を時臣に思わせた。



「今やっと50の人格を確認したところですが、おそらく全部でざっと100はあると見ていいでしょう」
「そうか、ご苦労だったね」



担当であるハサンの状態を淡々と報告する綺礼。
綺礼は現在時臣の下で働いており、正直なところ最近の時臣は綺礼にかなり助けられていた。


「…顔色が優れないようですが」


――相変わらず綺礼は鋭いな。時臣は苦笑した。
だが、こんな風に部下に心配されているようでは、遠坂家当主としての名折れである。



“常に余裕をもって優雅たれ”



代々続く自身の家名、遠坂の家訓を心の中で反芻する。



「すまないね。大したことではないよ」



そうですか、と言ったきり、綺礼はそれ以上踏み込んでこなかった。



その様子を見て、彼が綺礼に会ったらどんな反応をするだろうかと、どことなく思った。





屋敷に戻ると、磨きあげられた美しい白磁器一枚一枚を、ギルガメッシュが床に叩き割っていた。


何てことはない。いつもの彼の癇癪だ。



――戸棚に鍵を掛け忘れた担当の使用人には後で暇を出さなければ。
内心溜め息をつきたい気分で、時臣は激昂する彼の元に歩み寄った。



「破片で怪我をなさいますよ」
「黙っておれ!」



その声にギルガメッシュが叫び、時臣にティーカップを投げつける。
ティーカップは狙いを大きく外し、部屋の白い壁に当たって無残に砕け散った。



忌々しげにこちらを睨むギルガメッシュの視線の先は、よく見ると時臣に合っていない。



そのルビーを溶かしたような双眸は、モノを視るという意味を為していなかった。ただ、眼そのものに異常が見つからなかったため精神性の失明と判断され、時臣の元へ送られてきたのだ


手を引かれなければ一人で歩くことさえ出来ないというのに、ギルガメッシュはかなりの気分屋であり、屋敷での生活に早々と飽きて退屈しだした。


挙げ句の果てに外に出たいと言い出し、それを何とか時臣が止めようとすれば、自尊心が高いギルガメッシュはすぐに『お前の慇懃無礼な態度には飽き飽きした!』と怒り狂う始末。
その怒りも彼の視力が良くないために時臣には全く届かず、それによりギルガメッシュはいたく誇りを傷付けられて更に怒りを募らせてゆくのだ。



――いつか屋敷から抜け出した彼の轢死体を取りに行くことになるかもしれないな。



想像したくはないが、想像し難くない想像に遠坂時臣は眉間に皺を寄せる。



もっとも、こんなことを言ったらさらに彼の怒りに火をつけることにだろうが。





想像を打ち切り、見ると、割れた皿の破片を手にしてギルガメッシュがじっと何かを逡巡しているようだった。


そして彼は、それをグッと彼の眼に押し当た。
ギルガメッシュが何をしようとしているか分かって背筋にサッと冷たいものが走る。



「お止め下さい!!」



反射的にギルガメッシュの腕を掴み、ほとんど一瞬の差で彼が自身の眼を潰すのを阻止した。



「うるさい!黙れ!」



時臣を押し退けようと、ギルガメッシュが叫ぶ。



「どうか、お考え直しください!
その両目はいつかまた見えるようになります!」
「その前に我が退屈で死ぬだろうな!」
「どうか……!」



どうにかして彼を宥めようと時臣は必死だった。彼をこんなにも自暴自棄にさせてしまったことに激しい後悔が時臣を襲う。


やっとのことで破片を取り上げて、時臣は再びギルガメッシュに訴えかける。



「眼は治してゆきましょう。私もおりますから」



その言葉に、虚空をさ迷っていたギルガメッシュの瞳が揺れる。
けれどもすぐに何かを思い出そうとするかのようなそれも、何もかもを嘲るような歪んだ笑みに変わっていた。






「顔も知らぬ男の、一体何を信じろと言うのだ」






残酷に笑う彼には見えてない。この手のひらを伝う緋色だって、やっぱり見えてない。





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