政略結婚した夫が私にだけ冷たいので家出したら溺愛された件
夫が酔っ払って帰ってきた。仕事柄酒の絡む席も多いと聞くけどまさか今日こんな泥酔するまで飲んでくると思わなくてさすがに驚く。
「竜胆、大丈夫…?」
私の声が聞こえているのかいないのか、フラフラと玄関から入ってくる姿に心配になって肩を貸すと竜胆は「んー」と唸りながら私に体重をかけてきた。
筋肉質だから見た目の割に重くて支えきれずに何度もよろけたけど、なんとかベッドに寝かせた。こういう時無駄に広いマンションは困る。
ふぅ、と息を整えてベッドから立ちあがろうとすると少し意識が戻ったらしい竜胆に「なんでいんの?」問いかけられた。
「え?家だから?」
「あー、夢か」
こりゃだめだ。完全に酔っ払ってる。水でも持ってこようと竜胆から離れたその瞬間、竜胆は私の手を引いた。
「わっ、り、竜胆!?」
「ん」
気がつくと私は竜胆に抱きしめられていて、身動きが取れなくなっていた。私たちらしくない距離感に心臓が口から出そうなくらい鳴り始めたけど、竜胆からの攻撃はそれだけでは終わらなくて、彼の顔はゆっくりと私の顔めがけて近づいてくる。
え、うそ、マジで?
私の混乱を飲み込むように竜胆は私に口づけた。口づけの優しさとは裏腹に竜胆の手は私の抵抗を押し込む。そして、キスもまた次第に深いものへと変わっていった。はじめてのキスなのに貪られるように唇を合わせたあと、竜胆の熱い舌が私の歯列を割って口内に入り込む。しばらく舌を絡められると抵抗を忘れてしまうくらい脳がとろけだすから竜胆のテクニックは相当なんだと思う。
私たち、このまましちゃうのかな…?ぼんやりとした頭でそう考えていると、急に竜胆の体はずるりと崩れ落ちるように私の上に降ってきた。
「うっ」
お、重っ。なに、これ。どういう状況?
しばらく待ってみても動く気配はない。
もしかして、寝た…?
「り、りんど、重たい、どいて」
まだドキドキする心臓を抑えながらその背中を何度か叩くと竜胆は眉間に皺を寄せて、そしてこう言った。
「ん…ユリ、うるせぇ…」
「……」
ドキドキしていた心臓が浮かされた熱と一緒にさーっとさめていくとようやく事態が飲み込めて、ぐーすか寝ている男を押し退けてなんとかベッドを脱出した。
なんとも言いようのないもやもやが心の中に広がっていくのを飲み込んで、スマホを手に取り一本の電話をかけると、数コールの後相手は電話に出た。
『恵がかけてくんのめずらしいなぁ。こんな日にどーした?』
「もう私無理…」
『なんかあった?』
「竜胆に本命と間違えてキスされた!!」
『アハハハ!マジウケる!』
「ウケないよ!」
これは私と竜胆の結婚初夜の話だ。
◇◇◇
私の家は六本木に本拠地を構える古き良き?極道一家だ。昔は関東で覇権を争うような大きな組だったけど、今日昔気質のヤクザは儲からないらしい。
そこで父が目をつけたのが犯罪組織・梵天。梵天はまだできて数年の新興組織なのにとどまるところを知らないくらいの勢いで勢力を拡大している。けれどその新しさゆえ地盤が固まっておらず、古くからの地盤をもつ組を探しているともっぱらの噂だった。
そしてこちらからの声がけで両者は手を組むこととなり、話し合いの結果、父の組が梵天傘下に降ることになった。
というのが父の側近から聞いた話である。
それを聞いた私の感想は「へー、大変そう」くらいの軽いものだった。というのも組の存続が危なくなり始めた十数年前から私は母と一緒に六本木から関西に引っ越して、そこからは身バレしないよう組とはかかわらずに生きてきたので、そういった裏の世界の話は私には関係のないものという位置づけになってしまっていたからだ。
だから今回も稀にくる定期連絡の一つとして流していたんだけど、そうも言っていられなくなったのは「六本木に戻ってこい」ともう何年も話していない父から直々に連絡があったからだ。
もしかして、アレですか?お見合い的な?末は政略結婚的な?
昔から恋愛結婚は諦めろと言われていたけど、25を過ぎたあたりからもうないでしょとたかをくくっていたので、気持ちの整理ができていない分ダメージは大きい。
そうは言ってもさすがの私でもこの手の話が断れないことはわかっているので重たい体を引きずって新幹線に乗り込むと、着いたのは品川駅。迎えが来るという話だったので昔から送迎を担当している滝川さんの姿を探したけど見つからない。重たいスーツケースを壁際に寄せてケータイを確認すると、その画面に影が落ちて手首を痛いくらいに掴まれた。
「いたっ」
骨がミシッと言いそうなくらいの力に顔をゆがめて見上げると、怖いくらいに綺麗な男の人がこれまた怖いくらいに私を睨んでいる。
「今までどこいたのか言い訳くらいは聞いてやっても良いけど」
「え?」
奇抜な紫色のウルフヘアをしている端正な男の人。着てるスーツもテーラーメイドなのかぴったり合っていてとても高そう。でもこんなかっこいい知り合いはいない、よね?
もう一度その男の人の顔を見てみると紫色の垂れた瞳と目が合って、その瞬間ふいっと顔を逸らされた。
この瞳にこの癖…。
「あの、どちら様ですか?」
もう誰かはピンと来てるのにあえてそう言えば
「愛想ねぇとこも変わってねぇな。オレに見惚れてたくせに」
とさらに手首を掴む力を強くした。
「竜胆!折れる、折れるから!」
「覚えてねぇとか言うからだろ。オレのこと忘れるとかマジねぇから」
「むしろ忘れたままでいたかった…」
「あ゛?」
相変わらず怖い…。
「それでなんで竜胆がここにいるの?」
竜胆はその言葉を聞いてハッと私を鼻で笑ってきた。
「オマエをわざわざ迎えにきてやった未来の旦那に礼の一つもねぇのかよ」
………は?
いやいや、聞き間違いだよね?
「未来の?」
「旦那」
「誰が?」
私がそう言うと竜胆ははぁと大きくため息をついて私の顎を手で持ち上げて自分の方に向かせた。
「オレとオマエは結婚すんの」
は…?
想像していたお見合いなんてまだ可愛いものだった。事態は私が思っていたよりも深刻だったらしい。
竜胆、飛ぶ鳥を落とす勢いの反社会組織・梵天の幹部。
私、落ち目の極道一家・一堂組組長の長女。
双方の利害の一致の結果、もうなんやかんやなめんどくさいやりとりは終わって私の未来の旦那様は勝手に決まっていたらしい。
この世の終わりかのように顔を青くする私を見て竜胆は昔と変わらない意地悪な顔で私を見下ろしていた。
◇
私と竜胆は家が近所のいわゆる幼馴染というやつ。でも少女マンガにあるようなキュンキュンするような関係じゃなくてむしろ嫌われている。竜胆は昔からいっつも私のことをブスだバカだ言うし、私がもう一人の幼馴染の蘭くんと話してるといつもあのタレ目を吊り上げて「色目使ってんなブス。兄ちゃんがオマエなんか相手にするわけねぇだろ」と言って邪魔をしてくる。
はじめのうちはどんだけお兄ちゃん好きなの?って思ってたけど、蘭くんの歴代彼女に対してそんな態度を取ってるところは見たことがないから、そのうち、「あ、私のこと嫌いなんだ」と言うことがわかった。
同じ学年だったから学校でもよく揶揄われた。極道の家の子をいじめられるのは全国を探しても多分あの男しかいないんじゃないだろうか。とにかく当時の私はそれが嫌で嫌で仕方なくて中学は竜胆と絶対違う学校に行くと猛勉強したのは懐かしい思い出。残念ながら受験には失敗したので、兄弟が傷害致死という罪を犯して少年院に入っていた間以外はずーっと一緒のもはや腐れ縁になってしまった。
中学に入る手前ぐらいから竜胆は蘭くんと共に『六本木のカリスマ』なんて呼ばれるようになって、同年代の不良のトップで、学校のスターで、女子の憧れの的になった。そんなんだから言い寄ってくる女の子はたくさんいてそれなりに仲良くしているようだったけど、特定の彼女を作ることはなかった。
それなのに変わらず私を見つけると「何やってんだよ」と声をかけてきては「ったくオマエは何やってもトロいんだよな」と罵る竜胆に、なんでも色恋沙汰に結びつけたがる友人たちが
「竜胆くんってひょっとして恵のこと好きなんじゃないの?」
なんて私に言うようになった。
そしてそれは勝手に噂になって友人が初めて言い出してから一ヶ月後、ついに竜胆の耳に届いたらしい。それを聞いた竜胆はわざわざみんなの前で
「はぁ?ンなワケねぇだろ?頭沸いてんじゃねぇの」
と皆の前で怒るように否定した。
六本木のカリスマでみんなの憧れ竜胆が好きな子に素直になれない残念な小学生みたいなのなはずないってわかってた。わかってたけど流石にみんなの前での公開処刑はキツかったし、やっぱり嫌いなことを直接言われるのはめちゃくちゃ悲しかった。
私たちのこの腐れ縁はもしかして永遠に続くのかもしれないと危惧したけど、高校受験を機に関西に移り住むことが決まって、しかも引っ越しも極秘だったからさすがにそこで竜胆との縁も切れた。
あれから12年。再び繋がってしまった縁で再会した竜胆は、昔と同じ、いや、昔以上に塩対応だった。
◇◇◇
次に竜胆と会ったのは二日後。
ゴテゴテの着物と気合の入った厚化粧(全て無理やりやられたものだけど)で待ち合わせの料亭に向かった。個室で20分も待たされた私への竜胆の第一声は「化粧ケバ。着物も全然似合ってねぇし」で、今日は組の手前穏便に行こうと思っていた気持ちはどこかへ吹っ飛んだ。
「好きでこうしてるんじゃないもん」
私が目を逸らしながら答えると気怠そうにした竜胆が、
「オマエ変わってねぇな。少しは旦那になる男に媚びるとかねぇの?」
と目を細めて私を詰った。
「わ、私にそういうの」
無理だよ…。と言いたいけどこちらを睨む竜胆が怖くて語尾が消えていく。
「ンだよ。文句あんならちゃんと言えって」
言わせてくれないの竜胆なのに!!
あーもう竜胆に罵られるとストレス溜まる!そう思って目の前に並んだご飯をバクバクと食べ始めた。着物の帯がきついことも忘れて食べたせいか、それともストレスのせいか胸が苦しくなっていく。まだ続く竜胆の嫌味にも返事せずに結構限界の息苦しさを誤魔化していたらさすがになんの返事もしなくなった私に竜胆も違和感を覚えたらしい。
「…オマエ、なんか変じゃねぇ?」
ここで気持ち悪いって言ったらなんか負けな気がする。「なんでもない」となんとか息を大きく吸いこんで誤魔化そうとしていたら竜胆が立ち上がって私の方に来た。
「な、に?」
そして竜胆は無言で私の帯に手をかけ始める。
「や、やめ」
「黙ってろ」
竜胆の手によって帯がぐちゃぐちゃに解かれると、ようやく上手く息ができて気持ち悪さが一気に吹き飛ぶ。私がはぁはぁと息を荒げて呼吸していると
「だから着物にあってねぇっつったじゃん」
と呆れたように顔を背けた。
失礼すぎる言い方はいつもの竜胆だけどこんなんでも一応私を助けようとしてくれたわけだし、お礼をしようと「あの、」と話しかけた瞬間、竜胆は私の方を見向きもしないで部屋から出て行ってしまった。
なんで竜胆っていっつもこうなんだろ…。
昔は優しかったのになぁ。私を遊びに誘いにきた時に道端に咲いてた花をプレゼントしてくれたこともあったし、竜胆が好きなお菓子を私にくれたこともあった。
でもある時から私に当たりがきつくなって、それが怖くて私も何も言い返せなくなった。
私、竜胆に何かした…?久しぶりに考えてもやっぱりわからなくてため息をついた。
これからうまくやっていけるのか不安しかなくて途方に暮れていると、少しして個室のドアが控えめにノックされた。
自分の着物がはだけていることを思い出して一人わたわたと焦っていると「灰谷様の秘書をしております藤枝ユキと申します。灰谷様から言われてお着替えをお持ちしました」という女性の声が聞こえてきた。
「どうぞ」の返事と共に襖を開けて入ってきたのは髪ツヤツヤ、唇プルプル、ナイスバディ、そしてモデル顔負けの美人。「お気に召すといいのですが」と私に紙袋を渡してくるその笑顔も完璧。
政略結婚とは言え夫婦になるんだから、できれば悪くない関係くらいは築きたい。そう思っていたけど、こんな綺麗な女の人がそばにいる竜胆からしたら嫌いな私なんかと結婚させられるのは貧乏くじなんだろうな。
そう思うと上手くやるのは難しいのかもしれないとまた気分が重くなった。
◇◇◇
それから一週間後、式に先駆けて一緒に住むことになったけど、どういうテンションで竜胆と住んだらいいのかわからない。
「おかえり」は言うべき?ご飯はつくる?
何をしても文句を言われるか「そういう馴れ合いオマエとする気ねぇから」なんて言われそうでものすごく悩んだけど、うちの組は父が帰ってくるとみんなで出迎える習慣があったからそれに倣って帰ってきた竜胆を出迎えることにした。
「お、おかえり…」
私の言葉を聞くと竜胆が目を大きく開けた。無視されたら次からはスルーしよう。そう思ったけど竜胆は気まずそうに目を背けて
「あー、た、ただいま」
と言った。よくみればその頬は少し赤らんでいる。
え…な、何その反応…?まさか、照れてる…?
こんな竜胆見たことがなくて新鮮で面白い。調子に乗った私は「あの、ごはんできてるけど、いる?」と聞いてみたら、竜胆はまた驚く。
「は…?料理、作ってんの?」
「ご飯、食べたいし」
「…それ食えんの?毒とか入ってねぇよな?」
「…」
聞くんじゃなかった。まぁ直接いらないって言われるよりはマシだったけど。
そう思って一人でキッチンに戻ろうとすると竜胆に「今日のメシ何?」と聞かれた。
「肉じゃが、だけど…」
「ん。着替えたらいくわ」
え、何、食べるの?え、肉じゃが好きだったってこと?もう竜胆って本当にわからない。
私のご飯を一口食べた竜胆は動きをピタリと止めた。どうせまずいって言われると思ったのにそのまま何も言わずにバクバク食べ始めて、気がついたら米粒ひとつ残らず食べ切って、そして一言。
「昔よりは…よくなったんじゃね?」
「そ、それなら、よかった、です」
また塩な反応を返されると思ったから肩透かしでそう答えると「ンだよ」と不満そうに言われた。
「え、あの、竜胆、昔私の料理食べたことあったかなって。私がお菓子作っていくといつもリリにあげるって言って食べなかったのに」
私がクッキーとかお菓子を作って灰谷家にお邪魔すると蘭くんは食べてくれたけど、竜胆は「こんなクソマズいの食えねぇわ、犬のエサにしてくる」と一口も食べずに本当に飼い犬のリリがいる部屋に持って行ってた。
「あ、あー、それは…リリに食わせて腹壊したらやべえだろ」
「犬に甘いものあげるのよくないしね。竜胆が知っててよかった」
「…それくらい知ってるっつーの」
そう言うと、まるで子供のように頬を膨らませながら食後の煎茶を啜った。
私のお菓子をなんだと思ってるんだ。とは思うけど、この不貞腐れた竜胆がなんか好きな子を前にして素直になれない思春期の男の子みたいで、つい「ふふっ」と笑ってしまった。
「ンだよ」
「なんでもない」
まぁ、私嫌われてるしアラサーのモテ男がそんなわけないんだけど。
◇◇◇
竜胆の家に住むようになって一ヶ月した頃のことだった。
「恵?」
「あ、え、蘭くん…?」
トレードマークだった三つ編みはバッサリ切られ、さっぱりとした短髪で竜胆と同じ紫の髪色に変わっている。
「久しぶりだなぁ」
「本当に!竜胆もだけどだいぶ雰囲気かわったね!」
「まぁな?オマエも変わったじゃん」
「どの辺が?」
「この辺」
まるで語尾にハートマークがつきそうな口調でそう言って指を差したのは私の胸の辺り。
「…蘭くん、それセクハラだから」
「なんもなかったとこからよくここまで成長したなぁ?竜胆当たり引いたんじゃね?」
「久々に会ったのにこの一瞬で蘭くんに殺意が沸いた」
「怒んなって。綺麗になったって言いたいだけだし」
「胸の話しかしてないよね?」
「思ってるけど言ってなかっただけだから問題ねぇだろ?」
「問題しかない。私昔蘭くんに憧れてたのに…やっぱり蘭くんは竜胆のお兄ちゃんだった…」
「弟の嫁に告白されるとか背徳的じゃん。竜胆やめてオレにする?」
「…大丈夫です。っていうか告白してない」
あの弟あってこの兄あり。私の蘭くん像がガラガラと壊れていくと蘭くんはケラケラと笑い始めた。
「ま、竜胆のだーい好きな嫁寝取ったら流石にキレられるからやんねぇけどなぁ」
「は?」
「急にマジトーンになんのな、ウケる。竜胆と上手くいってねぇの?」
「…竜胆私のこと嫌いなのに上手くいく日、来ると思う?」
竜胆と同棲するようになって、竜胆からいくつか言われたことがある。
買い物に行こうとしたら「無理。外出禁止な。どうしても行きたいとこあったら仕方ねぇから付き合ってやるわ」。
竜胆が忘れ物をしていたので持って行こうかと聞いてみたら「オマエトロいから余計なことすんな」。
竜胆を迎えにきた部下の人に飲み物を勧めたら「うちのやつと話すんな。バカがうつる」。
竜胆は私のことどれだけバカでノロマだと思ってるの!?
「って感じで…」
「かわってねぇなぁ」
ハハッと人ごとのように笑う蘭くんに苦笑いをした。
「あんまり帰ってこないからそもそも距離が縮まるタイミングもないけど、竜胆が私のこと嫌いすぎてどうしたらいいのか…」
「どうにかしてやってもいいけど。高くつくかもな?」
どうにかしてほしいけどお金を言われると困る。反社と取引できるだけのお金、あるわけないし。諦めざるを得なくて一つため息をついて気を切り替えることにした。
「そういえば蘭くんの用事はなんだったの?竜胆まだ帰ってきてないけど」
「んー?竜胆からかいに来ただけだから気にすんな」
よくわからなくて私が首を傾げたその時、2日ぶりに竜胆が帰ってきた。いつも出迎えていたのにいない私を変に思ったのか珍しく私の名前を呼ぶ声が聞こえてきて、蘭くんと一緒にリビングの扉から顔を出して
「おかえり」
「おかえりィ」
と出迎えると、竜胆は眉間に皺を寄せた。
「何で兄貴がいんの」
「なーにカッコつけて兄貴とか呼んでんの?いつもみたいににーちゃんって呼ばねぇと兄ちゃん寂しいんだけど?」
「あー!もう!何の用!?」
「竜胆が全然嫁に会わせてくんねぇから会いにきちゃった」
なんかさっき言ってたことと違う。変に思って蘭くんの顔を見上げると蘭くんは口元に指を当てて内緒のポーズを取ってニヤリと笑った。
「…まだ嫁じゃねぇし、今更兄貴に紹介する必要ねぇだろ」
「でも一緒に住んでんじゃん?ジジツコンってヤツ?オレ義妹欲しかったからかわいがんねぇと」
「かわいがんなくていいから」
「心配しなくてもにーちゃんは竜胆が一番だからなぁ?」
「もーホント兄ちゃんイヤ!大体昔からさぁ」
…さては蘭くん、愉快犯だな。っていうかかわいがんなくていいって…ほんと…。
不機嫌になっていく竜胆になぜか私がいたたまれなくなって「私コーヒーいれてくるね」とその場を後にした。
コーヒーを持ってリビングに戻ると、先程とはうって変わって机の上に書類を広げて話し込んでいる。仕事の邪魔をしないようにとそっと二人の前にコーヒーを置くと蘭くんは「さんきゅ」とカップに手を伸ばした。
「恵コーヒーいれんのうまいじゃん。こんなコーヒー飲めんなんて竜胆幸せだな?」
「…」
蘭くんが煽るから竜胆はまだ不機嫌らしく、無言でコーヒーカップを睨んだ。
その不機嫌は蘭くんが帰ってからも続いて、晩御飯を食べている最中もずっと無言だった。
ちょっと揶揄われたくらいでそんなに怒らなくても…。そう思うけど機嫌の悪い竜胆に私も口を開けなかった。
食後にいつも出す煎茶を竜胆の前に「どうぞ」とそっと置くと、竜胆はその煎茶をじっと見つめてようやくボソリとつぶやいた。
「むかつく」
「え…?」
え、もしかして私に怒ってる…?何もした覚えがないから戸惑って口をパクパクさせていると竜胆はとんでもないことを言い出した。
「オマエいつまで兄貴のこと好きなわけ?」
「…は!?」
「兄貴はオマエのこと好きになんねぇからさっさと諦めろよ」
「え?」
「つーかオレと態度違いすぎだし」
「…え?」
「兄貴いるとオレのこと出迎えにこねぇし、普段いれないコーヒーいれるし。なんなの?夫はオレなんだけど」
思ってもみなかった事態に目を丸くしてぽかんとしていると竜胆はそれも気に入らなかったのか眉間に皺を寄せて頬杖をついてもう一度
「オマエほんっとむかつく」
とため息をついた。
ん、んん?私の気のせい…?
なんか…蘭くんに嫉妬してるみたいに思えるんだけど…?
でも昔の公開処刑を思い出してそんなわけないと首を振った。とりあえず誤解は解いておこうとムッとむくれる竜胆に「あの」と話しかけた。
「ンだよ」
「蘭くんは私にとってお兄ちゃんみたいな人であって好きな人ではないんだけど」
「嘘言って媚びられんの好きじゃねぇから。兄貴に好きとか言ったんだろ?さっきナマエに告られたわとか言ってたし」
蘭くんー!?からかいにきたってこういうこと…?え、愉快犯…?
「竜胆、蘭くんに揶揄われてるよ」
「はぁ…?」
「まだ信じてないかもしれないから追加で言っておくけど嘘なら針千本飲んでもいいから」
この歳になって幼稚なことを言うと思われるかもしれないけど、昔の竜胆はよく「オレとの約束破ったら針千本な」とか無理難題をふっかけてきていたので多分これで正しい。
「…じゃ、コーヒーは?」
「竜胆コーヒー嫌いだと思ってて」
「は?」
「昔コーヒー嫌いで私に押し付けてきたから今も嫌いなのかと思ってた。好きならこれから出すけど」
私がそう言うと竜胆はピタリと動きを止めて急に机に顔を突っ伏した。
「え、何してるの?」
「ちょっと死んでるだけだから気にすんな」
「…どういうこと?」
「オレもわかんねぇからちょっと黙って」
よくわからないけどなんか誤解は解けたっぽいし、これで竜胆の態度も少しは柔らかくなるといいけど。流石にずっとあの塩対応はキツいし。
◇◇◇
『で、竜胆の本命って誰なワケ?』
「竜胆の秘書の藤枝さんでしょ?蘭くんは知ってると思ってたけど」
『まぁそりゃ知ってるけどなぁ。さすがに初夜だからうまくやってると思ってたわー』
「私もそうかなって思ってた…」
あれから二ヶ月。竜胆はやっぱり変わらなかった。ちょーっと優しくなった気がする?って思っても、それはやっぱり気だけで、今日も白無垢を着た私を見もしなかった。いつもより言葉数が少なくて機嫌が悪いと思っていたけど、まさか本命がいたなんて。しかも相手はお似合いとか勝手に思ってた美人秘書。そりゃ結婚式なんて憂鬱に決まってる。
そんなことも知らない私は式が終わった後、仕事残ってるから梵天の事務所に行くと言った竜胆を一応、初夜だし、ひょっとして、なんてドキドキしながら待ってましたけど?
『ま、でもオマエ竜胆のこと嫌ってたじゃん。それに政略結婚なんだから本命がいようがどうでもいいんじゃね?』
こんなに色々言ってるけど、本当のことを言えば私は竜胆のことが嫌いじゃない。学生の時はみんなと同じように竜胆と笑って話したかったし、今は藤枝さんみたいに優しい言葉をかけられたい。昔みたいに竜胆と仲良くしたい。でもどれだけ期待してもやっぱり竜胆は私のことが嫌いで私だけに冷たい。挙句本命と間違えてキスされるとか…
もう惨めすぎて泣けてくるよね。
「嫌いじゃないから辛いし泣ける…もう二度と期待したくない…!」
私の気持ちを察してくれたのか蘭くんは一瞬黙って、それまでとは違って優しく問いかけてきた。
『じゃあどうすんの?さすがにさっきの今で離婚とか普通無理だよなぁ?』
「別居する!政略結婚なんだから別居してお互い好きに生きる!」
『へー?』
「私一応だとしても夫が別の女の人のこと好きで、いちゃいちゃを見せられるなんて絶対無理!反社のスタンダードとか私は知らない!」
『極道の女なのになぁ?恵ってホント昔からおもしろ』
「普通の神経の女はそう言うと思う…」
『んー、じゃあ協力してやるわ。竜胆も少しは大人になんねぇとなぁ?』
で。
「それにアイツ可愛すぎて見ててムカつく」
「拗らせてんなぁ」
私、なんでこんなの見せられてるの?
◇◇◇
「竜胆さん、なんで結婚初夜にこんなとこにいるんですか…?」
「……仕事」
「そんな仕事熱心でしたっけ?」
「そうだろ」
「…そんなことばっかりしてると奥様に嫌われますよ」
「…」
それはマジで困る。オレが眉間に皺を寄せるとユリは苦笑いをした。
「まぁそういうツンデレが好きな人もいますけどね?竜胆さん、本命童貞って顔してないんであんまりやりすぎると嫌われてるって誤解されますからね」
とにかくこんなところで油打ってないでさっさと帰ったらどうですか?と最後に追い討ちをかけられて、オレは「うるせぇ」と返した。
ンなの言われなくてもわかってるっつーの。でもさぁ、小さい時からずっとああいう態度とってきて今更変えれるかっつったらさぁ、無理じゃね?あと急に素で「ナマエ、可愛い、好き」とか思ってること言ったら絶対引かれんだろ。今までが今までだったし。
オレが頭を抱えていると知らないうちに兄ちゃんが来ていたらしくニヤニヤとオレに近づいてきた。
「りんどー、愛しのナマエが初夜だっつって待ってんだからさっさと帰ってやれよ?」
「兄ちゃん…なんでいんの?」
「ユキに呼ばれた」
なんで呼ぶんだよとユキを睨むと「何もしないでそこにいるだけの上司ほど仕事の邪魔なものはないので」と冷たく返される。自分が男と上手くいってるからってムカつく。この間まで「私死ぬかもしれません!死んだら骨はあの浮気男のとこに送りつけてください!」とかメンヘラなこと言ってたくせに。
「ようやくナマエがオマエのになったんだからよかったじゃん。さっさと抱いて好きって行ってこいよ」
「すっ」
「あと初恋実ったわ、とかな?」
「はっ」
ンなこと言えたら苦労してねぇっつーの!つーかそれよりももっと深刻な問題がある。
「……ねぇかも」
「ん?」
「オレ、勃たねぇかも」
「は?」
「…何回も言わせんな!」
「…」
オレがそう言えば兄ちゃんとユキは固まって顔を見合わせた。
「こっちはずっと片思いしてんの!でもナマエはオレのこと好きじゃねぇかもとか思うと抱いていいかわかんねぇし。つーか普通に緊張してどうしたらいいかわかんねぇんだから仕方ないだろ!」
「竜胆マジ本命童貞じゃん!」
そう叫んでアハハハと口をこれでもかと開けて大爆笑する兄ちゃんを睨んだ。
「兄ちゃんがいっつもナマエはオレのこと好きだからなぁとか言ってたからじゃん!だからなんか恵にむかついてあんな態度しか取れなくなったのに!」
つーかなんであんな可愛いわけ?腕掴んだだけで折れそうなくらいほせぇし、胸知らねぇうちにでかくなってるし、見上げてくる顔小動物みたいだし。そのくせオレが構うとムッとすんのが可愛いし。
あの顔がオレの目の前にあってオレをずっと見てるとか…やばい。想像しただけで緊張しすぎて心臓が口から出る。
「無理…今日初夜とか、無理…まだ心の準備できてねぇ」
「それナマエのセリフだからな?」
兄ちゃんはそう言ったあと、「ま、兄ちゃんが一肌脱いでやるわー」とどこからか酒のボトルを取ってきて「こういう時は酔った勢いが大事だろー」と机にドンッと置いた。
そっからは結局途中からうるさすぎて仕事ができなくなったと飲み会に参加してきたユキに女心がなんたるかをずっとごちゃごちゃ言われてまじうるせぇってなったことしか覚えてねぇ。
で、気付いたら家で寝てて、起きたらナマエはいない。
しかも家に「別居しましょう。おちついたら連絡します」とだけの置き手紙。
マジ最悪すぎねぇ?オレの結婚初夜。死にたい。
◇◇◇
「兄ちゃん!ナマエどこにいるか知らねぇ!?」
「知らねえけど?なんで?」
あの後、協力するの言葉通り蘭くんは家出先として蘭くんの家を提供してくれた。
「起きたら別居しようとか書いたメモがうちに置いてあって…」
「ふーん」
「なんで兄ちゃんそんな普通なの!?ナマエになんかあったらオレ死ぬ」
リビングにメモを置いてぐーぐー寝ている竜胆を置いてマンションを出た後、お言葉に甘えて蘭くんのおうちにお邪魔しているわけなんだけど。
「ナマエしっかりしてるし大丈夫だろ?」
「してねぇじゃん!昔っからなんもねぇトコでこけるし、ラジオ体操すれば背が高くなるとかいう兄ちゃんの嘘の言葉信じて毎日ラジオ体操してたじゃん!」
しばらくすると急に蘭くんに隣の部屋に押し込められて「そっから出んなよー」と言われた。そしてし少ししてバタバタと足音が聞こえてきだと思ったら竜胆がなんか叫びはじめた。
なにこれどういう状況…?
思ったよりも竜胆が焦ってて逆にこっちが焦る。あとなんでそんな昔のこと覚えてるの?恥ずかしいから忘れてほしい…。
「ンなことあったっけ?つーか結婚初夜に逃げられてんのウケる。さっさと家に帰んねぇのが悪いんじゃねぇの?」
「オレに酒飲ませたの兄ちゃんじゃん!」
とにかく二人の会話を盗み聞きしようとドアに耳をくつっつけたんだけど、まさかのお酒を飲ませたの蘭くんだった。
「オマエが緊張して帰れねぇとか言ってたからリラックスさせてやったんだろ?送ってやったんだから感謝しろな?」
「そんとき家にナマエいた?今ケータイ切っててどこいんのかわかんねぇの!わかってんのかな!?オレの嫁とかバレたら危ねぇのに!だから一人で出歩くなって言ってたのに!」
えっ
「過保護ー」
「過保護じゃねぇ!こんくらい普通!」
「ほんとウケる。つーかナマエが家出したのってオマエがいつまでもそんなんだからいけねぇんだろ?いつまで昔のこと引きずってんだよ」
「それは…しかたねぇじゃん…」
「なんで?」
「ずっと兄ちゃんのこと好きだって思ってたし勝手にいなくなったの腹立つし…」
えっ
「それにアイツ可愛すぎて見ててムカつく」
えーーーー!?
「拗らせてんなぁ」
「オレもうナマエのこと20年くらい好きなんだし!今さらどうしたらいいかわかんねぇの!」
え、まって?いや、ずっと待って?って感じだけど待って!!
いやでもまさか。あの竜胆だよ?私のことバカ、トロいばっかり言うあの竜胆が?六本木のカリスマとか言って全女性抱いてますみたいな顔してるあの竜胆が?
あまりの事態に動揺した私は近くにあったCD棚に背中をぶつけて、その衝撃で置いてあった写真たてがガシャーンと音を立てて床に落ちた。
それまで騒がしかったリビングが一気にシーンとなる。
「…誰かいんの?」
「ん?開けてみれば?」
その時の竜胆の顔は一生忘れられない。
◆◇◆
いや、オレ死んだ。死んだよな?
こんなんダサすぎて生きてられるわけねぇ。
つーか兄ちゃん、まじ、ころす。
◇◆◇
「…」
「…」
かれこれ10分くらい無言。それもこれも蘭くんが家を出てくときに「今日は帰ってこねぇしオレのこと気にしなくていいから」って出て行ったのが悪いと思う。
…いや、人のせいにしすぎかもしれない。何も言い返せなかった私もよくなかった。だって、だって、そんなこと、ある…?
「「あ、の…」」
「あ、どうぞ」
「何?」
「「…」」
なに、これ。
すると竜胆があの紫色の髪の毛をガシガシとかいて「あー」と叫んだ。
「オレマジダサすぎて死にてぇんだけどさ」
「う、うん」
「オレずっとオマエのこと、す…」
「う、うん」
「…待って。ちょっとまだ心の準備できてねぇから」
まさか竜胆がそんな好きな子いじめたい小学生心理を拗らせてると思わなかった。いや、何回かまさかって思ったことはあるけど、だってまさかだしそれに…
「竜胆、藤枝さんのこと好きだと思ってた」
「は?なんで?」
「めちゃくちゃ優しくしてる、私昨日ユキとか言われながら竜胆にキスされたから完全に藤枝さんが本命だと思ってたんだけど…」
私がそう言うと竜胆は固まった。
「り、竜胆?聞いてる…?」
「え、オレナマエとキスしたの…?」
「う、うん…まあ、一応」
「は!?なんで覚えてねぇの?最悪すぎ…!」
それはこっちのセリフだと思うんだけどな…。でも竜胆があまりにショックを受けてるっぽいので何も言えない。
「ほんとごめん。でもユキはただの秘書で彼氏もいるから。オレが好きなのは、その、ナマエだけだし。ナマエがオレのこと嫌いなのは知ってるけど、でも諦めらんなくて。ナマエの結婚相手、ほんとは別のやつの予定だったけど無理やりオレに変えてもらったし」
「あの、私、竜胆のこと嫌いじゃないよ」
「は?」
「バカとかノロマとか言われてこの野郎とは思ってたけど。それよりなんで私にだけ冷たいのかなってショックだった」
私の言葉を聞いて竜胆は冷たくなった経緯を説明したあと「ほんと今までごめん」と俯いた。それが昔私におずおずと花を渡してきた私が好きになった竜胆の顔で。
「でもあの竜胆が素直じゃない小学生男子だったって思うとそれはそれで可愛く見えてくるから不思議だよね。ほんとイケメンって得だわ」
私がそう笑ったら竜胆は真顔で私を見つめてくる。
「な、なに?」
「ごめん、可愛すぎて見惚れた」
「は!?」
「ナマエの顔見んの恥ずくてちゃんと見んの久々だから破壊力やばいんだけど」
「ちょっ」
え、やばい。竜胆どうしちゃったの?なんか怖い…。
「あの、さ。キス、やり直させてくんねぇ?」
「…え?」
「ちゃんとしたキスしたい。オレが恵のこと好きってわかってもらって仲直りさせてほしい」
「え、ええ?で、でもここ蘭くんの家だし、ちょっと落ち着こ…?」
「ここオレの家」
「え?」
「オマエと結婚する前までここ住んでたし。オレの部屋まだそのまんまだから」
「あ、そう…」
いや、だからって、ねぇ?じゃあしますか!とはならないよね!?だって私たち昨日まで罵り合ってた仲で…!!仲直りってもっと他の方法あると思うんだけど!!
そう思うのに竜胆はジリジリと距離を詰めてくる。
え、待って待って!!なんで急にこんなグイグイくるの!?
「なんかふっきれた。もっと早くオマエに好きって言ってればよかったわ」
うん!それはそうだと思うけど!
「も、もうすこし離れて」
「無理」
「エ?」
「ナマエがオレのこと嫌いだっつーなら我慢する。でもオレオマエのこと死ぬほど好き。なんで今まで我慢できてたか不思議なくらい。だから、キスしたいし、なんなら初夜やりなおしさせてほしい」
「ま」
「ナマエ、好き」
「えっ」
「オレのこと嫌いなら拒否して」
「うっ」
「いい?」
なんか私これじゃ簡単な女じゃない?なのにあの破壊力のある顔面が真剣な瞳で見つめてくると、なぜかノーと言えない。ほんと顔のいい人は得だと思うし、なんならちょっと可愛いとか思い始めちゃってるからダメだ。
拒否しない私に竜胆はゆっくり近づいてきて、おずおずと触れるか触れないかのキスをした。
「やべ、まじ心臓爆発しそう」
私も心臓が口から出るかもしれない。ドキドキしすぎて気持ち悪い。
なのに、好きな女とのキスってこんな緊張すんのなと笑う竜胆に簡単な女な私はきゅんとしてしまった。