冴くんはセフレを好きになることはないって言ってたので、後戻りできなくなる前にお別れします 前







「セフレなんて好きになんねぇよ」

冴くんがそう言ってたのを聞いたのはいつだったっけ。わたしが彼のセフレになって割とすぐのことだったことは覚えてる。

そんなことわかってたはずなのにそれに相当ショックを受けた。理由は簡単。わたしが冴くんのことを好きだから。セフレになる前からの気持ちだから仕方ないと言えば仕方ないけど、何が悲しくて絶対に自分のことを好きにならないってわかってる男のことをいつまでも好きでいなきゃいけないんだろう。でも冴くんはわたしの心を掴むのがあまりにうまくて、彼から離れようなんて気に全くならなかったのだ。

でも、所詮セフレはセフレ。終わりはいつかやってくる。


その日は元々会う予定なんてなくて、すれ違ったのは本当に偶然。冴くんは数時間後に弟と会う予定があると鎌倉まで来ていて、わたしは会社の同期同士の合コンという名の飲み会までの時間潰しをしていた。

「あ」
「よお」

昔スペインで偶然会ったことがあったけど、あの時と同じようにまるで運命みたいに目が合った。まあ残念ながらそう思ってるのはわたしだけなんだけど。とにかくお互い暇を持て余してるからと流れでカフェに入った。

「いつ帰ってきたの?」
「昨日。明日の朝帰る」
「え、きっつ…」

タイトすぎるスケジュールに引いていたら、冴くんは「クソどうでもいい仕事が悪い」とわたし以上に眉間に深い皺を寄せる。冴くんの機嫌は決して良くはなかったけど、こうして二人で外で会うなんて今までなかったから、ちょっとだけ勘違いしそうになった。冴くんと向かい合ってコーヒーを飲んで、何気ない最近の出来事やこの後の予定にについて話す。きっと恋人だったらこんな感じだったんだろうなって。

でもその後入ってきた女の子が冴くんに気がついて指をさしたから、わたしたちはせっかくのコーヒーを麦茶みたい飲み干してお店を出る羽目になった。時間はまだ余ってるし、まだ話も途中。それで次の場所を探したけど、冴くんはどこに行っても目立つし悩んでる間に見つかっちゃう。それで二人とも同時に

「うち来る?」
「お前の家近いだろ」

と同じ結論に至った。

「あ、ならコーヒーもう一杯どう?多少は腕上がったと思うんだけど」
「自分で言うくらいなんだから相当だな」
「…ごめんなさい、そこまでじゃないです」
「もう遅え」

別に普段冴くんが冷たいわけではないんだけど、外でこういう会話をすると途端にデートみが増して、わたしを浮かれさせる。前に入れたコーヒーは好評とはいかなかったから、今回は絶対においしいって言わせると意気込んでいたのに、玄関に入ってすぐ壁に押し付けられるようにキスをされて、思わず目を白黒させてしまった。

「冴く、こ、コーヒーは…?」
「あとでいい」

その会話の間だけ離れた唇はすぐにまた距離を無くし口づけは深いものに変わる。結局玄関の電気もつけないままわたしたちはベッドに雪崩れ込んだ。

そう言う時、やっぱりわたしは彼の恋人じゃなくてセフレなんだなって思い知らされる。この後の予定なんてお構いなしに首や肩に噛みついて、血が滲むくらいの跡を残す冴くんに文句ひとつ言えないわたしは都合のいい女以外の何者でもない。まあそれでもいいって思って思ってたけど。


でも、これはさすがに。


「さえく、だめ!ゴムしてないから!」
「あ?ないことぐらい最初からわかってただろ」
「ほんと、だめだから」
「じゃあここでやめれんのか」

逃げようとするわたしの腰を抱え込む。その瞳にはもう熱がこもっていて、“絶対に逃がさない”と言っている。その瞳に流されそうになる頭を振ってもう一度冴くんの胸を押し返したけど、冴くんはたった一言でわたしの残った理性を崩壊させた。

「俺は我慢できねぇ。今すぐお前がほしい」
「っ」

ずるい。冴くんはわたしがこんな本気で求められてるみたいに言われて拒否できないことをわかってる。

当たり前にわたしの抵抗は弱まって、それをつぶさに感じ取った冴くんはそのままわたしの奥まで貫いた。受け入れてしまえば脳がバカになるくらい気持ちよくて、噛まれた跡の痛みも興奮を増すスパイスになってしまっていて、絶対言わないって思ってた「好き」が口からこぼれ落ちた。

しまった、と思ったけど、セフレにそんなことを言われるのは慣れているのか、リップサービスなのか、それとも彼もわたしと同じように珍しいくらい熱に浮かされていたのか、冴くんはわたしの唇に噛み付くようなキスをした後で「好きだ」とつぶやいた。

泣きたくなった。わたしのことを絶対好きになってくれないくせに冴くんはわたしを逃してくれない。

でもどうしよう。好き。どうしようもなく、好き。

一度言っちゃうとリミッターは外れて「好き」だの「愛してる」だのが止まらない。「好き」って呟くたびにもっと好きになって行くこの現象はどうにかならないのかな。本当に最悪。でも今は残念ながら幸せを感じちゃってるので最後にもう一度熱に浮かされたフリをして「好き」だと漏らせば彼はわたしの涙が滲む目尻にキスをした。



目が覚めたらもちろんわたしの隣には誰もいない。『鍵はポストに入れてある』という連絡が一時間前にきていたから、彼は何の問題なく次の予定をこなしに行ったらしい。

そんな彼と違ってこっちは体が重たすぎて動けないし、何よりあんな風に抱かれておいてあと一時間で他の男に笑いかける自信なんてないから体調不良と嘘をつくしかなかった。せめてもの救いは同期同士の気安い合コンだったこと。「次はお前幹事だからな!」という仲のいい同期の吉田くんからの言葉が逆にありがたかった。

用事を終えたスマホをポイっとベッドに投げ捨てて、もう一度ベッドに横になると、口からため息が漏れる。

何回も彼の家の女物の化粧水やピンク色の歯ブラシに打ちのめされてきたと言うのに、起きたら隣にいてもう一度「好きだ」って言ってくれないかなとか。まだ期待とかしてたんだ。本当にバカすぎない?

さっきまでの燃え上がるような興奮はひりっと痛む彼の噛み跡で消えていく。すると彼と関係を持つようになって初めて冷静すぎる自分が現れてきて、後戻りできなくなる前にもう終わりにした方がいいんじゃない?と囁く。

これが俗に言う潮時ってやつなのかな。

セフレ歴よりも長い片想い歴を持つわたしにとって二度と彼と会わないという選択をするのは容易なことじゃない。でも頻繁に会ってたわけじゃないし、元々わたしと彼じゃ釣り合わなかったし、何より彼はわたしのことが好きじゃない。

それに元々わたしはこんなふうに誰かに執着するタイプじゃないじゃん。だからきっとすぐに忘れられる。


でもいざこれで終わりにしようって思ってもセフレとの終わり方ってよくわからない。いちいちお別れを言うのもなんか変な気がして彼とのトーク画面を開いては閉じてを繰り返す。

そうしている間に寝落ちしてしまったらしく、目を覚ますと空は明るんでいた。手に握るスマホで時間を確認しようとすればいつもは来ない『今からスペインに帰る』という連絡がきていたことに気がつく。終わりにしようという時に限って連絡がくるのは、わたしが離れようとしてるのを冴くんが感じ取ってたからなのかもしれない。冴くんは女を生かさず殺さず自分の手元に置いておくのが上手い人だから。

でももう今を逃したら多分二度と正気に戻れない気がする。きっと後一度でも彼にあんなふうに抱かれてしまえば、わたしはもう気持ちを止められない。だから、後戻りできないように今送るしかなかった。

『気をつけて帰ってね。あと好きな人ができたのでもう会えないです』

ひょっとしたらまたいつか、なんてバカみたいな期待を持たないよう冴くんをブロックして連絡先もトーク履歴も消した。

だから冴くんがこれに何か返事をしてくれたのか、それとも見てそのままスマホを閉じたのか、わたしはこの先一生知ることはない。













だから、スペインの首都にある空港でわたしからのメールを見た冴くんが聞いたことのない声で「ふざけんな」と言っていたことも、一生知るはずない。





◇◇◇



わたしが冴くんと出会ったのはサッカー場でもスペインでもなくて、鎌倉の裏通りにあるこじんまりとした喫茶店だった。その店はよく言えばレトロな、悪くいえば若者ウケしなさそうな古ぼけたところ。当時まだ学生だったわたしはそこでバイトしてたわけだけど、そんなお店で働くわたしも、そのお店のマスターも、なんならお客さんの近所のおじいちゃんたちも、もちろんスポーツなんてのには興味がないから誰も彼が鎌倉が産んだ世紀の大選手だなんてことは知らなくて、ただ無表情が怖いくらいに綺麗な、コーヒーを飲む所作が絵になる人だと思ってた。


冴くんが初めてお店に来たのは人気の観光地にしては珍しいくらい雨のしとしとという音さえ聞こえてきそうな静かな日。落ち着いた雰囲気を気に入ってもらえたのかそれからしばらくの間うちのお店に通ってくれていた。

でもだからといって何かあるなんてことはなくて、わたしたちがしたやりとりは

「ご注文はお決まりですか?」
「ブレンド」
「かしこまりました」

たったこれだけ。でもわたしは彼のこの一言が聞きたくていつもマスターが注文を取る前に彼のところにすっ飛んで行ってたから、よくマスターに笑われていた。最初は無意識だったから「なんで笑うんですか!?」って裏で怒ってたけど、多分マスターに一瞬で見抜かれるくらいには分かりやすく一目惚れしてたんだと思う。

そんな中学生みたいな淡い恋をしていたわたしが幸運にも冴くんと話すことができたのは、そのマスターが用事があって店を離れている間留守を任された日のこと。

常連さんの相手のための留守番なのに珍しく誰も来なくて暇だからコーヒーの練習を始めると、ようやくドアのベルがカランカランと鳴った。

「いらっしゃいませ!今マスター出ちゃってるので少しお待ちくださいねー!」

この時間帯に来るのはいつも四軒先の三宅のおじいちゃんだから、なんの疑いもなく手早くお水とおしぼりを用意しながらそう話しかけた。

「……」

なのに三宅のおじいちゃんの明るい返事が聞こえてこなくて、それを不思議に思って振り返るとそこにいたのは例の憧れていた人。いつもよりも三時間ほど早い来店だったから無駄に驚いてしまって、落としそうになったグラスとグッと掴みなおした。

「あ、申し訳ありません…。マスターが30分ほど不在にしておりまして、今はコーヒーをお出しすることができないのですが」

初めて定形文以外で話しかけた言葉が彼を追い返すようなものなのが悲しい。今日は彼がコーヒーカップを持つところが見れないのかと残念に思っていると、意外にも冴くんは「わかった」とだけ言っていつもの席に座ってサングラスを取った。

なんでか知らないけど絶対に帰ると思ってたから「え?」って声が出ちゃって、すると訝しんだ顔で見返される。

「なんだ」
「いえ。コーヒー以外に何かありましたら用意しますのでおっしゃってください」
「お前はコーヒーはいれねぇのか」
「まだ修行中でして」
「たまにジジイに出してただろ」

また「え?」って声が出るかと思った。彼の前で何度も常連さんに「いれたんで飲んでください!」って押し付けてたけど、まさかそれを彼が知ってるなんて。それに、ジジイって…。意外と口悪い。

彼が自分のことを認識してくれていたこと、そして知らない彼が知れたこと。それにわたしは知らない間に浮かれたらしい。

「今から練習しようと思ってたんです。おいしくないかもしれませんけどそれでもよければ…」
「それでいい」
「お代はいらないので!少々お待ちください!」

まるで居酒屋の店員のように元気に返事をして急いでカウンターへ引っ込んだけど、多分わたしが浮かれまくってたのはバレてたし、多分ちょっと笑われたと思う。


そのあと出したコーヒーの感想は「別に飲める」で全く参考にならなかったけど、飲み干すとすぐに席を立ってレジにコーヒー一杯分のお金を置いてくれた。もちろん初めは断ったけど、冴くんは
「俺が飲みたいっつったんだから払うのは当然だ」
と引かない。

「で、でもそれだとわたしがマスターに怒られちゃいますので。せめて何か他のものを…」
「ならお前が一人前になった時にお前に奢られる。それでいいだろ」

それだけ言うと彼はお店に入ってきた時と同じようにドアのベルを鳴らして出て行った。

咄嗟に彼を追いかけようとしたけど、もう姿は見えなくなっていたし、入れ違いに三宅のおじいちゃんが入ってきたからお礼は次にしようと「いらっしゃいませ」と笑った。

いつも通りのつもりだったのに、おじいちゃんに「顔赤いけど風邪でも引いた?」なんて言われてしまって、そこでようやくわたしは自分の顔が熱くなるくらい彼にときめいていることに気がついた。だって、出て行く直前の彼はいつもと違って笑っていた。薄い笑みだったけど、でも多分わたしが一人前になったら本当に飲んでくれるつもりなんだなって思えたから。

「ついにうちの看板娘にも彼氏ができちゃったかー」
「そんなわけないじゃないですか!あんなかっこいい人が私なんて相手にするわけないですし!」

もちろん彼氏じゃないからわたしの否定の言葉は当たり前のものだけど、いつかはそうなれたらいいなって思ってたから、翌日からパタリとこなくなった彼に、自分で言ったくせにその通りだったなって結構がっかりした。

こればっかりは仕方ない。始まったばかりの恋は不完全燃焼で終わることになったけど、その胸の痛みに気付かないふりをして、来月スペインに留学している親友に会いに行く人生初の海外旅行に胸を馳せることにした。



◇◇◇



「え」

再会はスペイン旅行二日目のこと。

案内してくれるはずの親友が急遽丸一日大学に行かなくちゃいけなくなって、慣れない海外で一人観光することになった。電車に乗るのもよくわからなくて足で色々歩き回ってたら日頃の運動不足が祟ってお昼過ぎにはもうくたくた。それで花が綺麗な広場で休憩することに決めた。

ふぅ、と息を吐いたあと何気なくその広場を見渡したら、目を引く赤い髪が視界に入って、気がついたらわたしは走り出していた。

「あの!」

この時は運命?とか少女漫画みたいなことを思った。地元で会った人にまさか旅先で会うなんて偶然、普通はないから。それで無駄に勇気が出ちゃったわたしは、向こうが覚えてなくてもせめて名前だけでもと思ったのだ。すると彼は少しだけ驚いた顔をして「……よお。コーヒーいれんの上手くなったか」と最後のあの日みたいに笑みを浮かべた。

それが一瞬にしてわたしにあの日の思いを蘇らせる。

「まだマスターの合格はもらえてなくて」
「そうか」
「…奇遇、ですね」
「そうだな」
「あ、あの」
「なんだ」

ああ、好きだなって。別にそんなに話したことあるわけじゃないし、今だって何か特別なことを言われたわけじゃない。なのにどうしてこんなにも惹かれるんだろう。

「そこのコーヒー一緒に飲みませんか!前わたしのコーヒーにお金払ってくれたお礼に奢りますので!」
「まだ一人前になってねぇんだろ」
「…そう、ですよね」

わたしの脳と口は直結してるらしい。考える前にこぼれでた誘い文句は当然のごとくダメそうで絵に描いたようにしゅんとすれば、彼はため息をついてそのコーヒーショップに歩き出した。

「え?」
「別に付き合わないとは言ってない」
「え!?」

一瞬にしてテンションは最高潮。残念ながら店は満席だったけど、テイクアウトしてベンチで隣に座ることができたからなんの問題もなし。昨日まで予想もしてなかった事態に浮かれながら、ようやくわたしは訪ねたのだった。

「あの、お名前聞いてもいいですか?」


それからのわたしは結構頑張ったと思う。年齢を聞いて歳が近いからタメ口で話す権利をゲットしたし、最初は人一人分以上離れてた距離を拳一つ分にするくらいには頑張った。…いや、後者はたまたま近くの人たちの声が大きすぎて聞こえづらかったからお互い近寄って行っただけなんだけど。でもそうして距離が縮まるたびに顔が熱くなって、彼が笑うだけで心臓が跳ねる。

べつに初恋ってわけじゃないのにいつものわたしじゃないくらい彼に溺れてるのがわかった。

鳴り止まない鼓動が冴くんに聞こえるのが恥ずかしくて触れてしまった肩を離してなんともないふりをして話を続けたのに、冴くんはベンチの背もたれに肘をついてこちらを見つめてくる。

「え、どうかした?」

わたしの問いに冴くんは口角を上げてた。

「お前の心臓、さっきからうるせぇな」
「っ!」

冴くんには少し意地悪なところがあると思う。さっきわたしが名乗ったら「知ってる」って鼻で笑われたし。確かにネームプレート毎日付けてたけど、覚えられてるなんて思わないから仕方ないじゃん。

こんなふうに口を尖らせていても、そんなところも良いなって思っちゃってるんだから割ともう後戻りできないところにいたのは間違いない。この時間を終わらせたくなくてわたしがコーヒーをゆっくりすすっていると、先ほどまでの晴れが嘘のように空がどんよりしてきて、そしてすぐに雨粒がぽつりと顔に当たった。

突然やってきたタイムリミットにがっかりして、雨のバカ、と天を仰ぐと雨粒がわたしの目に入る。反射で目を擦ってしまってから気がついた。

「あ」
「どうした」
「………女としてあるまじき失態を犯した」
「あ?」
「……こっち見ないで」

マスカラが取れて目の周りは絶対黒くなってる。そんなところ絶対見られなくないのに冴くんはわざわざわたしの顔を覗き込んで、そして肩を振るわせる。ほら意地悪。

「わ、笑わないで!見ないでって言ったのに」

怒ってるわたしをよそにツボったらしい冴くんの肩の震えは止まらない。今度こそ「冴くんって意地悪でしょ」って言ってやる。そう思って開いた口は冴くんの「うち来るか」で「へ?」に変わる。

「………うち?」
「すぐそこだ」
「え、え、」

うちくるってなに…?冴くんってスペインに住んでるの?で、うちくるってなに?

意図がわからなさすぎて「え」を繰り返すしかなかった。スペインの夏は雨はほぼ降らないという話だったのに、その間にも雨は激しさを増していって、痺れを切らせた冴くんはわたしの手を取って強引に歩き始めた。

「おせぇ。風邪引く。それに」

ずんずん進んでいた冴くんがピタリと足を止めてこちらを振り返ると、いつもは上げていた前髪がおでこにぺったりとくっついている。前髪があると普段よりも幼い印象で、あ、かわいい、なんて思ったわけなんだけど、それよりも「それに」の続きが気になってわたしは息をするのも忘れて固まっていた。

なのに返ってきた言葉は「そんな顔でホテルまで帰れんのか」。しかもちょっと鼻で笑ってた。いくら好きな人でもムカついたし、ちょっとでも意識した自分のことを逆に鼻で笑ってやりたくなった。

ですよね。知ってた。そんな漫画みたいなことあるわけない。

だから一等地にある立派なマンションの一室にお邪魔した時も、お互いシャワーを浴びた後服が乾くまでとソファーで世間話をしている時も、意識する方がおかしいとその可能性を脳内から排除してた。

なのに一瞬会話が止まって、静寂の中視線が絡み合うと、冴くんはわたしを引き寄せてゆっくりと口づけをしてきた。驚いたわたしがまるで池の鯉みたいに口をぱくぱくさせたのも仕方がないと思う。その表情に冴くんはひどく心外そうな顔をして、そのままわたしをソファに押し倒した。

「え、いやいや、え…?」
「あ?なんだ」

色気もへったくれもないわたしに冴くんは「萎えるからやめろ」みたいな顔をしてる。いや、でも、え?

「だってわたしのことなんとも思ってないって思ってて…」
「俺のことなんだと思ってんだ。俺は男で、お前は女だ」

そうだけど。そうだけど!落差ありすぎて頭がついていかない。

でも断る理由はなんてあるはずもなく、わたしは絡められた指を握り返した。酔った勢いでもなんでもなくワンナイトなんてあるんだなって思ったけど、好きになった人とこんなふうに肌を重ねるのを嫌がる女はいない。だからわたしはその日世界で一番幸せな女だった。



翌朝目が覚めると目の前にとんでもなくタイプな顔があって体がビクッと跳ねた。きっともうこんな距離で彼を見られる日なんて来ないだろうから見納めの顔をしばらく見つめた後時計を見て飛び起きた。そのせいで寝ていた起こしてしまったらしく冴くんは「チッ」と舌打ちをする。

「まだ寝てろ」

わたしの素肌の腰に冴くんの腕がまわると体の奥がぞくっとして思わず首をすくめた。なんにも身に纏っていないこの状況が恥ずかしすぎてもう一度ベッドに潜り込みたいのはやまやまなんだけど、でもマジで時間がない。そっとその腕から逃げるように散らばった服を集め始めた。

「お、起こしちゃったよね。ごめん、時間なくて。冴くんは寝てて」
「なんかあんのか」

冴くんは今度は気だるげに上半身を起こして髪をかきあげた。時間がないのに目が奪われる。朝からこの色気の暴力はなんなの…。

「…」
「なんだ」
「なんでもない、です。今日友達とカフェ行って、美術館巡りしたあとサッカーの試合見に行く約束してて。朝から回らないと間に合わないんだって」
「…」

聞かれてもないのにその友達はスペインで薬の研究しててすごいんだよと話すのはわたしから視線を逸らしてほしいから。でも冴くんは関係ないとベッドから降りてわたしを素通りする。そして数秒後に戻ってきたかと思えばこちらに何かを投げて、もう一度ベッドに潜り込む。

冴くんが投げてよこしたのは鍵だった。

「これ」
「それで鍵かけとけ。俺は寝る」
「ポスト入れとけばいい?」
「お前がスペインにいる間に返しに来い」
「え」

それが二度目のお誘いだと言うことはすぐにわかった。次があるんだ!とわたしは餌を前にした犬みたいに尻尾をブンブン振って、もう目を瞑ってしまった冴くんに「うん」と返事をした。 



◇◇◇



「昨日は本当にごめん!」
「大丈夫だって!何度目?それにわたしもいいことあったし」
「いいこと?」
「あのね」

鎌倉で一目惚れした人と昨日再会したこと。それからまた会う約束があること。わたしがニコニコしながら話せば親友は目を丸くする。

「運命じゃん?」
「だよね!?」
「えー!わたしが教授の奴隷と化してる中そんな青春してたわけ?うらやましい」
「ごめんって」
「また明日朝イチで行かなきゃなのに…。まあでも楽しかったならよかった。心配だったから。でも今からの試合見たら昨日の人のこと忘れちゃうかもよ?」
「どういうこと?」
「このチームのMF、まあゲームメイカー的な人なんだけどさ、その人めっっっちゃかっこいいの。日本人で昔から注目されてた選手なんだけど、新しい選手入ってきてからマジで神がかってて今期本当にやばいの。多分惚れるよ」
「サッカー選手でしょ?さすがにそれは」

ない。

そう思ったのに、そのタイミングで始まった選手の紹介のアナウンスが『Sae Itoshi』と世界が待ち望む天才の名を呼ぶ。場内の盛り上がり様にその人気ぶりがうかがえるけど、わたしの頭は「?」一色。

「いとしさえ?」
「そう!糸師冴!凛って名前の弟もフランスでプレーしてるよ!すごい兄弟だよね!」

赤褐色の髪に、エメラルドグリーンの瞳。紹介と共にフィールドに現れたその人は、昨夜わたしを抱いた男だった。

「は?」
「落ちたでしょ?好きなタイプだと思った。女性ファン死ぬほどいるんだよ」
「そう、なんだ」

その後、呆然と彼のスーパープレーを見ながら、そういえばすっごい均整のとれた体してたなとか、そういえばわたしが彼の名前を聞いた時驚いてたなとか。今更ながら納得のいくことがたくさんあって、それでようやく冴くん=糸師冴だと理解して、そして頭を抱えた。

わたしが冴くんと付き合うとかありえなくない?

鍵を返しに行ったら告白するつもりだった。でももう絶対に言えない。冴くんみたいなすごい人が一般人代表みたいなわたしと付き合うわけない。それに今思えば渡された女物のメイク落としも化粧品も誰のだったんだろう。歯ブラシスタンドには歯ブラシが2本刺さってた気がする。そしてそのうちの一本は派手なくらいのピンク。

それが意味することくらいわかる。今更思い出すなんてわたし、浮かれすぎでしょ。

なのにレ・アールの大勝利に興奮した友人がバルでワインを一本開けて、明日も朝イチで研究室だと泣きながら寮に帰って行った後、足は自然と彼のマンションに向いていた。わたしがチャイムを鳴らすと中から先ほどフィールドで見たのと同じ赤みがかった髪の男の人が扉を開ける。

「よお」

部屋に入るのを躊躇っているわたしに、冴くんはこうなることがわかっていたかのように目を細める。

「俺が誰かわかって来たんだろ」
「…サッカー見に行くって話した時に教えて欲しかった」
「もし初めから知ってたら昨日来なかったか?」

彼がわたしに何を求めてるか分かった上で、ポストに入れればいい鍵を持ってわざわざ会いに来てるんだから、そういうこと。そこで黙るわたしの答えを冴くんは知ってる。

「なら言わなくても問題ねぇな」

わたしの頬を彼の少しだけかさついた手の甲でなぞる。そしてその端正な顔をゆっくりとわたしに寄せて、そして唇を合わせた。


漠然と、ああこれがセフレってやつなんだなって思った。








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