運命なんて生ぬるい






まるで映画みたいだなって思った。

顔を赤らめて、目には涙を湛え、そして少し息を切らせている。おそらく走って追いかけてきたであろう女の子は、震える手で男のスーツの袖を引く。

「やっと会えた…、わたしの運命の人」

男は驚いたように目を大きく開けて女の子を見つめた。

目の前で繰り広げられる光景はついこの間映画で見た、不慮の事故で離れてしまった二人が何年もの時を超えて再び出会えたその感動の再会シーンにそっくり。

違うところは不慮の事故で離れていたわけではなくて、二人は今の今まで知り合いではなく、でもアルファとオメガで、しかも運命という絆で結ばれていたということ。

現実の方がもっと物語っぽいだなんて、そんなこと、あるんだ…。

どこか人ごとのようにその光景を見ているわたしは物語の登場実物としてはモブにしかなれないベータで、この物語のヒーローであるアルファの彼女、だった女だ。

わかってたじゃん、バース性の結果を見た時から。だから傷つくのはおかしい。それなのにオメガの女の子に控えめに腕を引かれた男の見たことのない表情に結局溢れそうになる涙を耐えることができなくて、そっとわたしはその場を去った。

跡が残るほどじゃなかったくせに昨日彼に噛まれたうなじがじくじくと痛んで、それと同じくらい胸が痛んだ。



◇◇◇



齢8に満たない頃からサッカーの天才ともてはやされ、それから10年を悠に超えても未だ天才と言われ続ける人をわたしは糸師冴以外に知らない。

そしてその糸師冴はわたしの幼馴染で、恋人だった。

わたしたちは家が隣同士だったし、忙しい冴の両親に代わってよくうちで預かっていたから二人で、そして冴の弟の凛が生まれてからは三人でいつも遊んでいた。
小さい頃はよく「大きくなったら冴くんと結婚する!ね、冴くん!」「うん」なんて言ってたらしいけど、それは小さい頃のあるある話で、本当に好きだったかなんてよく覚えてもいない。

でも結局わたしは冴のことを好きになった。それは冴がずっとそばにいた男の子だからとか、彼の歯に衣着せぬ物言いが好きだったからとか、わたしの男性の顔の基準が彼のせいで爆上がりしてたからとか、理由を上げ始めたらキリがないけど、やっぱりサッカーの影響は大きかったと思う。

物心つく前にサッカーを始めると冴はすぐにのめり込むようになったから、わたしははじめサッカーに幼馴染を取られたと拗ねていた。でも凛と一緒に彼の試合や練習を見学するようになると、気がついたらサッカーの面白さにハマっていて、そして冴の試合を観戦するのはわたしの一番の楽しみへと変わった。冴の左足が描く放物線にいつもわくわくして、そして普段冷静な冴がボールを見つめてる時だけ見せる熱い瞳にドキドキした。つまり、わたしは冴のファン二号になったのだ。

ちなみに一号は言わずもがな兄ちゃん大好き凛。凛のお兄ちゃん子ぶりはなかなかで、いつも目を輝かせて自分の兄を見る凛に「ほんと凛は冴くんのこと大好きだね」とわたしは笑っていた。

そんなある日のことだった。

いつも釘付けになって冴のプレーを見る凛がなぜか不貞腐れていた。その日は冴が所属するクラブチームの試合の日でたくさんの見物客が来ていた。中には凛のクラスメイトもいたみたいで、「そっち行ってきてもいいよ?」と言っても頑なに首を振る。どうしたことかと聞いてみればようやく凛は口を尖らせて答えた。

「クラスのやつがみんな兄ちゃんのことかっこいいって言ってる。おれの兄ちゃんなのに」

自分の兄ちゃんが取られるかもしれないというかわいい弟の嫉妬。冴に教えてあげれば口では「んなわけねぇのにグチグチすんな」と言うだろうけど、きっとその口の端は上を向くだろうなと想像してわたしはつい笑みが溢れた。

「ふふっ冴くんは凛のお兄ちゃんなんだから何にも心配いらないよ」
「ほんと?」
「ほんと。だって冴くん、凛のこと大好きじゃん」

わたしがそう言うと凛は照れてるのか口をきゅっと結んだ。

「凛も冴くんのこと大好きだもんね」
「…うん。ナマエちゃんは?」
「え?」
「ナマエちゃんも兄ちゃんのこと好きなの?」
「わたし?わたしは…」

凛に問われて一瞬戸惑った。凛を諭していたくせに冴がきゃーきゃー言われていることを、本当はわたしも面白くないと思ってた。でもこの時まではその理由はわからなくて、また幼馴染が遠くなってしまうことへの寂しさなんだと勝手に思い込んでいた。

その時わたしの目にドリブルしながら駆けていく冴が映った。わたしの都合のいい目にはなぜかいつも冴しか映らなくて、いつも冴だけが他の誰とも違っている。人気の冴にもやもやする理由も冴だけが特別な理由も凛からの質問に答えると全て解決することに気がついた。

「…好きだよ。でも冴くんには内緒ね」

わたしが笑って口元に人差し指を持っていけば凛は首を傾げた。多分まだ恋愛感情がわかっていない凛はなんで「好き」を内緒にするのかわからなかったんだと思う。

「おれのことは?」
「もちろん大好きだよ」

凛は「へへっおれも」と笑ってわたしの手をぎゅっと握った。二つしか変わらないのにまだ小さいその掌はあたたかくて、愛しくて、これが弟ってやつなんだなと凛を猫可愛がりする冴の気持ちが改めてわかった。

こうして凛とサッカーによってわたしは冴のことを好きだということを自覚したけど、小学生だったから付き合いたいとかそう言う感情はまだなくて、今のまま三人でいられれば十分だと思ってた。

だからこの片思いは冴のスペイン行きが決まるまで続いた。



◇◇◇



10月10日。それは冴が13歳になる日のことだった。

「お誕生日おめでとうございます!これよかったらもらってください!あと、あの、わたし、ずっと冴くんのこと好きで…」
「…」

その日何度目になるかわからない告白を、冴はやっぱりスルーした。前に突き出したプレゼントはもちろん貰われることはなくて、告白した女の子は行き場のない手をゆっくりと下ろす。涙ぐんではいたけど、どこか諦めた表情でその場を去っていった。

「あの糸師冴相手によく告白するよな」とそれを見ていた男子が呟いたのが聞こえて、わたしも同意見だと心の中で頷いた。

冴はサッカーの試合が有れば連日地元紙に取り上げられ、なくてもちょっとしたニュースでサッカー界を賑わせる日本の至宝だなんて言われてる人。

いくら今日が彼の誕生日で、そして彼がもうすぐスペインに行ってしまうからと言ってそんな人に告白できる勇気はわたしにはない。というか逆に好きになってから何年も経ってるし、しかも相手があまりにすごい人になってしまったから自分から言い出すなんてとても無理だったのだ。


「行くぞ」
「あ、うん」

サッカーに忙しい冴にとってはそういう感情は迷惑みたいで、女子からの好意を感じると元々冷たい対応がさらに絶対零度に変わる。

それがわかってるから、わたしに唯一できたのは呼び方を他の女子が呼んでるのと同じ「冴くん」から「冴」に変えることくらい。結局今の関係性が壊れるのが怖いわたしは好きの気持ちを隠してただの幼馴染でい続けなくちゃならなかったのだ。だからそういうしがらみなく冴に告白できる女の子たちのことをほんの少し羨ましく思うこともあった。


「凛もう帰ってるかな?」
「いるだろ」
「じゃあまた怒られるな。いっつも冴といると怒られる」
「お前ら本当に仲良いな」
「そう言うのは冴だけなんだけど…。わたしは凛のこと好きなんだけどね。昔はわたしのこと好きって言ってくれたのにな」
「…」
「冴?」
「なんでもねぇよ」
「そう?」

案の定家の外で冴の帰りを待っていた凛は面白くないという顔でわたしたちを迎えた。

「凛、ただいま」
「おかえり」

わたしにおかえりを言ってくれたのか微妙なおかえりを言う凛に苦笑いした後、わたしは二人に手を振った。

「それじゃあね。今日おばさんたち遅いんだよね?ご飯持ってくから練習から帰ってきたら連絡してね」
「あれ、母さんたち今日仕事だっけ。兄ちゃんの誕生日なのに」
「代わりに誕生会は土曜にするって話だっただろ」
「そっか。てか今日は見にこねぇの?いっつも無駄についてくんのに」
「無駄は余計!今日は二人のご飯作るの手伝うしやめとくよ」

本当は誕生日でいつもよりもたくさんの女の子に囲まれる冴を見たくないからなんだけど。凛はそれを知ってか知らずかふーんと生返事をした後、冴を急かして練習へと向かっていった。


二人が帰ってきたのは午後7時過ぎ。

鍋を持って糸師家に向かうとわたしを出迎えたのはお風呂上がりのまだ髪が少し濡れた冴だった。

「ご飯持ってきたよ。凛は?」
「寝てる」
「疲れて寝入っちゃった?ご飯の用意してから帰ろうかと思ったけどどうしよ」
「凛は起こすから頼む」
「わかった」

勝手知ってる台所に向かって鍋に入ったカレーを温めていると、2階の二人の部屋から「凛、起きろ」という声が聞こえてきた。凛の眠そうな「んー」にまだ少し時間がかかりそうだなと思って火を弱めて暇つぶしにテレビをつけた。それはバラエティ番組で、男性アイドルが好きなタイプなんかを語っている。別にそのアイドルが好きなわけではなかったけど、『気がつかえる子ですかね』とか『料理を美味しそうに食べる人とかいいっすよね』なんて言ってるのを聞くと、ふと昼間の冴のことを思い出してつい見入ってしまった。

学年で一番可愛いって言われてる子も、クラスで一番話しやすいって言われてる子も、みんなフッてたけど…。

「冴ってどんな子が好きなんだろ」

ぼそりとつぶやいた言葉は誰に聞かせるものでもなかったのに、それは凛がしばらく起きそうにないと言う旨をわたしに伝えにきた当の本人の耳に入ってしまった。

「あ?」
「え、あ、冴いたの?や、今日、というかいつもだけどさ、どんな可愛い子に告白されても断ってるからどんな子が好きなのかなって」

わたしが曖昧に笑うと冴はどうでもよさそうに「めんどくさくない女」と答えた。

すごく冴らしい答えに「あー、ぽい」と頷いて、そしてこの様子なら好きな人とかいなさそうだなという勝手に安堵したというのに、冴はそれを一瞬で覆した。


「でも好きな女はめんどくせぇ女だけどな」
「…へ?」

一瞬浮かれたのに、気持ちがずーんと沈んでいく。

「…好きな子いるんだ?サッカーばっかりしてるから恋人はサッカーかと思ってた」

自分で言った後にわたしってめんどくさい女だなぁと思った。勝手に気落ちしていると冴はそんなわたしを鼻で笑って、そしてわたしの頬をつねる。

「な、何!?」
「お前」
「…へ?」
「だから、お前。勝手に他の女に嫉妬して俺に誕生日おめでとうの一言も言わないめんどくせぇ女。だろ?」

何を言われてるのか分からなかった。でもいつまでもぽかんと口を開けてるわたしを見つめてるほど糸師冴様の時間は安くなかったらしい。冴はぐつぐつと音を立てているカレーを混ぜもしないのにまぬけにもおたまを持ち続けていたわたしの背に合わせて少し屈んで、そしてわたしの唇にキスを落とした。

カツーンと音を立てておたまが床に落ちる。それでようやく我に帰ったわたしは熱の集まる顔を冴に見られないように汚した床を拭くために布巾を手に取れば冴は動揺するわたしを笑ってこう言った。

「文句は聞かねぇよ。お前が俺のこと好きなことくらい知ってる」

そして冴はわたしに背を向けて、おそらくもう一度凛を起こすために二階へと向かおうとする。

なんて男だろう。これで放置されたらわたしが今から悶々とする日々を過ごすことになるのは目に見えているのに。

だからわたしは初めて勇気を出して冴の手を掴んで、そして振り向く冴の唇に背伸びをしながら噛み付いた。

「誕生日おめでと!」

唇が離れてすぐわたしが顔を真っ赤にしてそう叫べば冴は「遅ぇよ、馬鹿」と、もう一度わたしの頬をつねった。

言葉にはしなかったけど、この時わたしたちは恋人同士になった。冴が渡西するまでの一ヶ月間は一緒に登下校したり練習を見にいったり、今までと同じに見えるけど、でも全然違う恋人の月日を過ごした。

そして別れの日は「お前は俺のだから誰にも触らせんな」とわたしの涙を指で拭った後、付き合った日ぶりのキスをした。

ずっとそばにいた冴がいなくなって寂しい毎日の始まりのはずなのに、思い返してみればこの時が一番幸せだった気がする。



◇◇◇



「アルファだった」

わたしたちの歯車が狂い出したのは間違いなくこの時だった。

冴がスペインについてしばらくした頃、冴からの電話で告げられた事実にわたしは震えた。

バース性検査は日本では中学3年生で一斉に行われるけど、ヨーロッパではもっと早くに受けることが義務付けられているらしく、冴もそれにしたがってわたしよりも先に受けることになったと聞いていた。日本の至宝だなんて言われているくらいの才能を持っていて、なにより冴の両親は二人ともアルファなのだから、冴がアルファなのは当然の結果だった。

でも実際に冴がアルファだとわかると気落ちする。

アルファが結婚をするのはオメガか、もしくはアルファ。ベータと結婚するなんてことはない。もしあったとしてもいつかはオメガが現れてアルファは本能に導かれてそちらに行ってしまう。それがバース性というものなのだ。

そしてわたしの両親は二人ともベータ。わたしがベータなのは火を見るより明らかだった。

「そっか」

だからそれ以外にわたしに答えられる言葉はなかった。冴はわたしの不安がわかったのか「俺の番はお前だけだ」と言ってくれたけど、でも。

番。

その言葉が重く感じた。

でも冴がそう言うなら。わたしは自分がオメガかアルファであることを信じるしかなかった。

「うん、ありがとう」



でもそんな物語みたいなことは起きなくて、それから半年後に行われたわたしのバース性の診断結果にはデカデカとβと書かれていた。こんなに大きく書かなくてもいいじゃんと紙を指で弾いたけど結果は変わらない。

正式な結果が出るとわたしが冴と付き合っていることを知っている両親から「もうやめなさい」とキツく言われた。多分冴の両親からも言われてたんだと思う。冴の両親は絶対的支配階級にあるアルファにしては優しいからきっとオブラートに包んでいたとは思うけど、ベータはアルファの言うことには逆らえない。だからこそ普段優しい両親からの強固な反対は結構こたえた。

「わかってる。冴が帰ってきたらちゃんと別れるから」

せめて直接会って別れることを許してほしいとわたしがめそめそと泣けばさすがに両親は黙った。





冴が初めてスペインから帰ってきたのは17歳。その頃にはもちろんわたしのバース性がベータであることは伝えてあったから、きっと冴から別れ話をされるんだろうと思っていた。もちろん辛いけど、わたしもそれを受け入れるつもりでいた。

でも久々に会った冴は四年前に会った時よりもずっと痩せていて、満足に眠れていない証拠に目の下にくっきりと隈が見えた。そんな冴を戸惑いながらも「おかえり」とわたしの部屋に迎え入れると、冴はわたしをゆっくりと抱きしめて、そして「ただいま」と言う。

未だ天才と言われメディアでも評価され続けているのに、冴はわたしの知らないところで何かに挫折をしていた。わたしの知らない、そしてはじめて見る様子の冴をおそるおそる抱きしめ返すと、冴はゆっくりわたしの身体を離して、そして口づけをする。口づけが深くなっていくとわたしは立っていられなくなって、自然と冴に体を預ける形になる。冴はよくやく唇を離すと「お前のこと今から抱く」と呟いた。

その意味がわかると身体が熱くなって心臓が鳴り始める。

でも、わたしたちはアルファとベータ。しかも今日別れるつもりだった。

「冴っ、あの」
「黙ってろ」

冴はそれ以上何も言わずにわたしをベッドに組み敷いた。ようやく合った暗い翡翠色の目は真っ直ぐにわたしを見つめている。

その瞬間、冴はわたしを求めていて、そしてわたしには冴が必要なんだとはっきりとわかってしまった。

ダメだって頭ではわかってるのになぜだかわたしは無性にこの人と離れるのが身体が引き裂かれるくらいつらいことに感じて、結局最後まで「別れよう」なんて言うことはできなかった。



「来年迎えにくる」
「さえ…」
「準備しておけ」
「でも」
「誰がなんと言おうとお前は俺の番だ」

そう言って冴はわたしのうなじを噛む。まるでアルファが自分のオメガにマーキングするように。自分の番にするように。でもベータのわたしのうなじを噛んでも何の意味もない。確かめるように何度も噛む冴にわたしは無性に寂しくなった。それは冴が無意識にオメガを求めてる証拠だと思ったから。


冴に愛されれば愛されるほど、わたしが冴を好きになれば好きになるほど別れは辛くなる。だってどれだけ気持ちが繋がっててもバース性には逆らえない。それで破局を迎えたカップルは星の数よりも多い。それこそおとぎ話に出てくる運命の番なんてものが現れたら当然ベータのわたしになすすべはないから。

だからこの恋は期限付きのもの。

それを頭に叩き込んでスペインに帰る冴を見送った。つまりわたしは冴の本当の番が現れるまで偽の番でいるという一番辛い道を選んでしまったのだ。




◇◇◇



翌年、わたしが高校を卒業するとともに冴は本当にわたしを迎えにきた。反対するわたしの両親、アルファだからこそベータと結婚することがどれだけ大変かを説く冴の両親を冴は一蹴した。それができるくらい冴のアルファとしての力は強かった。

言葉では冴の手前「元気で」とか「応援してる」と言いながらもその目には心配の色が滲んでいる母に「わたしは大丈夫」と言ったくせに、最後、凛に「お前はそれでいいのか?」と問われた時は一瞬だけ迷ってしまった。

冴と凛はその頃仲違いをしていたから、わたしが一人のときそう問いかけてきた。

「わたしも、わかんない」

こんなこと冴に聞かれたら怒られるのはわかってた。でもその時はわたし一人だったし、それになぜか昔から凛には本音を言えたから、最後にわたしの本音を聞いて欲しかったのかもしれない。

「お母さんたちがわたしのこと思って言ってくれてるのもわかってるし、実際にいつか別れる日が来るんだと思う…。でも」
「なんだ」
「冴と離れると思うとつらくて。馬鹿だよね」
「馬鹿だな」
「最後まではっきり言うね」
「俺が遠慮してどうすんだ」
「うん、ありがと」

結局最後までわたしのことを冴の相手として認めてるのか認めてないのかよくわからなかったけど、凛の、冴に似ているようで違う「馬鹿」になぜか勝手に勇気付けられてわたしはもう一度凛にお礼を告げて、そして冴とともにスペインに渡った。



スペインでの生活は想像以上に辛くて、幸せだった。言葉が通じない、頼れる知り合いはいない、冴は忙しい。その三重苦に加えてアルファとベータのカップルというどこかわたしを憐れむような視線に悩まされたけど、でもずっと離れていた冴と一緒にいられることが何より嬉しかった。

それに冴はオフで二人で過ごせる時は目一杯甘やかしてくれたし、他の男に嫉妬するくらいわたしのことを好きでいてくれた。

まぁお隣のアルファに手を握られたのを見られた時の嫉妬は怖いくらいだったけど。

あの時はわたしが隣人のアルファに転けそうなところを助けてもらっただけだった。冴もそれはわかってたと思うけど、それでもベータのわたしにもわかるくらいの強いアルファのフェロモンでその人を牽制して、気圧されたお隣さんからわたしを無理やり奪った。そしてそのあとわたしをベッドに投げ飛ばして手酷く抱いた。

普段つけている避妊具もせずにわたしに挿入しようとする冴を流石に止めたけど「なんか問題あるか?」とわたしの静止の言葉なんて関係ないと行為を続ける。そして

「俺以外の男がお前に触ったかと思うと反吐が出る」

と吐き捨てるように言ってわたしのうなじを噛みながらわたしが本当に妊娠してもいいとでもいうようにわたしの一番奥で果てた。


そういう時はいつもなんでわたしなのかなって思う。

幼馴染で、たしかにずっと冴の一番近くにいたけど、でもわたしはとびきり美人でもないし、料理がうまいわけでもないし、それにアルファの冴の隣にふさわしいオメガでもアルファでもない。でも理由を聞けばそれは「お前が好き以外に理由がいるか?」と言われるから結局わたしの疑問は解決しないまま、でも今はそれでいいか、と流してしまう。

だってわたしも冴が好きなだけですべてを捨ててここに来たんだし。そんな嫉妬も独占欲もわたしにとっては嬉しいものだったのだ。



こうして冴とスペインに渡って5年。

わたしたちの付き合いはあまりにも順調で、冴がアルファだと思い出すのは周りからの痛い視線を浴びた時と冴にうなじを噛まれた時くらい。

だからわたしは期間限定の偽の番だってことを忘れかけていた。



◇◇◇



その日は前日の雨が嘘のように晴れていて、絶好のお出かけ日和だった。冴の久しぶりのオフだったのと、少し前から体調を崩していたわたしの具合もよくなったから前から行ってみたかったコーヒーとフードメニューが充実してるカフェに行こうと話をしていた。

わたしは目一杯のおしゃれをした。本当はこっそり冴の香水を借りようと思ったけどボトルが見つからなかったから代わりに冴が好きだと言ってた香水をつけて、冴に誕生日に買ってもらった靴を履いて。


「あ、あそこ!」

わたしがはしゃいで走り始めるとすぐに冴に手を取られて「危ねぇだろ」と笑われる。

「え、わたし子供扱い?」
「いや、嫁扱い」

真顔でそんなことを言う冴にわたしは頬を熱くした。まるで付き合い初めの頃のようなやりとりにわたしは胸を躍らせて、そしてもしかして本当にそろそろ。なんて。


ほんと馬鹿だよね。


そのすぐ後だったのだ。冴の運命の番が現れたのは。


「やっと会えた…、わたしの運命の人」

冴はオメガのフェロモンに当てられないよういつも抑制剤を飲んでいたのに、それでも反応したというのはそういうことなんだろう。

わかってたじゃん。わたしと冴がうまくいくわけないって。

わかってたじゃん。冴がわたしのうなじを噛むのはベータのわたしじゃ冴の渇きを癒せないからだって。





おとぎ話の中だけだと思っていた運命の番が現れて街は騒然。しかも相手があの世界的に有名なサッカー選手だとわかると人だかりができてしまって、先ほどまで手を繋いでいたはずのわたしと冴の距離は一瞬にして信じられないくらいに開いた。まるでわたしたちの心の距離みたいに。


わたしは冴に何も告げず人混みに紛れてその場を去った。愛しい人に自分以外の絶対的な存在ができるところなんて見ていられる人がいるわけない。愛しい人が自分を忘れるところなんて見ていられる人がいるわけない。




それに冴にとって邪魔になった偽の番にできることはもう彼の前から消えることしかないのだし。






【恋人の糸師冴が運命の番に出会ってしまったので、私の恋はこれにて終了です】











「りーん!そろそろ起きないと遅刻するよー」

あれから二ヶ月。その日凛は雑誌の取材だと言うのに部屋から全く出てこなかった。昨晩またホラー映画を見て夜更かししたのかもしれない。

わたしがドンドンと扉を叩くと凛は「うるせぇ」と今にも人を殺せそうなくらいのヤバい目つきで出てくる。

「取材あるって言ってなかったっけ」
「…」

わたしの言葉を聞くと凛は思いっきり扉を閉める。おそらくいやいや準備を始めたんだろう。




あの後。

大通りを抜けて路地に入ると急に身体が重くなった。精神的ショックが大きい中雑踏を掻き分けて来たのが祟ったのかもしれない。もう歩くのもしんどくて、目についたホテルに倒れ込むように入った。

浅くなる息に意識が朦朧とするなか、わたしは電話を一本かけた。

もう一人のわたしの大切な幼馴染。


「り、ん…」
「は?ナマエ?どうした!?兄貴は?」


「さえが、運命の番に会った」




凛はそれで全てを察して、数時間かけてわたしのことを迎えに来てくれた、らしい。らしいというのは結局凛にホテルの居場所を伝えた後意識を失ったから何も覚えてないのだ。もし凛に電話できてなかったらあのまま死んでたかもしれないと思うと怖い。

凛はその時わたしを凛の家まで連れていってくれて、それからしばらくの間凛の家にお世話になっている。

正直こちらに来て生活を冴に頼りきりだったから、すぐに働き口を見つけて住むところを探して、というのはなかなか難しい。それで凛がわたしがお金を貯めて日本に帰るなり、フランスで新しい家を見つけるなりするまでの間彼の家に住んでもいいと言ってくれたのだ。持つべきものは普段冷たいのにここぞという時に優しい幼馴染だ。もう弟、と呼べないのは悲しいところではあるけど。


時間的に軽い朝食を食べていくだろうから凛の朝食を作っていると、準備を終えた凛が部屋から出て来た。朝食は何かと覗き見にくるところは昔と変わらないなと思った後、その凛からふわりといつもと違う香りが香って、鼻をスン、と鳴らした。

久しぶりに感じる不思議な感覚。冴と一緒にいたときに感じてたものだ。多分冴がつけていた香水と似た香りがするから彼といたときのことを思い出したのかもしれない。

「凛香水変えた?」
「香水?」
「それ、冴が付けてたのと似てる。兄弟は香水の好みも似るの?」

わたしが目を伏せながら笑うと凛は「はぁ?」と眉を寄せた後、ハッとしたような顔をする。

「凛?」
「…お前、今日は絶対に外に出るな」
「え、なんで?」
「なんでもだ。買い物ももし必要なものがあれば俺が買ってくるし、もし誰か来ても絶対に扉を開けるな」
「なにそれ」
「それと」
「ん?」
「俺は香水なんてしてねぇし、兄貴もしてない」
「え、うそ?でも」

たしかにしてた。凛からはたしかに初めてだけど、冴からはいつも同じいい香りが。でもそういえば冴の香水のボトル、見たことないな。

って、なんで別れた男のことを思い出してるの。自分でちゃんと別れるのが嫌で逃げたくせに未練がましくていやになる。でも冴に似た香りを感じたからかひどく冴が恋しいのはたしかだった。

わたしが首を振って「じゃあ掃除でもしとく」と気を取り直して言えば「大人しくしとけ。寒くて風邪ぶり返されても困るし窓も開けんな」とピシャリと言い放って、そして「今日は早めに帰る」と出ていってしまった。


へんな凛。あんな凛見たことない。それに今日は少し暑いくらいなのに寒いなんて、むしろ凛が風邪なんじゃないの。



結局元気なわたしは暇で暇で仕方がなくて家の掃除を始めた。普段やらないところをやろうと手を出していれば気がつけばお昼過ぎ。早めに帰ると言っていた凛がひょっとしたらそろそろ帰ってくるかもしれない。そろそろ掃除は切り上げて遅めの昼ごはんでも準備しようかと冷蔵庫に手をかけた時だった。




ピンポーン




癖で玄関に向かうと朝感じたあの香りに似た香りがする。凛かと思ったけど、近づけば近づくほどむせかえるほどの、まるで香水の瓶をぶちまけたかのような濃いものへと変わっていく。

浅くなる呼吸を抑えてわたしは扉を開いた。凛はチャイムなんて鳴らすはずがないのに、凛に扉を開けてはいけないと言われていたのに、そんなことを考える余裕はわたしにはなかった。

「り、ん…?早かっ、…」


ドアを開けた瞬間、





「よぉ」





「他の男に尻尾振んのは終わったかよ。俺のオメガ」










ーーーーーーーーーーーーーー






『運命の番?ああ、あれは嘘ですよ嘘。ベータだってお互い生理的に好きな相手とか無理な相手とかあるでしょ?それと同じです。フェロモンの香りが好みかどうか。結局アルファとオメガは発情していればお互いを求めざるをえませんからね。そもそもオメガの数が少なすぎるから、その中で好みのフェロモンをしていたら運命だと思うんでしょうね。もし仮にそれを運命というなら運命の相手は多分世界に5、6人はいるんじゃないでしょうか?

あぁ、でも。少し違うけどこんな話があります。稀に強いアルファ個体は自分のフェロモンをぶつけ続けることで相手を自分だけのオメガにすることができるそうなんです。これはおとぎ話なんかじゃなくてちゃんと科学的にも証明されてることなんですよ。でもそれにはその相手に長時間、継続的に自分のフェロモンを浴びせ続けないといけないんです。すごい執着でしょ?

そう考えると自分で運命を作り出せるアルファはやっぱりすごいし、一人の人間の人生を捻じ曲げるほどの執着には恐怖すら覚えますよね』


とあるバース性研究者のインタビュー記事より抜粋。なお、運命の番の有無に関しては未だ研究段階にあるため当記事が運命の番を否定するものではない。







Title by icca
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