契約結婚した糸師冴が甘すぎるので、落ちる前にお別れする所存です2






「んなくだらねぇとこで運使ったら大事な時に残らねぇだろ」

これはわたしに運の無駄遣いをしちゃいけないと教えてくれたお兄ちゃんのセリフだ。これを教えてもらったのは確か10歳の頃だったから、もう15年も前のことになる。その頃わたしは父の仕事でスペインに住んでいて、お母さんに付いてうちから少し離れたスーパーでお菓子を見ていたら大切にしてたシンデレラのタオルを落としてしまった。どれだけ探しても見つからないそれに途方に暮れていると、「これか?」とわたしにタオルを渡してくれたのがお兄ちゃんだった。

そのお兄ちゃんはとてもかっこよくて、しかもスペインという場所なのに同じ日本人だったから親近感が湧いてしまったから、わたしはお兄ちゃんにいっぱい話しかけた。それは買い物を終えたお母さんが迎えにくるまで続いて、わたしがお母さんに呼ばれるとお兄ちゃんは「もう落とすなよ」とわたしの頭にぽんっと手を置いてそして帰っていった。

お兄ちゃんとはそれから何度かそのスーパーで会った。時にはドリンクコーナー、時にはアイスコーナーにいるお兄ちゃんとはいろんなことを話した。わたしがシンデレラが好きで、でも本当は王子様自身が迎えに来てくれないことが不満なこととか、また友達を一から作らなきゃいけないからもうすぐ日本に帰らなきゃいけないのが不安なこととか。

そんなわたしのとりとめもない話をバカにせずに聞いてくれたのは日本にいる弟を思い出したからみたいで、彼はその弟さんのかわりにたまにアイスやお菓子を買ってくれた。いつからかそのスーパーに行くとわたしはお兄ちゃんを探すようになって、探している間に迷子になるわたしを見つけてくれたのはお兄ちゃんだった。


その運の話を聞いたのはわたしがスペインを立つ一週間前のことで、たまたま日本フェア中のスーパーで売っていた当たり付きの駄菓子を二人で食べてわたしだけ当たりだった時に言われた。

『当たりだ!やった!』
『くだらねぇ運使ったな』
『え、ダメなの?』
『んなくだらねぇとこで運使ったら大事な時に残らねぇだろ』
『え、じゃあ運使っちゃったからお兄ちゃんと結婚できないのかな』
『…お前、俺と結婚したいのか』
『うん!わたし、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい!』
『世界一になる男の嫁だぞ』
『なる!』
『じゃあそれまで運溜めとけ』
『うん!』

お兄ちゃん、元気かな。世界一になったかな。結局なんの世界一になるのか聞いてなかったし、顔も朧げだし、今となっては運の話は負けず嫌いでそう答えてたのかもって思うけど。でも間違いなくわたしの初恋はお兄ちゃんだった。



それで、なんでこんな話を思い出したかっていうと。初恋のお兄ちゃんに教えてあげたかったからだ。


運、使いきると死ぬんだよって。

つまり何が言いたいかと言うと、全部の運使い果たして結婚したわたしの夫が甘すぎて殺されそうなんです。



◇◇◇



わたしが風呂掃除をしているとガラッと音を立ててドアが開かれた。開いたのはこの家の家主、兼わたしの夫・冴さん。

今日は久しぶりの冴さんの完全オフ。休日は海を眺めて過ごすのが好きみたいだけど、冴さん曰く鎌倉の海に敵うものはないらしく、現在スペインはマドリードに住む冴さんは今日も軽いトレーニングの後、家でゆっくり過ごす予定だと聞いていた。その冴さんがここに来たということはおそらくトレーニングを終えてシャワーを浴びにきたんだろう。

一方わたしはというと今日も掃除したり料理したりする日常をすごす予定で、ちょうど風呂掃除を終えたところだったから次は夕食の仕込みに向かうべく冴さんと入れ替わることにした。

「お疲れ様です。今日はもう終わりですか?」
「ああ」

冴さんは端的に答えるとわたしがいるのもお構いなしにシャツを脱ぎ始める。この人は本当にそういうのを気にしないから困る…。

「今!出て行くので!ちょっと待ってください!」

慌てて浴室から飛び出して横を通り過ぎようとするわたしを冴さんは呼び止めた。

「おい」
「な、なんですか!?」

冴さんはわたしの反応を面白がってる節がある。無表情そうに見えて意外とよく動く表情筋をしてるから、あ、わたし意地悪されてる…ってすぐわかってしまうのだ。だから意地でもオーバーリアクションしないように、にっこりと笑って、でも極力冴さんの体を見ないように振り向く。…そしたら。

「っ!」

とんっと冴さんがわたしを通せんぼするように壁に手をつく。俗に言う壁ドンのような体勢に驚いたのに、さらにそこには冴さんのとんでもなく綺麗な顔が目の前にあってわたしの無駄な演技は一瞬で終わった。

「さ、さ、冴さっ」

わたしたちの距離はもう残り数センチ。焦って名を呼ぶ頃にはもう唇か触れるかもしれないと思うくらいだった。だから、あ、またキスされる、と思った。

妻に甘い冴さんはよくわからないところでキスをしてくる。キッチンで洗い物をしてる時急にわたしの頭をぐいっと自分の方に向かせて口づけしてきたり、朝目が覚めて先に起きてた冴さんに「おはようございます」と挨拶をしたら返事の代わりにキスされたり。

そんなんだから冴さんにまた変なスイッチが入ったのかもしれないと目をギュッと瞑って待ったけど、いつまで経ってもわたしの唇に何も触れることはなかった。

あ、あれ…?

恐る恐る目を開くと冴さんはわたしの後ろにある棚からタオルを取り出していて、そしてそれでわたしの頭ををまるでお風呂から出たばかりの犬のようにわっしゃわしゃと拭いた。

「わっ!」
「髪くらい拭いてから行け」

そういえば掃除中にシャワーの水がかかったんだった。冴さんが服を脱ぎ出したからすっかり忘れてたけど、確かにわたしの髪は雫がぽたりと垂れるくらい濡れている。

………その気遣い、嬉しい。けどさ、わざわざ壁ドンしたり顔をそこまで近付ける必要、あった?

なんだかもやもやしながら冴さんを見上げると、彼の表情は何期待してんだとでもいいたげのもので、わたしはそれにカチンときた。

「ありがとうございましたっ!」

ここ最近こんな感じでわたしを翻弄してくる夫についに我慢の限界が来て、なげやりなお礼をしながら風呂場から出て行こうとすれば、冴さんはそんなわたしの手を取って壁に縫い付けるように押さえつけ、そしてそのままわたしの唇に自分のそれを寄せた。

一瞬触れただけなのにわたしの心臓はどくんっと跳ねる。そんなわたしを冴さんは翡翠色の瞳を薄く開いて見つめた。

「してほしいならそう言え」
「っ!」

冴さんは本当に意地悪だ。最初からする気だったくせにこうしてわたしに求めさせるみたいにしてキスをする。

わたしたちの唇はまだ触れるか触れないかくらいの近さで、本当は反抗したいのにその距離にわたしはしどろもどろ。結局小さく「ちがいます」と言うことしかできなくて、それは「誘ってきたくせによく言うな」と一蹴されてすぐに二度目の口づけが始まる。

嫌になる程うまい冴さんの口づけが深くなっていくとわたしの頭はぼうっと溶ける。するとダメ、早くやめなきゃという気持ちはどこかに投げ捨てられてしまって、気がつけば冴さんの「口開けろ」という言葉に素直に従う自分がいる。絡められた冴さんの分厚い舌にたまらず漏れた自分の声で理性が戻るまでわたしは冴さんのされるがままで、そこでようやく冴さんの手がわたしの服の中に伸びていることに気がついた。

「!!まっ、て!」
「あ?」
「こ、こういうことは無しって言ってるじゃないですか!」

渾身の力で冴さんを押し退けたけど、もちろんびくともしない。でも一応話を聞くつもりはあるらしく冴さんはぴたりと手を止めた。

「こういうことってなんだ」
「だから、今みたいな…」
「わかんねぇな。ちゃんと言え」

わかってるくせに!

「だから!その、えっ……ちなことです…」

いい歳して何こんなこと恥ずかしがってるのって思う。でも相手は糸師冴。わたしがこんなポンコツになるのも仕方がないのだ。それに忘れよう忘れようと思っても忘れられないあの夜のことがどうしても脳裏によぎる。結果わたしの頬はどんどん熱くなっていって、恥ずかしくて手で顔を押さえれば冴さんはそれを手で避けて顔を覗き込んでくるからさらに顔に熱が集まる。

でもどうせまた「そんなことで顔赤くすんな」ってバカにしたように言われるんだ。それがわかってるから「ほんと、やめてください…!」と睨みつけると、冴さんはなぜかイラついたように顔を歪めた。

「それで男が止めるとか思ってんのか?」
「思ってますけど!」
「なら本物のバカだな」
「っ冴さんはばかばか言い過ぎです!」
「バカにバカって言って何が悪い。それにンな顔してたら俺に抱かれてた時のこと思い出してますって言ってるようなもんだってわかんねぇのか」
「ち、違いますっ!覚えてないって言ってるじゃないですかっ!」

わたしの言葉を聞くと冴さんはわたしの服の中にもう一度するりと手を忍ばせて、腰の辺りをなぞるようにつうっと指先で撫でた。そこは冴さんに見つけられたわたしの弱いところで、あの日のわたしはそこを撫でられたり舐められたりするたびに体を跳ねさせて声を上げていた。だから今日は絶対に声を出すもんかと唇を噛むと冴さんは手を止めてそんなわたしを鼻で笑った。

「はいはい」
「っ!」

当たり前に嘘を見抜かれたわたしはついに叫んだ。

「冴さんのバカっ!!」

そして逃げるように風呂場から脱出した。行き先は寝室。濡れた髪もそのままにベッドにダイブして枕に顔を埋めてもごもごと叫んだ。

わたしのこと好きって言ってくれないくせにこんなことばっかりして振り回さないでよ!!

そう言いたくっても言う相手は今頃平然とした顔でシャワーを浴びてるし、そもそもそれを声に出して言う勇気はない。

そういうくせに結局甘すぎる夫に翻弄されたわたしの心臓の鼓動はとんでもなく早鐘を打っていて、一周回って心停止するかと思った。


死因:夫の甘さ


なんて恥ずかしくてもう一回死にかねないから、それだけは回避したい。



◇◇◇



あの夜のことはもう一ヶ月前にさかのぼる。

「まだ別れられると思ってんのか?」

しばらく冴さんの言ってることが理解できなくてわたしは「へ?」と頭の上に?を浮かべた。冴さんの瞳はいつもみたいにわたしをバカにするようなものでも、甘やかす時の優しいものでもなくて、だからこそ少しだけ怖かった。

それでも、それなら別れませんってなるくらいなら初めから言わない。

「で、でも契約結婚って普通契約が終われば別れるのが普通ですよね?少なくともわたしはそのつもりでしたし…。それにお互い好きじゃないのにこんなことになっちゃったらまるでセフレで」
「あ゛?」
「ひっ」

それは今まで聞いた「あ?」の中で一番低い声だった。

やばい、怒らせた。

謝らなきゃと口を開きかけると冴さんは「……なら今からセフレとして抱くか?」とわたしを冷たい視線で見下ろす。

「そうしたらそんなバカなこと言えなくなるだろ」

わたしが思わずシーツをぎゅっと握りしめると、冴さんはその上からわたしの手を強く握る。痛いくらいのそれに、わたしがいかに空気を読んでない発言をしたのか思い知らされた。

冴さんはずっとわたしを「妻」として甘やかしてくれてた。昨日の夜だって、それに今朝だってそう。それなのにセフレだなんて言って…。

「ごめん、なさい…」

でもわたしもいっぱいいっぱいだった。
冴さんのこと好きになりそうなところでこんなことになっちゃって、それに加えて冴さんの「別れられると思ってんのか」なんていう言葉に、もしかしてもしかする?なんて思い始めちゃって。だからセフレだって思えば勘違いせずにすむかなって思って…。

わたしの気まずい顔を見て冴さんは手の力を緩め、そして呆れたように一つため息をついた。

「そもそも俺たち以外の誰もこれが契約結婚だなんて思ってねぇのにセックスの一つや二つで今更ぐだぐだ言うな」
「それは、だって冴さんが言わない方が良いって言ったからそうしたのに」
「当たり前だろ。俺はお前を逃すつもりなんてない」
「………それって、どういう…」
「仕事はない。あの見合いも俺だからなしになったが、別れたことが知られればまた戻ってくるかもしれない。それで本気で別れられるって思ってんのか?」
「でも」
「それにお前だってもう俺から離れられねぇだろ」

冴さんにはわたしの気持ちなんてとっくにお見通しだった。でも、それなら冴さんはわたしが冴さんのことが好きでもそばに置いてくれるってことで。それって…。

もうダメだ。わたしの勘違いはマックスまで行ってしまった。契約結婚を申し出てくれた時、他の男と結婚させたくないって言ったり、冴さんのお嫁さんになったわたしを甘やかしたり。それに加えて別れないときたらそんなの期待しない方がおかしい。

冴さんって、わたしのことが好き、なの?

「あの…違ったら笑ってください…」
「なんだ」
「冴さん、わたしのこと好き、なんですか…?」

たったこれだけなのに聞いた後口の中がカラッカラになるくらい緊張した。受験の合格発表のときよりもずっと心臓がバクバク鳴る。

そんなわたしを冴さんはいつもの無表情で見返して、でもなぜか返事よりも先に急に鼻をむぎゅっと摘んできた。

「むぐっ!?」

冴さんの行動の意味がわからなくて今度はわたしが眉を顰めてた後、冴さんの答えに目が点になった。

「さぁな」


………へ?


さ、さぁな……?さぁなって、なに……?


「あの、それってどういう…?」
「言うつもりはねぇ」
「ええっ!?」
「まぁお前が好きだって縋り付いてきたら考えるかもな」
「…」

この場面でその答え、ある…?こうやって言われて、わたしの性格上「好き」だなんて言うはずがないことは冴さんは絶対にわかってる。っていうかこれで「好きですっ」って言う女を冴さんが好きなはずがない。つまり冴さんはこの質問に答える気がない。

「言いませんよ!!」

やっぱりわたしの答えを予想していた冴さんはそれを軽く流してベッドから降りた。そしてこれで話は終わりと思いきや部屋を出て行く途中で、最後のとんでもない爆弾を投げつけてきた。

「言い忘れてたが、昨日お前と出かけたのはマスコミに撮られてる」
「………は?」

マスコミに…?撮られてる…?

混乱するわたしを置いてさっさと行ってしまおうとする冴さんをわたしは呼び止めた。

「ちょっっっと待ってください!どういうことですか!?」
「そのまんまの意味に決まってるだろ。検索でもしてみろ」

うそ…。え、本当に!?

慌てて枕元のチェストに置いてあったスマホに手を伸ばすと友人からの大量の連絡。一つ開けてみれば『糸師冴の熱愛の相手ってもしかしてナマエ?なんかめちゃくちゃ似てるんだけど。スペインにいるし』と書いてあって自分の顔から血の気が引いていくのがわかった。

「だから別れられねぇって言ってんだろ」

またしても届くメールに震えていると、冴さんはさっさと部屋を出ていってしまった。

ちなみにわたしと冴さんが買い物をしている写真はバッチリ撮られていて、その写真だけを見れば買い物中にいちゃつくバカップルだった。今まで熱愛報道されたことのない糸師冴のはじめての報道にリアコは死んだし、そのあと冴さんが結婚したことを正式に報告したからもう爆散してた。

まさか冴さん、こうなるってわかってて変装しなかったわけじゃないよね…?



◇◇◇



それからしばらくはお互いがどう思ってるのかわからないままのこう着状態が続いた。何度も何度も「冴さん、わたしのこと好きだよね!?」って思うくらい甘いし、なんなら好きところか執着されてる…?って思うような重い発言が飛び交うけど。

でも冴さんはわたしのことを好きだなんて一度も言わない。わたしもわたしで冴さんみたいな人に「好き」とも言われてないのに「好き」と言えるほど自分自信がないし、ああ言われて自分から好きって言えるほど素直な性格はしてない。

…まあこれは全部言い訳で、その実冴さんに「うぜぇ」って言われるのが怖いだけなんだけど。

だからこのこう着状態は「別れない」と言われた日から三ヶ月後の、スペインリーグの年間最優秀選手を発表する授賞式の日まで続いてしまった。


「これ結べ」
「…」

そう言って冴さんはわたしにネクタイをポイと渡してきた。珍しくスーツを着て出かける冴さんにネクタイを結ぶよう言われたんだけど、そんなのやったことがないわたしはうまくできない。マネージャーのジローランさんが迎えにくるまで何ともやったけどどうにも不恰好。

「不甲斐ないです…。すみませんが自分でやってもらっていいですか?」

そうわたしがネクタイを解こうとすると冴さんにその手を止められた。

「いや、いい」
「いい、とは?」
「このままでいい」

冴さんはそう言うとそのまま「行ってくる」とわたしの頭をぽんぽんして出て行ってしまった。

………このままでいい、とは?

え……待って。まさかそれで授賞式行くんじゃないよね!?


慌てて冴さんを追いかけようとしたけど、二人は足早にマンションのエレベーターに乗ってしまって追いつくことはできなかった。『ちゃんと直してくださいね!』と連絡してもスルー。わたしはテレビで放映されるその授賞式が始まるまで正直気が気じゃなかった。

そしていざ始まってみれば、テレビの向こうには少し整えられていたけどわたしが結んだままのネクタイをしている冴さん。仕立てのいいスーツにセットされた髪型が台無しである。しかも最優秀選手に選ばれたのがなんと冴さんでわたしの残念なネクタイの結び目がテレビの大画面に晒されてわたしは顔を覆った。

それだけでも頭が痛くてテレビを消そうかと思ったのに、冴さんにインタビューをしていた人が、
「そういえば糸師選手は少し前に結婚を発表されていました。おめでとうございます。きっとこの最優秀選手になるにあたって奥様の存在も大きかったと思いますが、新婚生活はいかがですか?」
なんて聞き出すから、「もうやめてーー!」と誰もいない部屋の中で叫んだ。

なにせこっちはネクタイも結べない女なのだ。そんなわけがない。

「ネクタイもろくに結べない女ですけど」

そして冴さんも半泣きのわたしに追い討ちをかけることをいつもの通り無愛想に答えるから、一周回って絶対に後で怒ろうと決めたけど、その後の

「あいつ以上の女はいないので。まあ、幸せっすね」

の一言で全て飛んでいった。


あとから冷静に考えれば、相当うまい返しだった。だってさっきから画面の端で冴さんに熱視線を送る国民的女優さんがいて、その人が顔を顰めたから。冴さんはそのめんどくさい恋愛の矢印を一瞬で断ち切った。

でもわたしはそれどころじゃなくて、その時の冴さんの優しい表情に、まるで直接「好きだ」と言われたかのような気持ちになってしまったのだ。

これまでだって多分わたしは冴さんに惚れてたと思うけど、でも完全に落ちたのはこの時だった。


ああ、どうしよう。好きになっちゃった。



帰ってきた冴さんはああいう場が好きじゃなかったのかどんな顔をしたらいいのかわからないわたしを優しく抱き寄せて、そして肩口に顔を埋めた。

「疲れた」
「さ、さえさっ」
「夫を癒すのは嫁の役目だろ?」
「う…お疲れ様、です」
「ん」

さっきの流れからのこれはしんどい。

でも甘えてくる冴さんが可愛すぎて、気がついたらわたしはそのツンツンとした髪を恐る恐る撫でていた。すると冴さんはゆっくりと顔を上げて、わたしを見つめる。わたしがゆっくり瞼を閉じると、冴さんはわたしに優しくキスをした。本当は抵抗しようと思った。でもなんかできなくて。

もう両手で数えきれないキスをしてきたけど、わたしが抵抗しなかったのはこれが初めてだった。

口づけが深くなる前に冴さんは唇を離して、ジャケットを脱いだ後彼の首元を締めているネクタイを緩める。その姿を余韻でぽわんとしながら見つめていると、冴さんが「見過ぎだバカ」とふわりと笑った。


その瞬間、わたしの心臓は今までになく痛いくらいにぎゅうううってした。音が鳴るんじゃないかと思うくらいぎゅぅぅって。


それで、あ、わたしついに冴さんに殺される日が来たんだって思った。何度も、何度も思ったことだったけど、でも好きを自覚してからはさらに違う。

冴さんが甘すぎて、死ぬ。

その日が現実に来てしまったのだ。


この後夕食までソファに並んで座って冴さんの好きな映画を見ることになった。授賞式で疲れていた冴さんは「ちょっと寝かせろ」とわたしの肩にこてんと頭を乗せる。映画の内容はちっとも頭に入ってこなくて、わたしは心臓をばくばくさせながら、ただただ逃げたい気持ちになっていた。

生存本能だったのかもしれない。

別れられない、お金はない、実家には戻れない。

わかってるけど、でも、このままじゃ。

だからわたしは。



◇◇◇



冷静になる時間が欲しかっただけ。決して逃げたわけではない。

「すみませーん!〇〇新聞ですが」
「…新聞は結構です」

鎌倉に着いて五日。わたしを訪ねてくるのは営業ばかり。今日は新聞屋さんの営業を断って玄関のドアを閉めた後、ルームウェアにぼさぼさの髪の自分が鏡に映ってさすがに着替えるかとトランクから服を引っ張り出した。鏡で見たわたしの顔はそれはそれは酷いもので、とても見てられないからついでに化粧もすることにした。


授賞式の翌日。わたしは冴さんに「しばらく日本に帰ってもいいですか?」と聞いた。もちろん理由を聞かれたけどそれらしい理由を並べれば冴さんは少しの無言の後、「わかった」と言ってくれた。期限は一週間。

ちなみにわたしが鎌倉にいる理由はここが実家の場所だからでも、冴さんの実家があるからでもない。実はお母さんにしばらく日本に帰る旨を伝えた時に、わたしがお父さんに会いたくないのをわかってるから『鎌倉に知り合いの別荘があるんだけど、掃除してくれれば無料で貸してくれるって言ってるからそこに行く?』と言ってくれたのだ。

冴さんのご両親を騙しての結婚だったから、なんとなく鎌倉に近づくのがはばかられたけど、結局お母さんの『鎌倉はいいところだから観光がてら行ってみたら?』という一言でわたしはそこに行くことに決めた。

一週間冴さんと離れればきっと冷静になって、また前みたいに冴さんの甘さを受け流せる。むしろいいアイディアが浮かんで冴さんと別れられるかも、なんて。

そう思っていたのにおかしい。

どうしよう…。もうすぐ帰らなきゃいけないのに…。わたしぜんっぜん冷静になれてない。

冷静どころか時が経てば経つほどなぜか今までの冴さんの甘いエピソードが頭を駆け巡ってしまって一人で悶えて転げ回る始末。

帰るの、延期しようかな…。別に後一週間くらいなら大丈夫だよね…。この別荘はいつまでもいていいって言われてるし、そもそも冴さんに本当に必要とされてるかわかんないわけだし。

問題は冴さんになんて連絡するか。何度も文章を打っては消してを繰り返していると、本日二度目のチャイムが鳴る。

今度は何の営業…?

ケータイを机に置いて扉を開けるとまず暗めの赤色の髪が目に入った。次に彼に似合うシンプルな服。あれはわたしと一緒に買い物に行った時に買ってたもの。あの時はファンに囲まれたのに、それを無視してわたしの手を取って歩きはじめたものだからいたたまれなかったっけ。そしていつもの申し訳程度のサングラス。やっぱり自分が有名人だってわかってない出立ちで門の外に立ってるのは間違いなくわたしの夫だった。


うそ、なんで…?


たしか明日まで仕事が詰まってると聞いていた。でも実際に冴さんはゆっくりと門をくぐり抜けてわたしの元まで歩いてきて、わたしを見下ろしている。そして。

「迎えにきたぞ、シンデレラ」

想像だにしなかった事態にわたしの足はまるで地面に縫い付けられたように動かないし、わたしの口はぽかんと開いて塞がらない。

「冴、さん?」
「なんだ」
「どうしてここに…」
「迎え意外になにがあんだ。さっき言っただろ」
「なんで、ですか?」

「それくらい自分で考えろ」って言われちゃうと思ったけど、聞かずにはいられなかった。でも冴さんはいつもわたしの想像を裏切る。

「嫁に会いたくて迎えに来んのは別に普通のことだろ」

そしてわたしの頬にかかる髪を優しくよけて耳にかけた。

「会いたかった」

わたしのこの一週間は何の意味もなかった。元々冴さんのこと考えすぎて悶々としちゃってたけど、それ以上に冴さんのたった六文字でわたしの心臓は神様に握りつぶされたのかって思うくらいぎゅうううってしたから。

だからわたしの口から出たのは

「死んじゃう…」

だけで、冴さんはそれに薄く笑って、そしていつもみたいに意地悪そうにこう言うのだ。


「バカか?俺がお前を死なせるワケねぇだろ」



◇◇◇



まだ時間帯はそんなに遅くなかった。この辺りに詳しい冴さんにこの辺少し案内してやると言われて、わたしたちは鎌倉の街を何となしに歩きはじめた。冴さんが小さい頃に練習していたサッカー場を見て、冴さんがよく凛さんにアイスを買ってあげていたという駄菓子屋さんで棒アイスを2本買って、そしてここからの海の眺めが一番と言う堤防まで行ってそこでアイスの封を開けた。

「おばさん、びっくりしてましたね」
「まあ俺があの店行ったのも久しぶりだからな」
「冴さんは昔から有名人だったんですね。わたし小さい頃スペインにいたから日本のニュースあんまり知らなくて。まあその頃まだ小さかったって言うのもありますけど」

そう言いながら冴さんの方を見たらもうほとんどアイスを食べ終えている。わたしも溶ける前に食べようとそれ以上は何も言わずにアイスを食べ切ると。

「あ」

食べたアイスの棒には「あたり」の文字。

「わたし、冴さんと結婚して一生分の運使っちゃったのでもう二度とくじ当たったりしないんだろうなって思ってました」

冴さんにあたりの文字を見せると、冴さんは「くだらねぇ運使ったな」と言う。

「へ…?」
「なんだ」
「…いえ」

お兄ちゃんと同じこと言う人、初めて見た。シンデレラといい、冴さんはいちいちわたしの好きなところをついてくるからずるい。あの仏頂面でシンデレラ。思わずふふっと笑みが溢れる。

「冴さんもシンデレラなんて言うんですね。冴さんみたいにかっこいい人に言われるとドキドキしちゃいます」

なんかもうわたしが冴さんを好きになるのはどうしようもないことだったのかもなんて少女漫画みたいなことを思っていたら、冴さんに鼻で笑われた。

「お前は本当にバカだな」
「なっ、なんでですか!?」
「王子はそう言って迎えに来るんだろ?」
「へ?」


わたし、そんなこと冴さんに言ってない。だってわたしがその話をしたのはたった一人なのだから。


え?

いや、でも、まさか。

そんなことない、よね?


「あの、今度こそ違ったら笑い飛ばしてくださいね」
「なんだ」
「もしかして冴さんって……お兄、ちゃん?」

わたしの言葉を聞いて冴さんは呆れたように、でも優しく微笑んだ。

「ようやく思い出したかよ、バカ女」

そして冴さんはわたしが恐れ多くてずっと付けられなかった冴さんの指に光るものとお揃いのそれをポケットから取り出して指で弄ぶ。

「それで、ガラスの靴はいつ受け取んだ」

驚きすぎて固まるわたしの手を取って、「二度目はねぇぞ」と左手の薬指にそれをはめた。わたしの指にぴったりのガラスの靴が指に光るのを見てじわりと涙が浮かんできた。


わたしの都合のいい頭が涙で霞む冴さんと朧げなお兄ちゃんの姿を今更ながら重ね合わせて、ようやく二人が同じ人なのだと認識する。


『お兄ちゃん、世界一になったら王子様みたいに迎えに来てね』
『ガラスの靴持っていってやる』
『約束ね』
『ああ』



「あの、わた、わたし、お兄ちゃんの顔、思い出せなくて」
「ん」
「ずっと、冴さんがわたしのこと好きになる理由がないから、だから勘違いしちゃダメだって思ってて、好きになっちゃダメだって思ってて」
「知ってる」
「な、な、」
「なんだ」
「な、なんで、言ってくれなかったんですかぁ」

わたしが情けなくボロボロと涙を流すと冴さんはわたしの頬に伝う涙を優しく拭う。

「別に忘れられたんならもう一度惚れさせりゃいいだけの話だろ」

もう、ほんと。なんなのこの人。

「まあお前が思ったより強情だったのは計算外だったけどな。さっさと好きって言え」
「だって、冴さんみたいな人に好きなんて言えません」
「だからあんなわかりやすく甘やかしただろうが。好きな女以外のやつにあんな風にするバカがどこにいる」

それは、そうだけど。

「…でも、言って欲しかったです」

すると冴さんは舌をべっと出した。それは昔お兄ちゃんがよくやっていた癖だった。

「なんで俺を忘れたやつに俺から好きだって言わなきゃなんねぇんだ」

やっぱりお兄ちゃんって負けず嫌いというか。でも忘れてた申し訳なさでわたしの背がまるで猫のように丸まっていく。

「それは、その、ごめんなさい…」

すると冴さんがゆっくりとわたしの元までやってきて俯いたわたしの顔を指でクイと上げた。

「まあでも思い出したなら言ってやる」
「さ、さえさ」
「愛してる。お前のこと、一生逃さねぇからそのつもりでいろ」
「っ!」

なんだか涙が溢れてきて、ぐずぐずと泣いてたら「おい、人にだけ言わせるつもりか」と詰られた。相変わらずスパルタな冴さんになんとか涙を拭って「わ、わたしも大好きですっお嫁さんにしてくださいっ」と言えばようやく満足そうに「おせぇ」と言った。




ちなみにお母さんは冴さんが初恋のお兄ちゃんであることを知ってて、それを冴さんに内緒にしてほしいと言われたとか、今回もこの鎌倉の別荘は冴さんが借りたもので、お母さんにわたしが日本に帰るって言ったらここを勧めるように伝えてたとか、お母さんが「少女漫画みたいできゅんきゅんする!」なんて年甲斐もなくはしゃいでたこととかは、それから二日後に知ることになる。一番の戦犯はまさかの母(わたしがシンデレラ好きで夢見がちなのは絶対母からの遺伝)だった。


で、実家の母に会いに行くまでの二日間はというと。

「あ、ちょ、な、なんですか!?」
「俺は気が長い方じゃない。さんざん待たされたんだから今日は寝れねぇと思え」


…え?



起きた時のどはカラカラ。咳き込むように起きると上半身裸の冴さんがわたしにミネラルウォーターを渡してきた。やっぱり直視できないくらいエロい体をしてるし、情事中のことを思い出しちゃうしで目を背けると、いつか言われた台詞を再び言われる。

「これくらいで顔を赤くするな」
「……かっこいい冴さんがいけないと思います」

いつもみたいに軽く流すかと思いきや冴さんはまた優しく笑ってこう言うのだ。

「世界で一番好きな女の前でかっこよくいたいのは当たり前だろうが。こうしたらお前はもっと俺のこと好きになって離れられなくなるだろ」
「……」
「なんだ」
「………冴さんがそんなんだからわたし心臓がもたなくて死んじゃうんですけど」

冴さんはそんなわたしの目尻にひとつキスを落として、そして。

「バーカ。だから俺がお前を殺すかよ」

この時の冴さんの声がやたらと甘くて、心臓が高鳴りすぎて死ぬかと思ったからやっぱりわたしを殺すのは冴さんなんだと思う。




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