A.別れるという選択肢はないようなので、潔く糸師になりましょう






「糸師冴は呼んでねぇのかよ」

中学の同窓会中、わたしの隣に座っていた人がそう叫んだ。

「誰も連絡先知らねーだろ」
「つーかいたのだって数ヶ月だけだし。俺らのことなんか覚えてねーって」

そう笑い飛ばすのは近くに座るまた別の同級生。

先程から話題に出ている糸師冴とは、わたしたちの中1の時の同級生で、途中で転校、というか世界に羽ばたいていった現在スペインで活躍中のサッカー選手だ。当時からあまりに有名だった彼はみんなの憧れで、学校どころか日本のスターだったから、わたしたちはどう接していいのか測りかねていたところがある。まあ本人の性格も相まって近寄りがたかったんだけど。

だから彼の連絡先を知る人はおらず、当時彼と同じクラスだった男子たちは口々に「無理無理」と流そうとしていた。でも隣の彼だけはどうやら諦められないらしい。

「なんだよ!数ヶ月でも同級生は同級生なんだからサインのひとつくらいもらったってバチあたんねぇって!なぁ?お前だって糸師のサインほしいだろ!」

お店自慢!とメニュー表に書かれていたしめ鯖を堪能していたわたしはまさか自分に話が振られるなんて思わなかったくて思わず「ふえ?」なんて変な声が出た。

「そんなバカみたいな声出してる場合じゃねぇぞ。日本の至宝だぞ?サイン欲しいよな!?」
「サイン……欲しい、かな」
「写真とか撮りたくね?」
「…撮りたいかも」
「それに会いたいよな?」
「会いたいです!」

なんだか誘導尋問されてるような気になるけど、言うて全部本音。会いたいし、写真撮りたいし、サインももらえるなら欲しい。それに、やっぱり会いたい…。

思い出すと彼の鳶色の髪が恋しくなってきて、ついセンチメンタルな気持ちになっていたのだけど、
「そいつに聞いたらダメだろ!んなのそう言うに決まってるじゃん」
と横槍が入って現実に戻された。

「なんで」
「だって熱狂的な糸師冴ファンだっただろ」
「そうだっけ?」
「糸師いる間はどうだったか知らねえけど、スペイン行ってからすごかったじゃん」

昔のわたしを覚えてる男子の言葉を「ちょっと!」と止めようとしたけど、ここはお酒の入った無礼講の場。止めるなんて選択肢はもちろんないらしい。

「待ち受け糸師だし、告白は糸師を理由に断るし。あと俺同じ高校だけど、サッカーのルールちゃんと覚えたいからってサッカー部のマネージャーとかやってたよな?確かすぐ辞めてたけど」

「う゛っ」

人の黒歴史を晒すな!というかなんで覚えてるの。マジでやめて。

「あとさ」
「もう!その話やめてよっ!」
「だって本当の話じゃん。つーかお前まだ糸師のおっかけやってんの?」
「………」
「え…マジ?」
「………」

あの頃から状況は変わってないのでそっと視線を逸らすと男子たちはみんな哀れむような目でわたしを見てくる。隣の男子なんてわたしの肩にぽんっと手を乗せて、「お前カワイーのに残念だな」なんて褒めてるんだか失礼なんだかよくわからないことを言ってくる。

「そんなんじゃ一生結婚できねぇからそろそろ現実みろ!現実!」

前言撤回。褒められてなかった。むしろ現実見ろなんて言葉がまるで漫画みたいにわたしの心臓をサクッと刺す。いや、サクッなんて可愛いものじゃない。ザクッッッである。

「かっ彼氏はいるし!」
「は?マジで!?」
「マジです!」
「さっき今日誕生日とか言ってなかったか?」
「いや、それは、遠距離だからあんまり会えなくて…一人で暇だからつい……」
「まぁ遠距離ってフツーに1、2ヶ月会えないもんな。前会ったのいつ?」
「………まえ」
「何?聞こえなかった」
「………ごかげつまえ」
「あー。ま、まあそもそももう俺らって祝うような歳過ぎてるし?むしろクリスマスでキリストの誕生日祝ってる方がいいよな!!」
「そうそう!会えない間は糸師冴のこと考えてても大丈夫だからな!むしろちょうどいいな!」
「………」

やばい。めちゃくちゃ気を遣われている。しかも本当は前回のクリスマスだって会ってないんです。でもその言葉はもちろん飲み込む。これ以上気を遣われたら泣いちゃうし。

この話題は場を白けさせるかもしれないから、ポケットで震えたスマホを理由に席を立つことにした。トイレに向かいながらスマホの画面をチラリと確認すればそこにはあまりにそっけない一言。

『今何してる』

誰からだなんて、見なくてもすぐにわかった。たった一言でもそれはわたしにとっては飛び跳ねるくらい嬉しいもので、さっき刺された心臓は現金にも一瞬にして復活するんだから笑っちゃう。

『前話した飲み会中だよ』
『店どこだ。迎えに行く』

迎えに行く…って、え?

『もしかして帰ってきてるの!?』
『帰れたら帰るって言っただろ』

言ってたけど。言ってたけど!実際帰って来れることになったとか、そういう大事なことをいつも言ってくれないんだから。でも口下手なところも結局好きだからわたしは『駅前だから大丈夫!今すぐ帰るね!』とだけ打って、慌てて席に戻ってカバンを手に取った。

「そろそろ帰るね」
「ンだよ!もしかして怒った?」
「違う違う、明日早いから」
「なら送ってくわ。女一人じゃ危ねぇじゃん」
「大丈夫!近いから!じゃぁね」

自分でもちょっと浮かれすぎてたかなとは思ったけど、「あれ絶対彼氏から連絡来ただろ」だの、わたしに失礼なことをいいのけた隣の男子が「結婚の心配はむしろお前がしろ?」だの言われてるところを見れば、やっぱりわたしがさっきと違って浮かれまくってるのは一目瞭然だったらしい。

でも会うのはあまりに久しぶりだから浮かれるのだって仕方ない。なんならお酒飲んだくせに猛ダッシュしちゃってるくらいだし。まあ運動不足なんですぐにスピードは落ちるんですけどね?

でも早く会いたくて息が切れても構わずに走り続けていると家まであと半分というところで人影が見えた。時刻は23時過ぎであたりはもちろん暗いけど、ぽつんと立った街灯に照らされたおかげでその人の鳶色が目に入った。

「おかえり!」

わたしが肩で息をしながら彼の前まで走っていけば彼は少し呆れたようにため息をつく。

「せめて返事見てから帰ってこい」
「え」

そう言われてスマホを見てみれば『10分で駅まで行けるから、それまで店で待ってろ』。心配して迎えにきてくれようとしたんだと思うとそれはあまりに嬉しくて、でもだからこそ逸る気持ちは抑えられない。

「ごめん、早く会いたくって」

へへっとバカみたいに笑えば彼はわたしの頬をむぎゅっとつまむ。

「おいアホ」
「なんで!?」
「んなの俺もに決まってんだろ」

仏頂面でそっけない言い方なのに言葉の破壊力が凄まじい。この人はなんでこんなにもわたしを喜ばせるのが上手なんだろう。久しぶりに会えた喜びでゆるむ頬を隠せずにいたら、知らない間に腰に伸びていた腕がわたしを引き寄せた。

あ、と思った時にはもう遅くて、気がついた時には彼の唇はわたしのそれに触れていた。

「んむっ」

久しぶりの恋人とのキスだというのに色気もへったくれもない声が漏れた。それが恥ずかしてくて身を捩るけど、わたしを抱える腕の力が強くて逃げられない。それと同時に口付けはもっと深いものに変わって、彼の熱い舌がわたしの歯列を割った。

わたしがまだ中学生の時に見た映画で久々に会う恋人たちが空港で人目を憚らずにキスしていたのを見て、「いや、絶対ないでしょ!」ってつっこんでたけど、今ならその気持ちがわかる。だって大好きな人とのキスだもん。一度触れたら離れたくなくなるし、なにより脳が溶けるくらいに気持ちいいからこのまま全てを忘れて身を任せたくなる。

でもダメ。

いくら人通りがあまりないとは言え、さすがにまずい。わたしがその彼の鍛えられた胸板をバンバンと叩けば彼は名残惜しそうにわたしから唇を話す。

「止めんな」
「だっだめ、誰かに見られるかもしれないし」
「別に俺は知られたって構わねぇっていつも言ってんだろ」

それは、そうだけど。でもそういうわけにはいかないじゃん。

とにかく家に帰ろ?と提案するつもりでいたのに、彼の「それに」という声に止められた。その声が恋人の久々の逢瀬には似合わない低い声で思わず首をすくめると彼ははっきりと不機嫌を表した顔をこちらに向けた。

「タバコの匂いがする」
「タバコ?」
「今日の飲み会、タバコを吸うような奴が来るなんて聞いてない」
「あ、今日同窓会だったの。鈴木くんとか佐藤くんとかタバコ吸ってたから匂い移っちゃったかな?ごめん、タバコ嫌いだよね?家帰ったらすぐお風呂に」
「違ぇ」
「え?」

彼はわたしの手首を痛いくらいに強く掴んで歩き始めたけど、歩幅が違うからまるで走ってるみたいになる。いつもはわたしのペースに合わせてくれるからそれだけでも不安なのに、家に着くまでの間も、それからついてからそのまま浴室に向かう間もずっと無言で、わたしが彼の名前を呼んでも答えてくれない。

久々に会えたのに怒らせちゃった…。

違うって言われたけど浴室に来たのならさっさとシャワーを浴びろってことなんだろうな。それで握られた手を離して浴室の中に入ろうと思ってたのに、その手はむしろ引かれてしまって、今度は噛み付くように冴くんにキスをされた。

「さえくっ」
「黙って口開けろ」

食べられてしまうかもしれないと思うようなキスだったけど、今はさっきと違ってわたしの家。先程のようにわたしを止める理性は必要ないからされるがまま、むしろ求めるように口付けを返していたら知らない間にわたしの服はほとんど脱がされていた。そして次はなんの躊躇いもなく自分の服を勢いよく脱ぎ捨てる。何度見ても慣れない割れた腹筋は、どうにも色っぽくて直視できない。どうでもいい人のだと全然気にならないのに好きな人のだとなんでこんなにも違うんだろ。

「んな物欲しそうな顔で見んな」

目が離せなくなってつい見つめ続けていたら、そう鼻で笑われた。いつもみたいにわたしを揶揄うようなそれに機嫌は少し直ったのかもしれない。シャワーの蛇口を捻る彼に恐る恐る「もうおこってない…?」と聞けば「そもそも怒ってねぇ」。

会えばいつもわたしを好きなように抱きしめるし、キスをするし、そして抱くけれど、でもここまで性急だったことはない。

怒ってたんじゃないならなんで?

わたしが視線で問うと彼は濡れたわたしの髪に口付けてこう答えた。

「俺は自分の女に他の男の匂いがついてんのを我慢できるような男じゃねぇ。あと他の男に酔ったお前の顔見せたくなかっただけだ」
「ッ」

好きな人からの独占欲ってなんでこんなにも嬉しいんだろう。

「誓って何もないから。ちゃんと彼氏いるって言ったし、それにわたしが好きなのは、その…」
「なんだ」

わかってて言わせようとするんだからずるい。

「冴くん、だけだから」
「ん」

そう言うと冴くんは満足そうに笑う。よかった。機嫌直ったみたい。

でもそう安堵したのも束の間。



「まあ怒ってはないが、男と飲みに行ったのと夜一人で出歩いたのはゆるさねぇけどな」


……いや、怒ってるじゃん!







みんなには言えなかったことがある。

糸師冴。

彼はわたしたちの中1の時の同級生で、世界で活躍するサッカー選手で、ちょっと俺様だけど世界一かっこいいわたしの彼氏だ。







◇◇◇




「糸師くんのこと好き、です」
「…」


少し前までわたしの隣の席だった糸師冴という人はすごい人だった。

サッカーが上手で、顔が良くて、硬派。

そんな女の子が好きな三大要素を予想を遥かに超えるレベルでもってる人だったから、それはもうとんでもなくモテた。学校にファンクラブなんてものがあったし、他校の女の子たちが彼見たさに放課後うちの校門に集まるなんてこともしばしば。まるでアイドルみたいだったのだ。まあ本人はそういうのは煩わしそうだったけど。

それがわかっていながらも例に漏れずわたしも彼のことが好きだった。好きになったのはわたしたちが隣同士になってすぐ、小テストの答えがわからなかった糸師くんにこっそり「この答えなんだ」と聞かれた時のこと。最初は有名でかっこいい人の隣になって嬉しい半分、ファンクラブ怖い半分だったはずなのに、答えを教えた時に彼が少しだけ恥ずかしそうに「どーも」と言ったのがいつもの斜に構えた感じと違ってなんだか可愛くて、わたしの胸がきゅんと鳴ってしまったんだから恋ってどこで始まるかわからない。

まああの日は先生が『この小テストできなかったら居残りなー』と(多分)冗談で言っていたから、早くサッカーをしに行きたい彼がわたしに助けを求めてきたのは特別なことでもなんでもないってのはわかってたんだけども。きっともっと彼のかっこいいところを知ってるファンの人たちに言ったら笑われちゃうだろうなとも思うけども。

とにかく、そんな彼に憧れる女子生徒Fだったわたしが彼に告白したのはゴミ捨て当番というなんとも地味なものがきっかけだった。

初めに断っておくと、わたしはその日彼に告白するつもりなんてまるでなかった。絶対断られるのわかってて告白とかありえないし、そこまで身の程知らずじゃない。でもしてしまったのは、やっぱりゴミ捨て当番が原因だったのだ。



その日わたしと彼がクラスのゴミ捨て当番だったけど、人気者の彼に「ゴミ捨て行こ」なんて言えなくてわたしは一人で捨てにいく予定だった。いや、本音はファンクラブが怖いなんだけど。

とにかくそれで一人ゴミ袋を両手に持って(なんでか知らないけどそういう日に限ってゴミは多かったりする。だから正確には引きずって、になる)クラスを出たんだけど、しばらくして急にそれが軽くなって思わずわたしはバランスを崩した。「わっ」と声を上げながら一、二歩よろよろと歩いた後振り返ってみればそこには例の彼──糸師冴がいた。

「なんで声かけねぇ」
「あ、ごめん。一人で持てるしいいかと思って」
「の割には引きずってたけどな」
「はは…」

見えすいた嘘は一瞬もしないうちにばれた。でも糸師くんもわたしが声をかけない理由をなんとなく察してたのかそれ以上は何も言わずゴミ袋を持って歩き始める。

その足の速いこと。サッカー選手はやっぱり歩幅が違うのか、わたしはゴミ袋を持った糸師くんを走って追いかけることになった。

「待って!一個持つ!」
「いい」
「でも」
「引きずって穴空いた方がめんどうだ」
「う、すみません」

結局ゴミ袋は全部糸師くんに奪われてしまって、もはやわたし必要ないじゃん状態。でもだからって行かない選択肢はないからスタスタと歩く彼の後ろを小走りでついていくことになった。

目の前を歩く糸師くんはいつもと変わらない無表情。でもその彼はあと二ヶ月もしたらもう二度と会えない人になってしまう。どうやらスペインのサッカーチームにスカウトされてそこでプレーすることが決まったらしいのだ。

だからこうしてこんな近くで糸師くんを見れるのはもうあと何回もない。そうしたらあとはテレビ越しで彼を見るだけになる。そう考えたら無性に寂しくなって、気がついたら口から「好き」という言葉が出てしまっていたのだ。いわゆるお別れマジック的なやつ。あとはそう、焼却炉すぐ近くでわたしたち以外に誰もいないというもう二度とないシチュエーションが多分わたしをその気にさせたんだと思う。


でも、そんな告白はもちろんスルーされた。糸師くんはどんな可愛い子に告白されても無視するって有名だったからこれで傷つく必要はない。

なんて、そんなことわかっててもショックなものはショックで。やっぱりやめればよかった、なんて先に立たない後悔をしながら無言でゴミ袋を焼却炉に投げ入れる糸師くんの後ろ姿をぼんやり見つめていたら「あ、冴くん、こんなとこいたの?」とよく通る声で校舎側からやってきた女の人が糸師くんに話しかけた。

「教室で待っててって言ったのに」

その女の人は一つ上の先輩で、最近よく糸師くんに話しかけにうちのクラスに来ていた人。学校で1、2を争うくらい人気だと聞いたことがあるけど、確かに糸師くんの隣に並べるのはわたしなんかじゃなくてこういう人なんだろうなと思うくらいきれいな人だった。

穴があったら入りたいってこういうことを言うのかもしれない。ますますさっき告白してしまったことが恥ずかしくなって、先輩に「それで、あなたは?」と声をかけられると「ゴミ捨て当番です。でももう終わったので」とだけ言ってその場から逃げ出すように走り出した。

とりあえず教室戻ったら大急ぎで家に帰って、それから録画してあるドラマを見よう。それからそれから。

そんなふうに現実逃避する案を頭の中にいくつか考え出していたけど、それは叶うことはなかった。

「へ?」

糸師くんがわたしの手を掴んだのだ。

「え、冴くん?何してるの」

なぜか当の本人じゃなく先輩がそう聞くと、糸師くんは
「まだ返事してねーだろ」
と掴んだわたしの手を引き寄せた。

「え、と」

わざわざ先輩の前で振っていただかなくて結構なんですが。さっきの沈黙で察してるし。

いたたまれなくて俯いていたけど、でも糸師くんの返事は予想していたものとは違っていた。

「俺はもうすぐスペインに行くし、お前が期待してるような付き合いはできねぇ。それでもいいなら付き合う」
「………へ!?」
「は?ちょっと!!なんでそんな子と?誰でもいいなら私と」

またしてもわたしじゃなくて先輩が口を挟むと糸師くんはその言葉を冷たい言葉で遮った。

「俺はこいつと話してる」
「でも!」
「そもそも誰だお前」
「何言ってるの!最近よく…」
「俺のことを知りもしねぇで肩書きだけで擦り寄ってくる女なんざと付き合うつもりはねぇ」
「じゃ、じゃあその子は知ってるの?」
「少なくともお前よりはな」
「……ッ」

冷たく言い放つ糸師くんに先輩は顔をカッと赤くして、そしてわたしの方をジロリと睨んで去っていった。

「おい」
「ひゃ、ひゃい!」

先輩はめっっちゃ怖かったけど、でも今はそれどころじゃなく心臓がバクバクしてて、だから声が裏返るのも仕方のないことだった。でもそれが恥ずかしくて目をきゅっと瞑れば糸師くんは容赦なく「目開けろ」と命令してくる。不思議と強制力のある声に従わざるを得なくて、ゆっくりと目を開ければ翳った校舎裏でも光る翡翠色の瞳と目があってまた心臓が跳ねた。

「で、どうすんだ。付き合うってことでいいか」
「う」

わたしだって流石に空気くらいは読める。

糸師くんはあの先輩のことか好きじゃなくて、むしろ迷惑に思ってた。だからその先輩を黙らせるために告白を受けてくれたんだろう。でもそうだったとしても糸師くんがわたしの告白を受けてくれたことが信じられない。

「糸師くんはいいの…?」
「あ?こっちが聞いてんだろ。早く返事しねぇとなかったことにすんぞ」
「え、あ、はい!付き合ってください!」
「ん」


こうしてロマンのかけらもなく付き合い始めたわたしたちだったけど、糸師くんの言った通り彼が日本にいる間わたしたちがデートするなんてイベントは一度たりとも起こったことはなかった。ただほんの少し、学校で話しかけられることが増えただけ。それも「おい。これどーすんだ」って提出物の提出先を聞くとかめちゃくちゃ事務的なやつ。まあそのおかげでわたしたちの付き合いは誰に知られることもなくて助かったんだけど。あの先輩も自分がフラれたことなんて誰にも言いたくないからわたしのことは誰にも言わなかったみたいだし。

でもだからこそ付き合ってるという感覚は薄くて、彼がスペインに行く前日に初めて『今から時間あるか』と呼び出された時は相当驚いた。しかも遅いからってわざわざわたしの家まで迎えに来て、興味本位に覗くわたしの母に挨拶するなんてオプションまで付くんだからもう軽くパニック。

だって明日には終わる関係だと思ってたから。

でもうちの近くの公園まで歩く間もわたしの歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれる様子に、もしかして、の勘違いメーターは振り切れて、糸師くんから話を振られるのを待っていようとおもっていたのについに聞いてしまった。

「あの、わたしたちって今日でおしまいじゃないの?」

すると糸師くんは面白いくらいに一瞬で顔をムッとさせた。

「いつそんな話になった」
「え、そういうのは、ないけど」
「なら付き合ってるし、これからも変わらねぇ」

変わらないんだ…?この時はまだイマイチ事態が飲み込めてなくて、でもそれから糸師くんが言葉少なではあったけど、これからスペインに行くこと、きっと今まで以上に連絡は取れないこと、でもこの関係を自然消滅とか曖昧に終わらせることはないことを話してくれて、あれ、これって都合のいい夢でも見てる?って。

何度もそう思ってこっそり手の甲をつねってみたけど、驚くくらい痛かったし、つねったそこはしばらくひりひりしたけど、でもそれが嬉しかった。

だってわたしからの告白だったし、別にその後も好かれる要素なんて特にない。だからまさかそんなふうに言ってもらえるなんて思わなくて自然と目尻に涙がたまっていく。

「何泣いてんだ」
「だって、わたしたち本当に付き合ってるのかもよくわかってなくて…。その場のノリっていうか、糸師くんがスペインに行ったら終わるのかなって思ってたから」

わたしが目を擦りながらそう言うと、糸師くんは「ん」とわたしの目の前に手を差し出す。その意図がわからなくてぼんやりとその無骨な手のひらを見つめていたら

「バカ、こうだろうが」

とわたしの手を取ると自分とわたしの手のひらを合わせ、そしてそのまま指を絡めるようにきゅっと握った。

「っい、としくん?」

初めての彼の体温はあたたかいよりもあついに近くて、でも今はそれよりも信じられない状況に頭がパンクしそうだった。

「俺にとってはサッカーが一番で、恋愛だのなんだのは正直言ってどうでもいい。だから最初はお前の告白も断るつもりだった」
「…うん」
「でもここでお前を振ったら将来お前の隣に知らない男が立ってんのかと思うと死ぬほどムカついて、気付いたらお前の手掴んでた」
「えっ、と」

もうとっくの昔にメーターは振り切れてたはずなのにまだその先があったらしく、糸師くんの言動ひとつひとつを聞くたびに、それって…?と勘違いは進んでいく。

でも、それは勘違いじゃなかったらしい。

「俺はお前のことが好きらしい。多分お前が思ってるよりずっとな」
「うそ…」
「嘘だったらここにいねぇだろ。俺がわざわざこんなことする人間に見えるか」
「みえ、ない」
「ならそういうことだ」


そういうこと、なんだ……。


どうしよう。すごく、すごく嬉しい。人間、やっぱり嬉しすぎると涙腺が緩むらしくてまたじわりとわたしの視界が歪む。

即断即決っぽい彼が「好きらしい」なんて曖昧な表現をすることが逆にリアルさを増して、愛しさももっと増してきて、もう我慢なんてできなくてわたしは涙を止めることを諦めた。

「わたし、糸師くんのこと好き、大好き」

ヒックヒックとしゃくりをあげながら彼の熱い手を強く握り返すと、糸師くんはわたしの涙を空いたもう片方の手で拭いながら「ん」と微笑んだ。


ここでこんなふうに笑うなんて、なんてずるい男だろうと思った。



◇◇◇



七時間の時差とおよそ一万キロの距離、それから会えない四年もの歳月がありながら、学生のわたしたちが付き合い続けられたのは結構奇跡に近いんじゃないかと思う。

冴くんに会えない日々が寂しくなかったかと聞かれたらそれは嘘だけど、わたしの日常に冴くんが当たり前になる前に行ってしまったから、多分普通の遠距離恋愛をしてる人たちよりも割と受け入れやすかったと思う。それになによりわたしが付き合ってなにをしたらいいのかよくわかってなかったから、むしろこれぐらいの距離感が良かったのかもしれない。多分あのまま冴くんが同じ学校の生徒だった方があまりにモテる彼氏に怖気付いて早々に別れていた気がする。

あとは、あれ以降意外と冴くんがちゃんと彼氏っぽいことを言ってくれてたのもかなり大きかった。わたしが先輩に告白されたってLINEをしたら「俺が好きだからって言って今すぐ断れ」って電話をかけてきてくれたし、空港に行く前彼にカメラを向けて嫌そうにするのを「会えないときに見たいから」とお願いしたら、わたしからケータイを奪って頬がくっつきそうなくらい近づいてツーショットを撮った後に、「撮ってやったんだから待ち受けにしとけ」って。さすがにそれは無理だから冴くんのところだけを拡大して待ち受けにしたんだよね。

まあ結果それでわたしは糸師冴ガチ恋勢みたいに言われてたんだけど。間違いじゃないから訂正はしたことない。

四年経ってからはたまに帰ってきてくれるようになって、帰ってくるたび大人っぽくなっていく冴くんにドキドキして、そんな冴くんに見合う女の人になれるように頑張って、でも毎回それ以上にかっこよくなっていく冴くんにいつも負けたような気になって。だからいつも冴くんの彼女が自分でいいのかなって思ってた。でもそんなわたしの焦りみたいなものは冴くんにはバレバレで、言葉で、唇で、身体でわからされて、いつも最後には「やっぱり冴くんが世界で一番好き」だってなっちゃう。

だからどんなに離れててもわたしの中心は冴くんで、わたしの気持ちはもちろん変わることはなかったし、冴くんもずっとわたしだけだと言ってくれていたからこんな日々が一生続くんだって信じてた。



でも、今のわたしはあの頃とは違う。




◇◇◇




「ん…」

ベッドの振動を感じてゆっくりと瞼を上げるとすぐにわたしを見つめる二つの緑色が目に入った。それがなんなのか理解するとすぐに意識が微睡の中から出てきた。それはもちろんわたしをじっと見つめる冴くんの翡翠色の瞳で、寝顔を見られていたんだと思うと恥ずかしくて顔を少しずつ布団の中に隠していくと冴くんにそれは引っ剥がされる。

「わっ」
「何やってんだ」
「だって…、なんか恥ずかしいもん」
「今更」
「え!い、いつから見てたの」

少し意地悪そうに口角を上げる冴くんがわたしの口の端を親指で拭って一言。

「よだれ垂らして寝てたぐらいからだな」
「うそっ!?」

そんなアホ面晒してたってこと!?冴くんにそんなところ見られてたとか死にたいんだけど…。

結構ガチ目にショックを受けていれば冴くんは「嘘だバカ」とあまりにさらりと答えるものだからちょっと殺意がわいた。

「冴くんの意地悪!」

そう叫んだ瞬間、喉に違和感を感じて思わず咳き込んだ。すると冴くんはベッドから降りてペットボトルの水をとって「ん」と渡してくる。

こういうとこ優しいんだよな、なんて思っちゃいけない。そもそも今咳き込んでるのは冴くんに意地悪されたからだし、なんなら昨日全然離してくれなかったからだもん。

それでわたしが口を尖らせながら「ありがと…」と手を伸ばすと「ンだその顔」とわたしの頬をぐっと掴む。

「冴くんが意地悪ばっかするのがいけないと思う」
「お前が誰のものかわからせてやっただけだろ。それに散々好きだの気持ちいいだの言ってたやつにンなこと言われてもな」
「だからそういうところ!」

わたしが多分顔を真っ赤にさせて怒るけど冴くんはそれを軽く流して、そしてどうやらペットボトルと一緒に取っていたらしいものをわたしの首につけた。

ひんやりとしたその感触でそれがネックレスで、タイミング的に誕生日プレゼントなんだということはわかったけど、今までは旅行に連れて行ってくれるとか一緒に出かけて服を買ってくれるとかそういうのが多かったからちょっと意外だった。

「これ、もらっていいの?」
「他の男寄ってこねぇようにそれでもつけてろ」

なんか『それ』が『首輪』に聞こえたような気がしたんだけど、気のせいってことにする。見る前に冴くんがつけてくれたからどんなデザインかわからないけど、冴くんのことだからセンスのいいのなんだろうな。

「ありがとう、大事にするね」

チョロいわたしはもうすっかりご機嫌にそのネックレスを指で弄ぶ。するとしばらく寝転びながら肘をついてこちらを見ていた冴くんが口を開いた。

「で、いつになったらお前が俺のだって言えんだ」
「え」
「言っておくが結婚しないっていう選択肢はねぇからな。俺が聞いてるのは時期だけだ」


結婚。


今そのワードが出てくるなんて思わなくて体がピシリと固まった。そんなわたしのおかしな様子はすぐに冴くんにも伝わって、「なんか不満でもあんのか」と眉を寄せる。

「あるわけないよ!不満なんて!いや、でも、その…。そ、そういえばこの間冴くんの試合見たんだけど」
「はぐらかすんじゃねぇ」
「う…」

冴くんが結婚の話を切り出してくるのはこれが初めてじゃなかった。前回帰ってきた時も「そろそろスペインに行く準備しとけ」って言ってたし。

大好きな彼氏にそんな風に言われて嬉しくない女がいるわけがない。それにわたしだって同窓会で堂々と「わたしの彼氏、同級生の糸師冴だよ」って言いたい。全世界の女の子に「この人はわたしのだから!好きにならないで!」って言ってしまいたい。

でもそれは相手が一般人だった話であって、相手が日本の至宝だなんて呼ばれてる人だと思うと「え?本当にわたしですか…?」ってなるのも仕方ないと思う。

やっぱりずっと離れてたせいなのかな。会えば幸せでずっと一緒にいたいと思うけど、新世代世界11傑の一人としてテレビで紹介されている糸師冴の姿を見ると「わたしって本当にこの人と付き合ってるんだっけ」って、みんなから糸師冴のリアコだって言われれば本当にそうだったのかもって、なんだか冴くんと付き合っていたこと全てが夢だったのかもという気持ちになってしまう。

「わたし冴くんのこと好きだよ。それに結婚できたらって思ってる。でも」

だってわたしは冴くんがいなかったらなんの肩書きもないただの女子生徒Fだった女。それは社会人になっても変わらない。なのにそんなわたしが世界のトップ選手である冴くんを妻として支えられるか?いや、あるわけがない。そしてわたしは同級生に「現実見ろ」って言われて心をズタズタにされるくらいにはそれを気にしている。

だから、ずっとこのままではいられないことはわかってた。

「本当にわたしでいいのかなって不安で…。わたしスペイン語まだあんまり話せないからきっと向こうに行ったら冴くんに頼りっきりになっちゃうし、料理も残念ながら才能ないし、別に綺麗でもなんでもないし。だから冴くんの周りにいる綺麗な人とかチームの栄養士さんとかに嫉妬して、めんどくさい女になっちゃうと思う。ていうか自分の性格上絶対になるのわかってるもん。それに金銭感覚も全然違う」

大人になると人間はどうしてこんなにも臆病になるのかな。でも、どう頑張ったって埋まらないものがあるのも事実で。だからわたしたちの関係性の名前が恋人から他のものに変わるのが怖かった。でもそれはむしのいい話だよね…。

「今までは離れてたから付き合ってこれたけど、多分わたしみたいな人間は冴くんに相応しくないし、それに、冴くんにはもっといい人が」

いる。

言わなきゃいけない言葉はあとたった2文字だったのに、その言葉は先ほどと同じように、いやさっきの3倍ぐらいの力で冴くんに頬をぶにっと掴まれたせいで言えなかった。いや、正直言うとめっっっちゃ痛かった。

「い、いひゃい!」
「おいタコ」
「な、なに!わたし今真面目に!」

手を振り払ってそう言ってるのに、冴くんはわたしの言い分なんてどうでもいいとでも言いたげに「クソどうでもいい御託を並べるな」とぴしゃりと言い放つ。

「お前は俺が選んだ女が間違ってると思ってんのか」
「……その聞き方はずるい」
「俺のことが好きだとか言うんだったらその俺の選択を疑うんじゃねぇ。あの日からお前は俺の女だし、俺はお前の男だ」
「う、あ、あの」
「つべこべ言わずスペインについて来い」

マジで理論が何様俺様冴様って感じなんだけど、なぜか頷きそうになるのはやっぱり糸師冴様だからなんだろうな。

でもこっちだって拗らせてもう何年目。いくら冴くんに言われたってそんなにすぐには頷けない。だから「でも」と続けると目を細めてあからさまに「このクソ真面目」だの「めんどくせぇ女」って顔をした。絶対思ってる。というか言われたことあるし。

それでもわたしが頑なに首を縦に振らないでいたら冴くんはまるで呆れた様子にため息をひとつついた。

「もういい」

もういいって何がいいのか。自分で言ったくせに嫌な意味で心臓が鈍く鳴りはじめたから、最初は冴くんの言ってる意味がよくわからなかった。


「お前が自分から結婚して欲しいって言うようにこれから毎日口説く」


「………へ?」



あ、あれ、思ってた展開と違うんですが…?







Q.ただの女子生徒Fだったわたしには日本の至宝の妻という役割は荷が重いので冴くんと結婚できないのですが、どうしたらいいですか?







それから冴くんが帰るまで大変だった。

冴くんはここぞと言う時は言ってくれるし、他の男の人が絡むと結構嫉妬深い彼氏って感じではあるけど、基本的にはきゃんきゃんするわたしのことを「はいはい」って感じで余裕そうに見てることが多い。だからわたしへの気持ちをストレートに言ったことなんて、本当に数えるくらいしかった。


その、冴くんが。


わたしの指に口付けて「愛してる」だなんて。しかもその時わたしを見上げる翡翠色の瞳は挑発的で、思わず「うっ」て声が出るくらい色っぽい。

それでプロポーズされた時と同じように「そ、そういえばこの間試合見た話聞いて欲しくて」って話題を逸せば、今度は「どれだ」ってちゃんと聞いてくれるんだからよくわからない。

「冴くんがめちゃくちゃ綺麗なパス出してレオナルド・ルナさんがシュート決めてたときの」
「ンなの100回はやってる」
「あ、待って、録画してあるから」

よかった、これで話題そらせるって安心していそいそとリモコンを取りに行ったのになぜかわたしの帰る場所はわたしのベッドに腰掛ける冴くんの足の間で。テレビの画面を見てほしいのにわたしの肩に顔を埋めてまるで甘えるみたいに擦り寄ってくるんだから困る。

「……それじゃ見えなくないですか?」
「別に見える」

あ、はい。いや、でもさっきの今だからわたしが冷静になれないから困ってるんですが。でも冴くんは止める気はなさそうなので仕方ない。結局わたしが折れてそのまま見続けることとなった。

「ほら、ここのパス!めっちゃかっこいい!!針の穴を通すってこういうこと!?すごくない!?」
「ん」

しばらくいつもみたいに冴くんのスーパープレーを見ながらきゃあきゃあ騒いでいたけど、さっきまでのグイグイは何?ってくらいに冴くんは我関せず。あまりに賞賛されすぎてるからこんなありきたりな言葉じゃきっと冴くんには響かないんだろうな。まあいつもスルーされてるのでいつもみたいでよかったってことで。

でもよかったのはここまで。


「あ、ねえ冴くん」
「なんだ」
「ずっと思ってたんだけどルナさんがやってるあれって何?」
「あ?」
「ゴール決めた後、胸を叩いて拳上げるやつ」
「ゴールパフォーマンス」
「へぇ?そういうのあるんだ。わたし冴くんの試合しか見たことないからあんまり知らないんだけど、あれかっこいいね。わたしも生で見てみたいな」

ルナさんはレ・アールの貴公子だなんて呼ばれてる人。だから何の他意もなく、純粋に一レ・アールファンとして出た言葉だった。なのに。

「お前は本当にバカだな」
「え?」
「俺の腕の中にいて他の男の名前出すんじゃねえ」

どうやら冴くんの癇に障ってしまったらしい。


「え、いや別にルナさんのが絶対見たいって言ってるわけじゃなくて」

本当に純粋に見てみたかっただけで。誰でもいいって言ったら語弊があるけど、冴くんは絶対そういうのやらないじゃん。

でも冴くんはどうやらそういうことじゃなくて本当にわたしがルナさんの名前を出したのが気に入らなかったらしい。それは、わたしがルナさんの名前をもう一度出した瞬間、冴くんにわたしの首元をがぶりと噛まれてわかった。

「さ、さえくん…?」
「今すぐ結婚したいって言わせてやってもいいけどな」



そういう冴くんにマジで言わされる寸前だったし、予告として冴くんに噛まれた左の薬指と首筋の痕はそれから何日間か絆創膏で隠す羽目になった。



そして冴くんがスペインに帰ってからも。

「帰ってすぐ電話くれるの珍しいね」

あの流れからのこれだったからちょっとだけ警戒してたのは事実だった。でも電話の内容は結婚しろとかそういうのじゃなくて、ごく普通の、飛行機が退屈だったとか、わたしがあの後何してたとか、そんな話。それでそのまま『そろそろ寝る』って電話を切ろうとするものだから逆にわたしが「え?」って肩透かしをくらった。わたしが何を考えてるのかお見通しらしい冴くんはそんなわたしをふんって鼻で笑う。

『別にこれはそういうんじゃねぇ。ただお前の声が聞きたくなっただけだ』
「そ、そんなことばっか言う」
『用事もねえのに電話するのは趣味じゃねぇからしないだけで、お前の声は毎日聞きたいと思ってる』


怒ってもいいですか?

なんなの!日本の至宝、なんなの!?そういうのじゃないって言ったじゃん!油断してるところにそういうこと言わないでよ!!本当にずるい男!!

でもなんの心の準備もできないままスペインに行って、環境がガラッと変わって、そして冴くんがサッカー選手であることをもっと近くで目の当たりにしたら。綺麗な女優さんと共演したり、スポンサーの女性をエスコートするところを見たら、絶対に「やっぱり冴くんの隣はわたしじゃない」って後悔して日本に泣いて帰ることになるのは目に見えてるから。

だからやっぱりわたしは冴くんとはまだ結婚できない。



いや、まだって思ってる時点でもう冴くんに囚われてるんだけど。



◇◇◇



「ゴーーーール!糸師冴、先程のフリーキックでのゴールから続けて2点目!」
「レオナルド・ルナへのパスだと予想したディフェンダー陣は真逆に動いてましたね。糸師選手のフェイントが効きました」

外国語が同時通訳されるイヤホンは、あの日本が誇る大企業・御影コーポレーションが開発したんだとか。スペイン語が話せないうんぬんでごちゃごちゃ言っていたら冴くんはこれをわたしに投げてよこしたけど、これ実はめちゃくちゃ高いらしい。ほら、やっぱり金銭感覚が違う。

まあ、それは一旦置いておくとして。とにかくそれのおかげでわたしは今問題なくスペイン語の解説を日本語で聞きながら試合を生で見ている。つまり、情熱の国、スペインにいるってことで。



わたしが冴くんの試合を生で見るのは、実はU-20と青い監獄メンバーとの試合ぶりだったりする。というのも海外のスタジアムで一人サッカーの試合を見るのは大変心細いし、サッカーの応援は結構過激になったりすることもあるからと冴くんがわたし一人で一般の応援席に行くのは絶対NGが出る。関係者席ならいつでも用意すると言ってくれていたけど、そんなの冴くんの彼女ですって言ってるようなものだからどうしても行けない。関係者席、モデルさんとかアナウンサーさんとか綺麗な人ばっかりいるイメージだからそんなところ行ったらもっと「やっぱ無理ッ」ってなって帰ってくるのが目に見えてるし。

なのに今回わたしが関係者席に来てしまったのは冴くんに騙されたから。

あの日から三ヶ月。冴くんがわたしの長期休暇に合わせて久々にスペインに来いと旅券を送ってきてくれたからおそるおそる(もったいない精神が勝ってしまった)行ってみれば、空港でなんの変装もしてないどころかジャージ姿の冴くんがわたしを出迎えた。その時点で「あれ?」って思ってはいた。

で、「眠くねぇか」「飛行機でいっぱい寝たから大丈夫!」「ならいい」のあと、マネージャーさんの車に乗って気がついたらレ・アールの本拠地。の、関係者席。

背の高い欧州の人たちに囲まれてちんちくりんの日本人のわたし一人。しかも、チームでも1、2を争う人気選手が直接連れてきたとなればみんな「あれってもしかして…?」ってなる。

冴くん、絶対事前に言ったらわたしが断ると思って何も言わずに連れてきた!絶対後で怒る!

そう思ってたけど試合が始まってしまえばみんなわたしのことなんて忘れて試合に没頭する。もちろんわたしもそうで、久々の生の冴くんの試合にアドレナリンがやばい。しかも2点も冴くん自身が点を決める試合が見れるだなんて本当に語彙力死ぬぐらい興奮した。多分この後わたしは怒ってたことを忘れて冴くんに「世界で一番かっこよかった!」って月並みな言葉を言っていつもみたいに冴くんに「ん」って流されるだろうなって思ってた。

でも、ゴールを決めた後、冴くんはいつもの違ってたのだ。

ゴールしても、その後チームメイトたちが集まってきても常にクールに「次行くぞ」的な感じの冴くんが、自分の指先に軽く口付けてそしてこちらをまっすぐ見据えて、そして指を差した。

自惚れじゃなく、それはわたしに向けてだった。


そして絶対合うわけがない視線がぱちりとあった、気がした。


それから残り5分と数分のアディショナルタイムの間、わたしは動くことができなかった。じわじわと高鳴っていく心臓に、試合が全く頭に入ってこない。


だって、あの冴くんがそんなことする?あれ、ゴールパフォーマンス、だよね?




試合は3-1でレ・アールの勝利。そして今日のMVPの冴くんのインタビューはもちろん行われた。



「糸師選手!ツーゴール、ワンアシストと本日は素晴らしい活躍でした」
「……」
「糸師選手のゴールパフォーマンスはずっとレ・アールを追っていた私でも初めて見たのですが、今日はどなたかいらしていたんでしょうか!?」

冴くんはこうした試合後のインタビューにはいつも乗る気じゃない。淡々と言葉少なに答えて、そしてさっさと控え室に戻るからせっかく話せるスペイン語が泣いている。だから聞いた記者すら今日もきっと「大した意味はねぇ」だとかそんな答えが返ってくると思っていた。なのに今日はめずらしく日本語でこう答えた。

「いつまでも結婚したいって言わねぇムカつく女」

あまりにしれっと答えるからスタジアムにいた全員いつもの彼の雑な返事だと思ったんだと思う。だって日本語がわかるわたしですら一瞬意味がわからなくて「は?」って感じだったんだもん。

だけどその後すぐにアナウンサーが翻訳を伝えた瞬間スタジアムは糸師冴のゴールの瞬間の次くらいに沸いた。ちなみに翻訳では「愛しい女性」に変わっていた。意訳がすぎる。

そして追加で質問しようとする記者を振り切った冴くんが帰り際にまるで子どものようにべーっと舌を出した。これもきっとわたしに向けて、「これくらい俺にもできんだよ」って言ってたんじゃないかと思う。


で?この時のわたしの心臓はというと。


バックバクで死ぬ寸前。

ルナさんと張り合うような子供っぽいところが残ってるかわいい冴くんがわたしはたまらなく好きだし、何よりあの冴くんがわたしのためにあんならしくないことをやったとか思うとめちゃくちゃ愛しくなっちゃって、すべてどうでもよくなったわたしは多分この後自分から彼にプロポーズすると思う。










なんて。


「冴くん、あのね!」
「俺と結婚しろ」
「えッ!あ、」
「返事は」
「……します!」
「ん」



日本の至宝は全く思い通りにいかないんですけど。




A.別れるという選択肢はないようなので潔く糸師になりましょう






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