悔いることは後でもいい
 

「行かなきゃ…」
ふらりと市は歩き始める。
荷物を片手に財前の家に向かって。
「…織田っ!織田やろ!?」
声を掛けられ手を掴まれた。
「…謙也、さん」
「やっぱり織田やった。…どないして、大阪におるん?」
ホッとした様子で謙也は聞いた。
「財前さんから、電話があったから……」
「光から…?……織田、今何処に向かおう思っとった?」
「財前さんの家によ…」
「…っ駄目や!」
「……え?」
「今は、アカン…織田、帰った方がええ」
「どうして……?」
謙也の真剣な表情に市は眉根を寄せて尋ねた。
謙也は言いづらそうな表情をしながらも言った。
「今のあいつは、織田に懐いとった光と違うんや…」
「どういう……」
「とにかく、今は止めえや。…今日は俺の家、皆泊まりでおらん。…泊まってええから」
ギュッと拳を握り締めながら言う謙也に、市は何を言うでもなく頷いた。










「お茶でええか?」
「うん、ありがとう……」
コップに入れられた緑茶を受け取り、市は一口飲んだ。
謙也は市の前に座る。
ずっと俯いたままだ。
「…謙也さん?」
「っああ…すまんな。何があったか、言わんといけんよな」
市が控えめに声を掛けると謙也は決心したように顔を上げた。
そして自分の分の緑茶を一口飲むと、これまでのことを話し始めた。










あの立海との練習試合のあと、俺らの部活でマネージャーが欲しいって話になったんや。
勿論ミーハーな女子は働いてくれへんからお断りやった。
俺は昔っから色でどんなやつか分かったからな、俺が見て平気そうなやつをマネージャーにしよ思うてたんや。
…そんなある日、白石がマネージャー候補を連れて来たんや。
そいつは美里愛司。
顔立ちも平凡で、笑うと「あ、可愛いな」ちゅう子やった。
けど俺の目には美里は澱んだ黒い泥みたいなんがベッタリくっついとるように見えた。
何やよくない、そう思って俺は反対したんや。
けど白石は言ったんや。
「愛司は大丈夫や、こないな優しい子がミーハーな訳ないやろ」
……って。
今思えば白石はあのときにはすっかりあいつの虜だったんやろうな。
どんなときだって女の子の名前を呼ぶことがない白石やったし。
…よくよく思い出してみれば、白石にもうっすらとあの澱んだ黒い泥みたいなんが纏わり付いとったんやから。
部長の白石が言うならってことになって、俺らは美里をマネージャーにした。
けどそれから、テニス部は目茶苦茶になっていった。
他のやつらは俺と違って色なんか見えへん。
纏わり付きそうになったら俺は自慢の足で避けとったけど、他のやつらは違った。
……美里はいちいちタオルなんかを渡す度にボディタッチをしようとするんや。
それでどんどんその黒いやつは他のやつにも纏わり付いていく。
俺みたく見えるんならくっついとっても意識して払えば取れるんやけどそうもいかへん。
次第に全員、様子が可笑しなっていった。
一番最初は白石やった。
美里に名前を呼ばれるだけで幸せそうに笑い、美里が笑えばそれだけで嬉しそうにして、美里の傍にベッタリくっつくようになったんや。
それは他のやつもやった。
次第に、次第に。
練習はちゃんとやっとる、そうすれば美里が喜ぶから。
でも何や違うんや。
白石達のあのテニスしとるときの輝きがないんや。
一番、美里に触られていたんは光やった。
……そして一番、光が最後まで抵抗しとった。
光は美里に名前を呼ばれると嬉しそうにしながら、次の瞬間には嫌悪に満ちた顔をして。
そうやってずっと耐えとった。
俺は、光のあの黒いやつを何度も払った。
けど…けど、駄目だったんや。
いくら払ってもすぐに黒いやつは光に纏わり付く。
自分が気付いて振り払わない限り、あれはくっついたままなんや。
俺はショックやった。
見えるのに、仲間が段々変わってしまうんを助けることが出来なかったんや。
今、無事なんは俺と千歳、それに銀だけや。
千歳は部活に顔を出さんし、銀は常に気を引き締めて煩悩なんかを寄せつけんから無事だったんやと思う。
…俺が分かっとるんはこれだけや。
多分光のその電話は、光が最後の力を振り絞って掛けたものやと思う。
…もう殆ど、美里の言葉に嫌悪することがなくなっとったから。










謙也が話し終えたあと、沈黙が走った。
「……すまんな、織田。俺が弱いから、あいつらのこと…」
ぽつりと謙也が呟き泣き笑いのような顔をすると市は戸惑い気味に謙也の頬に手を伸ばした。
「謙也さんが、気にすることではないわ………」
「けど!俺が近付いたら駄目やって言うとったら…言うとったら何か変わったかもしれんやんか!」
「……残酷なことを言うようだけど、多少今の状態になるのが遅れるだけ。聞いた限りでは白石さんは既に何回も接触していたみたいだし……業とボディタッチをしてきていたのだから………」
市の言葉に謙也は拳を握り締めた。
「(こんな、色が見える俺なのに。あいつらは受け入れてくれたんに。俺は、あいつらを助けることも出来んかった。テニスに真剣に取り組んどる白石が、健ちゃんが、小春が、ユウジが、──光が、大好きだったんや。千歳が部活に顔を出さんのもきっと、この状態になってもうたテニス部で部活がしたくないからや。だって、美里がマネージャーになるまでは確かに、千歳は週に一、二回は来ていたんやから。銀もあまり表には出さんようにはしてたけどやや美里を遠巻きにしとったんや。)」
「…謙也さん」
市の声に考え込んでいた謙也は考え込むのを止めた。
「謙也さんが、辛いのは分かったわ……」
「…おん」
「市、何とかしてみるわ………」
「…何、言って」
市の言葉に謙也は僅かに目を見開いた。
「財前さんは市に助けを求めていたわ……それに謙也さん、悲しそう…」
「でも、」
「大丈夫…市を信じて、ね…?」
そう言った市の背後に謙也は澄んだ黒を見た気がした。



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