契約結婚した糸師冴が甘すぎるので、落ちる前にお別れする所存です







人間巡ってくる幸運の数は決まってると聞いたことがある。だから無駄なところで運は使っちゃいけない。なのにわたしは思わぬところで宝くじが当たるよりすごい運を使っちゃったから、もうこの先二度といいことはないかもしれない。


大学在学中にスペインに留学して三年。そのまま就職して二年。そして働いていた会社が倒産して、知り合いのツテで家事代行の仕事を始めて半年。まだ日本にいた期間には及ばないけどもう人間関係はできあがってるし、なによりしがらみなく生きられるのが最高でもうこのままここで一生暮らせたらな、と思っていた矢先久々に父親から来た連絡がこれだ。

『お前に見合いの話が来た。日本に帰ってこい』

これが嫌でスペインに逃げたんですけど。

父は日本でまあまあ名の知られてる会社の専務だかなんだかをやっている。どうやら会社の社長に気に入られてのしあがったらしいんだけど、その社長から「うちの息子とお前の娘結婚させるぞ」と言われているのを大学二年の時に聞いた。

今時お見合いで結婚なんていや。やっぱり結婚は心臓がドキドキするような恋に落ちた人としたい。

そう思ってそれから逃げるためにスペインに留学して、話が立ち消えるのを待っていたけどどうやらまだ死んでないどころか本格的に動き出してしまったらしい。しかもお相手も了承済みらしいから結構状況は悪い。

「はぁ」

憂鬱すぎる。本当はダメだけど仕事中でも思い出してしまって自然と何度目かのため息が漏れた。そんなわたしを見て、わたしが家事代行をする家の家主がリビングで見ていたサッカーの試合を一時停止して「辛気臭ぇな」と呟いた。

「え?」
「ため息がうるさい」

そう眉を顰めてこちらを見ている家主の名は糸師冴という。一文字に結ばれた薄い唇も、長い下まつ毛に彩られた翡翠色の瞳も、小豆色のツンツンした髪も全てが完璧で、それでサッカー界で日本の至宝なんて言われる天才MFとこれば、そんなの世の女性が放っておくはずがない男の人。

口は多少、いやかなり悪いし、自己中心的な人だけど、性格が捻じ曲がってるわけではないし、何よりめちゃくちゃ好みの顔をしているから、ついわたしのお見合い相手がこんな人だったらなぁ、なんて考えても仕方のないことを考えてしまって頭を振った。

「すみません…ちょっとプライベートがごたついてて」
「ため息つくと幸せが逃げるとか言ってたのはお前だろ」
「ほんとそうですよね。すみません。ちゃんと仕事します」

掃除に戻ろうと再び手を動かし始めると糸師さんがソファから立ち上がってこちらに近づいてきた。

「糸師さん?どうしました?」
「何がごたついてんだ」
「え?」

糸師さんがそんなふうにわたしに興味を持つなんて珍しい。驚いてしばらくぽかんとしていると、ほら聞いてやるからさっさと話せと目で圧をかけてきて思わず笑ってしまった。糸師さんってほんと上からなんだよなぁ。でも初めて会った時からすればこうして話を聞こうとしてくれるだけでもすごいことだから、わたしはこの糸師さんの優しさに甘えることにした。

「実はお見合いすることになって」
「今時そんなのあるのか」
「ですよね。父が働く会社の社長の息子さんとなんですけどね」
「嫌ならさっさと断れ」
「それができたらため息ついてませんよ。なにせ相手は社長の息子ですからそれでひょっとしてうちの親がクビになるかもって考えるとなかなか…。こういう時に助けてくれる彼氏の一人や二人でもいればよかったんですけどね」
「その彼氏とやらがいてなくなるもんでもねぇだろ」
「そうですけど。ほら、彼氏に俺と結婚するか?みたいに言ってもらえたらひょっとしたら先約あるのでって断れるかもしれないじゃないですか」

ま、でも現実はいないんですけどね?話を聞いてもらえたらスッキリするかと思ったけど、根本が解決してないんだからスッキリするはずもないし、むしろ虚しい妄想を聞かせてしまって恥ずかしい。

こうなったら相手に嫌われる方法でも探そ…なんてあまり堅実的ではないことを考えながら頭ひとつ分上の糸師さんに目を向けると彼がこちらを見つめていることに気がついた。

言いたいことを何でも言う彼が何も言わず見つめてくるのは珍しい。今日は珍しいことだらけだな。一体どうしたんだろうと気になって首を傾げた、その時だった。

「なら俺と結婚するか?」

なら、俺と、結婚、するか……?

あまりにいつものトーンと同じだからひょっとしたらわたしの聞き間違いじゃないかと思った。でも何度心の中で反復しても意味は一つしかない。

「………………はい?」

言っておくがわたしと糸師さんの間には雇用関係のみ存在する。つまり、結婚のけの字も出る間柄じゃない。だからこの流れで出てきた「結婚するか?」の意味がわからなさすぎて「はい?」のあとも口をぽかんと開けて糸師さんを見つめることしかできなかった。

「いつまでアホ面してんだ」
「え、いや、普通の人間ならこの顔しかできないと思いますが?えーと、どういうことですか?」
「お前は見合いを断る口実がほしい。俺はめんどくせぇ女を黙らせるのにちょうどそういう相手を探してた。だから俺らが結婚すれば問題は解決する」
「ま、待ってください。なんかよく状況が飲み込めてなくて…。それって契約結婚ってことですか?」
「利害の一致で結婚するのをそう言うならそうなんだろうな」

少し前に糸師さんの家に押しかけてきた女の人がいた。その人はわたしを見て彼女と勘違いしたらしくなんか怒っていたけど糸師さんは聞いたこともない冷たい声で「うぜぇ、二度と来んな」って追い返してたからわたしもその女の人も固まったっけ。その人が恋人だったのか、セフレだったのか、それともなんでもない人だったのかわたしには怖くて聞けないけど、まあこれだけのスペックの人だからどんな関係の女の人がいてもそうだよねって納得しちゃうし、相手が本気になっちゃって糸師さんがめんどくさくなるのもまあそういうものなんだろうなって思う。

合理的な糸師さんらしいといえばらしいかもしれないけど、でもやっぱりそれでわたしと糸師さんが結婚っていうのは突拍子もなさすぎる。

「お前の父親の会社は俺のスポンサーだったな」
「え、そうなんですか?」
「向こうから打診があった契約だから向こうも俺相手なら文句は言わねぇだろ」

そりゃ世界の糸師冴様だし誰も文句なんて言えないだろうけど…。

大好きなドラマで題材にされていた契約結婚。でもそれはドラマだから成り立つ話で。しかも相手はあの糸師さん。そうやすやすと「それじゃあ」なんで言える相手じゃない。

「いや、でも、さすがに…」
「ウダウダ言ってる場合か?そもそも最近ほぼうちにいるんだから後は夜ここにいるだけだろ。あとは苗字が糸師になるだけ」
「だけって…」

それがめちゃくちゃ重要な気がするんですが…。

「あの…それじゃあ彼氏のフリだけしてもらうとかって…」
「それでお前の親が納得すればな。話が進んでるからお前も彼氏にプロポーズされたいとか言ったんだろ」
「うっそれは、そうですけど。でも」
「でももクソもねぇ。俺もお前がいなくなるのは困る」
「…え?」

涙が出るかと思った。まさか糸師さんにそんなこと言われる日がくるなんて思ってもみなかった。

それにすっかり舞い上がってしまったわたしはもう一度「で、結婚するか?」と聞かれて、気がつけば「よろしくお願いします」と答えていた。



◇◇◇



わたしが糸師さんの家で家事代行を始めたのは働いていた会社が倒産して、さらに付き合ってた彼氏に有り金持ち逃げされるという人生どん底のときに隣人の糸師さんのマネージャー、ジローランさんに声をかけてもらったのがきっかけだった。

「あれ、ナマエちゃん。こんな時間に珍しいね。会社は?」
「あ、こんにちは。ジローランさんこそ珍しいですね」
「いやーちょっと困ったことになってね」
「どうされたんですか?」
「実はぼくがマネージャーしてる子が一日でハウスキーパーをクビにするから困っててね」
「一日…それはすごいですね…」
「あんまりにも変えるからもうどうしたらいいのかわからなくて。頼む先もうないよ」

ジローランさんは、まあ彼ばっかりが悪いんじゃないけどね、と苦笑いをしながら頬をかいた。

「大変ですね…」
「まあね。それで、ナマエちゃんはどうしたの?」
「えーと、それがですね…」

わたしが自分の置かれてる状況を簡単に説明するとジローランさんはハの字の眉をさらに下げた。

「え!?それやばくない!?」

今度はわたしが苦笑いをする番だった。

「ですよね。多分今月でここ引っ越すことになるかと思います。ほんと…仕事ってなかなか見つからないものですね」

もう一度自分の立たされた状況を把握してやめようと思ったため息が漏れるとジローランさんが動きをピタッと止めて、そして「はっ!」と何かを思いついたような顔をした。

「よかったら僕が見てる子の家事代行してくれないかい!?」
「…え?」
「確か家事が得意だって聞いし、君から差し入れでもらったご飯すごく美味しかったし」
「いや、人並みですよ。それにジローランさんがマネージャーしてる人ってなんかすごい人って聞いたんですけど。わたしみたいな素人じゃ一日どころか一時間で追い返されません?」
「まあ確かにあんまり大っぴらに言える子じゃないから彼の了承があってからじゃないと誰かは言えないんだけどね。でも君なら身元もしっかりしてるし、変な気起こすとかも心配いらなさそうだしね。むしろ今はプロとかよりもそっちの方が重要っていうか」
「……変な気?」

何その心配。今までのハウスキーパーさんが変な気起こすような相手って一体誰?芸能人?超VIP?一周回ってこわい。

わたしがジローランさんの言葉にひいてるのがわかったのか、彼は慌てて「ああ!違う違う!」と手を振った。

「糸師ちゃんが変な気起こすんじゃないよ!起こすのはハウスキーパーのほうね!」

うん。知ってる。そこを心配してたんじゃないけど。っていうか誰か言っちゃダメとか言いながら言っちゃってるし。

それにしてもイトシってどこかで聞いたことあるようなないような。パッと出てこないけどそう思うってことは結構有名な人なんだと思う。

「とにかく!働き先困ってるならぜひ頼むよー。それに相手は日本人でね。和食好きだから日本人だと助かるんだよ。多分給料は前の会社よりもいいと思うし」
「えっ!」

悩む立場にないからもちろん受けるつもりでいたけど。現金なわたしは最後の一言で俄然やる気になってしまった。

「ぜひ!ぜひお願いします!」
「ああ、よかった。よろしく頼むよー」


そしてその翌日には仮採用が決まり、三日後に一度そのイトシさんの家に赴くこととなった。


「はじめまして、今日からお世話になるミョウジと申しま、す…?は…?」

万全の掃除道具を準備して勤務先に向かってみれば最高級の高層マンションに最高級のセキュリティ。その最上階角部屋とこれば相手がどんな人か勝手に想像してたけど。

ドアの向こうに立つ、わたしよりも頭一つ分以上背の高い男の人は見事に均整の取れた顔立ちで、なのにどこか気怠げ。

勘違いでなければ日本にいるときも、そしてこのスペインでも幾度となくテレビ越しで見たことがある見覚えのある顔。そしてジローランさんが言っていた”イトシ”という名前。

なんでピンとこなかったんだろう。

イトシ、日本人、スペインと言ったら日本人どころか世界でも知らぬ人はいないあの糸師兄弟の兄、糸師冴に決まっている。でもまさか超有名サッカー選手が来るなんて思いもしなかったからこの三日間わたしは呑気に和食のレシピと効率的な掃除法を昔父の家でハウスキーパーをして見事父の心を射止めた母にこっそりと聞いてましたけど。

でも相手が想像以上の有名人であることとか、自分がそんなすごい人のところで家事代行をするのが分不相応とか、そんなことよりも今はこの糸師冴が私が思っていた以上に顔がいいことに目が行った。もちろん朧げに覚えていたテレビの向こうの姿はかっこよかった気がするとは思ってたけど。本物、想像以上に好みだった。

そんなんだし、まさか糸師冴が目の前に現れるなんて思いもしてなかったからわたしがぽかんとしてしまうのは仕方がないことだったと思う。でもそんなわたしに彼が放った一言は思った以上に辛辣だった。

「いつまでそのアホ面で突っ立ってるつもりだ?」
「…」
「こ、困るよー、糸師ちゃん。もうこれ以上ハウスキーパー見つからないんだから。それに貴重な日本人だよ」

一緒に来てくれたジローランさんが慌てたようにフォローを入れた。でも糸師冴は自分は悪くないと無表情のままわたしを見下ろしている。

……そういえば糸師冴って結構毒舌で、インタビュアーを凍り付かせるって噂になってたっけ。マジなんだ。でも不躾に見ていたわたしも悪いし。なによりこれは仕事。

わたしは他所行きの笑みを浮かべながら頭を下げた。

「仮採用していただきありがとうございます。家事代行として本日からよろしくお願いいたします」
「…入れ」

変わらない鉄仮面のまま彼はあごでわたしに中に入るよう促した。

「お邪魔、します」

恐る恐る入ってみれば、そこは性格なのかシンプルな部屋。でもところどころ散らかっている。自分が過ごすスペースは綺麗にするけどそれ以外はどうでもいいタイプなのかもしれない。サッカーは詳しくないからあまり糸師冴については知らないけど、「冴様」とか「天才」とか「日本の至宝」とか呼ばれてるから勝手に完璧超人だと思っていた。だからなんか…

「意外…」
「あ?」

やばっ。声出てた。絶対睨まれるやつじゃん。心の中でひえーって叫び声を上げていたけど、糸師さんは意外にもどうでも良さそうだった。

「俺はサッカー以外はやらねぇんだよ」
「そ、うなんですか」
「掃除、洗濯。お前に頼むのはそれだけだ。料理はしばらく様子を見て正式採用になってからでいい」
「わかりました。細かいことに関してはジローランさんに事前に伺っています」

怒ってなくてよかった。こっそりと安堵のため息をついて、その後少し糸師家のルールを確認しているとジローランさんから「糸師ちゃん、そろそろ時間だよ」と声がかかった。

「余計なことをせずに言われたことだけやってれば正式採用する」

それだけ言うと糸師さんはわたしに背を向けて玄関へと向かった。

最初から最後まで冷たい言い方の人だから正直うまくやれるか不安しかない。でもわたしはここで採用されなかったら日本に帰るしかなくなって、そしたらお見合いが待っている。それだけは絶対に嫌だ。だからわたしはにっこりと微笑んで糸師さんを呼び止めた。

「糸師さん」
「なんだ」
「いってらっしゃいませ」

わたしが出かける人に言う当たり前の言葉を口にすると、糸師さんはこちらを一瞥して、そして何も言わずに去っていった。

これは余計なことだったかな、と心配になったけど、それから数日後に無事正式採用されて、これで日本に帰る必要がなくなったわたしはほっと胸を撫で下ろした。





糸師さんは最初の印象通り口が悪いから慣れるまでは怖かったし(口悪いけどこっちが言い返しても怒らないからそれはありがたい)、スポーツ選手だからご飯作りにめちゃくちゃ気を使うし、挨拶には『ああ』しか返してくれないし、なにかと上から目線(実際年も立場も上の方ですけど)。だから、当初死ぬほど好み!と思っていたけど、それを忘れるくらいには前の仕事の方が楽だったと何度も思った。

それにわたしがいても気にせず上半身裸のまま歩き回るのにも結構困らされた。

まあ家のトレーニングルームで筋トレした後汗が気持ち悪くて服を脱ぐこともあるだろうし、お風呂に入ったら暑くて上半身裸のままいるのも男の人にとっては普通かもしれない。でもただの家事代行とはいえ一応わたしは女なんだからちょっとは気を遣ってほしい。それで「服!着てくださいっ」って頼んでるのに糸師さんは「自分の家で好きな格好して何が悪い」と堂々とわたしの横を通り抜けていくし、それどころかわたしが開けて食材を取り出そうとしてる冷蔵庫から水のペットボトルを取り出す始末。

そりゃね。正直に言えば眼福だけど。でもあの顔でバキバキの腹筋に汗ばむ肌ってほんとエロくて目のやり場に困る。こんなの見慣れたら他の男の人と付き合えなくなる。そう思ってなるべく見ないように顔を背けていたら糸師さんがわたしに言った言葉がこれだ。

「処女でもあるまいしこれくらいで顔赤くすんな」
「なっ別に糸師さんに顔赤くしてたわけじゃないですから!いい腹筋みたら顔赤くなるんです!」
「あーはいはい」

ムカつく。雇い主だけどムカつく。普通にセクハラだし、なによりわたしが言った苦し紛れの言い訳を適当に流してくるのがムカつく。せめて一言言ってやらないと気が済まない。

「そんなことばっかやってるから女の人がその気になって押しかけてくるんですよ!?この間家に来た人、めちゃくちゃ怒ってたじゃないですか」
「いたか?そんなの」
「…わたしのこと彼女って勘違いしてた人です。糸師さんが「うぜぇ、二度とくんな」って追い返してましたけど」
「いちいち覚えてねぇよ」
「…」

この人は多分無自覚に女の人を誘って、そして最後にはああやって「うぜぇ」ってフるんだ。酷い男。ジローランさんがハウスキーパーさんが変な気を起こすって言ってたのってちょっと糸師さんにも問題があるんじゃ…なんて思っても仕方ない。

「もう、ほんと、いつか襲われても知りませんよ…」

わたしがジト目でそう言えばペットボトルから口を離してあの宝石のような瞳を細めてこう言う。

「そんな欲求不満なら付き合ってやるよ」

違う。襲うのわたしじゃない。そう答えたいのに何も言えなかった。お風呂上がりの上気した頬。まだ少し濡れた髪。それから色気のある細められた瞳。ただでさえ顔の良すぎる男にそんなこと言われて言い返せる人がいたら教えてほしい。

そしてそんなわたしにさらに追い討ちをかけるのが糸師冴なのだ。

「これで黙るくらいなら男を煽るようなこと言うな。ほんとバカだな、お前」
「…」

初めてふっかけた勝負はもちろんわたしの完敗だった。



それからは文句を言っても仕方がないことがわかったからわたしは黙々と仕事をするようになったし、糸師さんもオフで家にいる時はわたしを気にせず好きなように選手のデータ分析したりちびまる子ちゃんを見たりして(ちびまる子ちゃんっていうチョイスは死ぬほど可愛いのでそれにはちょっときゅんとしたけど)、可もなく不可もない雇用関係を続けていた。そんなんだから糸師さんがわたしのことをどう思ってるか全く分からなかったし、正直糸師さんが満足する仕事がちゃんとできてるのかずっと不安だった。

それで今回のことで糸師さんに認めてもらってることがわかって有頂天になったし、やっぱりなんだかんだ言ってもちょっと憧れてた糸師さんに仮初でも結婚するかなんて言われて舞い上がってしまった。

だから糸師冴と結婚することがどういうことなのか、この時のわたしはまったく考えてなかった。



◇◇◇





ドラマで見た契約結婚は籍を入れない事実婚だったから、わたしも当然そうするものだと思っていた。でも糸師さんは「ンな中途半端で終わるなら苦労しねぇだろ」と言って婚姻届をわたしの前に置いた。

「ほ、本当にするんですか?」
「当たり前だろ」
「で、でもやっぱり糸師さんにメリットが少なすぎる気がして。結婚なんてして本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫もクソもねぇ。俺がお前を他の男と結婚させたくねぇっつってんだからそれ以外に理由がいるか?」
「は、え、は?」

な、なにそれ?なんか告白されてるみたいに聞こえるんですけど!?

「な、な、なんですかそれ」
「お前がいなくなったら誰が俺の飯作る」

…何だご飯か。ちょっとドキドキして損した。まあでもたしかに糸師さんの家事代行できる人間はあんまりいないし。なんだか糸師さんらしい自己中な理由で少し安心してしまった。それならとサインをすると仕事が早い糸師さん、じゃなくて冴さんはその場でマネージャーに電話して、わたしが「え、待って、まだ心の準備が!」と言う前に「結婚する」と報告し、さらにはわたしに親に電話をかけさせて「結婚を前提に付き合ってます」と言って近々日本に一時帰国するからその時に挨拶に行くとアポまで取り始めた。

もちろん社長令息と結婚させるつもりだった父親は怒ったけど、相手が“あの糸師冴”だとわかると黙って唸った。それに関してはちょっと、いやかなり気分がよかった。

それは置いておいて。頷いたのはわたしだけどなんかとんでもないことになっている気がする。契約とはいえわたしと糸師さんが結婚するなんて本当にいいんだろうか。わたし、糸師さんのファンに殺されないかな。

でもなんだかんだ言って糸師さんの言う通りにしてたらなんとかなりそうだし、普通に過ごしてればファンにバレることなんてないし、このままほとぼりが冷めるまでは冴さんの優しさに甘えさせてもらおう。



なんて思ってた自分を叩いてやりたい。



「むっ無理です無理ですっ!!」
「無理じゃねぇだろ」
「いやだって!あなた日本の至宝ですよ!?あなたのファンどれだけいると思ってるんですか!?」
「ついこの間俺を襲うだの言ってたやつが騒ぐな」
「いや、わたしが襲うと言ってたわけじゃないですから!っていうか一緒に寝るのはやっぱりおかしいです」

結婚が決まってから数日後。ついに一緒に住み始めることになったその夜、わたしと冴さんはベッドの前で言い合いをしていた。理由はわたしがどこで寝るか。ソファで寝ようとしたわたしに向かって「一緒に寝ればいいだろ」なんて当たり前のように言うこの男はどこかずれてると思う。

「ベッドがこれしかねぇんだから仕方ねぇだろ」
「ソファがあるじゃないですか」
「俺はソファでは寝ない」
「いや、そこは普通わたしですよね」
「あ?俺が自分の嫁をソファで寝かせるクソ男だと思ってんのか?」
「っ」

普段は女に対してあんな酷い態度を取る男のくせにこんな時だけそういうこと言うなんて怖い。っていうか冷静に考えてわたしが冴さんの嫁なのが一番怖いけど。

信じがたい冴さんの嫁発言に固まっていると彼はため息をついて寝室のドアの方へと向かっていった。

「え、と。冴さん?」
「仕方ねぇから今日は俺がソファに行ってやる」
「え!?」
「これじゃいつまでも寝れねぇだろ」

いつもはわたしの言うことなんて絶対聞かない人なんでこういう時だけ引くの?

サッカー選手をソファなんかで寝させるわけにはいかない。それこそファンどころかジローランさんにも殺される。結局わたしから「一緒に寝てください」と言う羽目になったのだった。

その夜は当然ながら全然寝れなかった。みじろぎひとつしたら冴さんを起こすんじゃないかと思って全然動けなくて、めちゃくちゃ良いベッドで寝てるはずなのに体が痛い。長い夜が開けてカーテンから漏れる光で夜明けが近いことを知ったわたしはいつもより早めに起きて家事に取り掛かるべくベッドを降りようとしたら結局その振動で起こしてしまったらしく、眠そうな冴さんが機嫌悪そうに眉間に皺を寄せた。そして「もう少し寝かせろ」とわたしの腰を抱き締める。

「ちょ、冴さん!?」

それからは何を言っても起きなくて、でも腰を掴む力が強すぎて逃げられないわたしは冴さんの体温の暖かさと寝不足に負けてそのまま爆睡して、ジローランさんに起こされるまで寝ていた。

その後まだ事実を知らないジローランさんに「ナマエちゃん、困るよ。新婚だからってその辺りはしっかりしてもらわないと」って苦言を呈されてわたしの顔は青くなったし、そのあと冴さんに「行ってくる」と頭をくしゃくしゃと撫でられてわたしの顔は多分赤くなった。

だって今までわたしがどれだけ「行ってらっしゃい」と言っても「ああ」しか言わなかった冴さんが「行ってくる」なんて言って微笑むから。

わたしはなんだかドキドキしてしばらく撫でられた頭に手を乗せたまま動けなくなった。




それから。

冴さんの休暇に日本に一時帰国してお互いの両親への挨拶を終え、本当に婚姻届を提出して戸籍上は本物の夫婦になった。念のため契約の話はしばらく二人だけの話にしようということになったので、祝福してくれるお母さんや冴さんのご両親に申し訳なくてその時は結構堪えた。でも完璧主義の冴さんは日本にいる間ずっと優しくて、あれ、わたし本当に冴さんの妻なのかもって勘違いしそうになって逆にダメダメと首を振った。

あと、冴さんが例の社長に会いに行ってくれて、直接「俺の妻になるのでお見合いの話はなかったことに」と言ってくれたのも相当嬉しくて、ほんと惚れるかと思った。社長はわたしの相手が糸師冴だと知ると文句ひとつ言わず微笑んで「これからも日本のサッカーを頼むよ」の一言。この言葉に冴さんはちょっとムカついてたけど。





「疲れましたね」

全てが終わって久しぶりに冴さんの家へと帰ってきた。

「今回は本当にありがとうございました。何とお礼を言っていいものか」

わたしが改めて頭を下げると冴さんはわたしを手招きした。手招きに従ってわたしが冴さんの前に立って「どうしました?」と首を傾げると冴さんはわたしの頭の上に顎を乗せる。

「え、え、本当にどうしました!?」
「慣れないことして疲れたから嫁で癒されてるだけだろ」
「は?嫁、ですか?」
「お前以外に誰がいる」

何言ってんだとでも言うように返ってきた言葉にわたしは言葉を失った。たしかに前に言われたことあったけど。でももう一通りのことは済んだからそんなフリする必要ないのに。冴さんの女性問題解決するまでは嫁扱いステイってこと?


まだ事態が飲み込めてないわたしは一旦冴さんから離れて「お茶!いれてきます!」とキッチンへと逃げた。そしてたっぷり時間をかけてお湯を沸かしたあと、恐る恐るコトリと音を立てて塩昆布茶をソファに座る冴さんの前に置いた。

「どうぞ」
「ああ」

いつも通りずずっとお茶を飲む冴さんはいつもと同じに見える。しばらく彼の横顔を見つめていてもやっぱりいつもと変わらなくてふぅと息を吐いた。

よかった。さっきのは何かのバグだったんだ。

安堵したあとやっぱり好みなその端正な顔立ちを少しだけ見つめて、そして荷解きでもしようとその場を立ち去ろうとすると腕をグイッと引っ張られた。

「わっ」

急に引っ張られたからバランスを崩してわたしを引っ張った張本人の方によろめくと、冴さんはわたしを抱きかかえてそのままわたしを膝の上に乗せた。そのいわゆる恋人だっこの格好のせいでさっきまでわたしが見下ろしていたはずの冴さんの顔が目の前にある。

「いや近い近い…!」
「お前がずっと見てくるから近くで見せてやってんだよ。で、俺のこと見て何考えてた?」
「何って…」

それは冴さんがかっこいいって思ってましたけど。

そんなこと本人に言えるはずもない。でも冴さんは逃す気がないとでも言うようにわたしの顔を覗き込んできてさらに距離は近くなる。

至近距離の糸師冴…やばい。ほんと無理。

恥ずかしくて顔をぷいっと明後日の方に向けると冴さんはわたしの顔をガッ!と効果音がつきそうなくらい強く掴んで自分の方にわたしを向かせた。

「いひゃいれす」
「お前が逃げるからだろ。慣れろ」
「慣れる日は来ないです!っていうか冴さんどうしちゃったんですか!?」

わたしの答えを聞くと冴さんは面白くないという表情をありありと示して、わたしの頬に触れていた手をそのまま唇に移して自身の親指の腹でなぞった。

「っ」

な、な、なに!?

くすぐったさと恥ずかしさで体をのけぞったけど腰を掴まれて離れられない。そしてわたしが動けないのをいいことに冴さんはわたしの首元に顔を近付けてそして軽く唇を当てた。

「ひゃ、ちょ、怒りますよ!!」
「これくらいしねぇと慣れねぇだろ」
「でもこれはおかしい!絶対、おかしい!」
「夫婦なら当然のことしかしてねぇ」

いや、夫婦なら当然って…。それがそもそもおかしい。

「わたしたち契約結婚ですよね?なのにここまでする必要あります?」
「あ?俺はすぐバレるようなウソなら最初からやんねぇ。だからお前と普通の夫婦に見えるようにすんのは当然だろ」

なんか話と違う。もっとライトな結婚だと思ってたのに。っていうかこれじゃわたしたち普通の夫婦をやるってことにならない?

困惑するわたしをよそに冴さんは「あと俺は嫁は甘やかす」なんて暗にこれからわたしを甘やかすという爆弾発言を素面で言ってくるし、そのままわたしの頬をサラリと撫でてくるものだからわたしの顔は火が出るくらい熱くなった。

「だからお前は俺の言う通りにしとけばいい」

あの目力のある緑がかった瞳にまっすぐ見つめられると何も言えなくなる。いつもなら「冗談やめてください!」って怒れるのに、雰囲気に飲まれて本当に冴さんの言う通りにしてしまいそうだった。

でも。でもさ。わたしが本当にそれに甘えてもし冴さんのこと好きになったらうぜぇって言うんでしょ?そんなのほんと、怖いよ。

わかってるのに結局わたしの心臓はバカみたいにドキドキしてしまって、この鼓動が冴さんに聞こえてないか不安で仕方がなかった。





◇◇◇




あの夜から冴さんは言葉どおり甘くてわたしはその度に恋に落ちたみたいにドキドキする心臓を抑えるのに必死だった。

そんなんだからわたしは冴さんの一挙手一投足が気になっちゃって逃げてるから最近は前みたいにあんまり話せてない。それはそれで少し悲しい気もする。



「あれ、ない」

今日のメニューに欠かせないものがないことに気がついた。合宿で数日家を空けていた冴さんが家に帰ってきて食べたいものを聞けばやっぱり和食。肉じゃがでも作ろうかと棚を開ければそういえば醤油が一昨日切れたのを思い出した。

「すみません。買い忘れがあったので今から買ってきますね。ちょっと晩御飯遅れちゃいますけど…」

久々のオフでリビングでゆっくりしてた冴さんに断りを入れて出かける準備をバタバタと始めると冴さんがこちらに近寄ってきた。

「送ってく」

…え?一緒に行く感じ?

最近わたしに甘い冴さんに警戒心剥き出しのわたしは「一人で大丈夫ですよ」と言って断ると冴さんはまるで残念なものを見るかのようにため息をついた。

「こんな時間に女一人で外出せるわけねぇだろ」
「もしかして心配してくださってますか…?」

冴さんは前みたいにお前はバカかって顔をしているのに、出てきた言葉は「当たり前だろ」。

夫婦なら「ありがとう」って言えばいいし、契約上の夫婦なら「それならお言葉に甘えて」って言えばいい。けどすっかり冴さんに甘やかされて落ちる寸前のわたしはその言葉になんて返事をしたらいいのか迷ってしまう。返事もせずただその場に立ち尽くしていると気がつけば冴さんは手早く用意を初めて気がつけばジャケットを着ていた。

「さっさと用意しねぇと置いてくぞ」
「え、あ、すみません!今すぐ!」


冴さんのめちゃ高外車に乗ってついたのは海外の食材とかも売っているセレブ向けのスーパー。普通ならここにいる人みんなお金持ちに見えるのに、糸師冴がいると逆にこのスーパーが庶民的に見えるから不思議。

「じゃあわたし買ってきますので。少しお待ちください……って、え、何してるんですか!?」
「俺も行く」
「待って!その格好で!?」
「別に普通だろ」
「普通すぎません?もっとこう…変装的な?」
「んなのしねぇよ」

いや、して!?あなた世界で有名なサッカー選手ですよね?そんな人がこんな庶民(じゃないけど)スーパーにいたら目立つじゃん。

そう思うのになぜか「スーパーとか久しぶりだな」なんて言ってわたしの置いて歩き始める。

いや、誰か止めて。

結婚して甘くなってもこういうところは変わってないらしい。ほんと普段のジローランさんの苦労が知れる。





誰かが冴さんに気がついたらどうしようって気が気じゃなくて周りをキョロキョロ見渡していたらわたしの頭に猛烈な痛みが走った。

「い、いたっ、痛いです!なんで頭掴むんですか!?」
「キョロキョロすんな。こういうのは普通にしてればバレねぇ」

ええ?そういうもの?こんなオーラあるのに?

ハイブランドの服にスペイン人にもあまりいない赤みの強い髪色。申し訳程度に眼鏡をしてるけど、むしろそれがイケメン感を押し上げている。つまり、全然隠れてない。それなのにわたしの隣を歩くこの人は堂々としている。

いや、やっぱり無理がある。そう思ってももう聞いてくれないことはわかってるから諦めてわたしは調味料売り場へと向かった。このスーパーは品揃えがいいらしく日本のスーパーでもあまり見かけないちょっと良さげな醤油があって物珍しさから手に取って見ていたら上からにゅっと伸びてきた手にそれを奪われた。

「これか?」
「わっ!びっくりした!」

見上げると先ほどまで少し離れたところを歩いていたら冴さんの端正な顔があって、そしてその距離はわたしの背中が彼の胸板につくくらいには近い。思わず離れようとしたけど棚と冴さんの体に挟まれて逃げられない。

「あ、あ、あの」
「なんだ」

そう言う冴さんの吐息が耳に当たって思わず身を捩った。なんか意識してるって思われるのが恥ずかしくて全く必要のない調味料を手に取って誤魔化したらそれも取られて「他には?」と今度はわたしに視線を合わせながら聞いてくる。

近いってば!

もうその頃にはわたしの顔は真っ赤で、それを見て冴さんは口角を上げて「こんなんで顔赤くしてたら身もたねぇだろ」って笑った。

「ち、がいます。これはその、暖房が暑くて…」
「あーはいはい」

わたし、からかわれてる。

そのあと糸師さんが和食に合わせるとスペインでも人気の日本酒を一緒に買って、それを冴さんは店員さんから受け取って歩き始めた。でもあの糸師冴に調味料の入った紙袋を持たせるなんてわたしにはできない。そう思って冴さんから紙袋を奪おうとしたけど冴さんはわたしの手をスッと避ける。何度やっても避けてくる。

「ちょっと。避けないでください。わたしが持ちますっ」
「俺が持つからいい」
「でもこれはわたしの仕事ですので!」
「じゃあお前の仕事は俺からこの届かない荷物を取るのに変更」
「なっ絶対取ってみせます!」
「せいぜい頑張れ」

もちろん届かなくて気がついたら車に着いてて「ほんと面白いくらいにバカだな」って笑われた。わたし、やっぱりからかわれてる。

でもなんか冴さんに「バカ」って言われるのが久々で、少し嬉しいなんて思っちゃった。こんな風にちゃんと話したのも久しぶりだったし。なんだかんだ言ってわたしはこうやって冴さんと話すのが好きだったらしい。





冴さんが買った日本酒は今ヨーロッパで人気のものらしくて目玉が飛び出るくらい高くて、それに見合う料理が作れてるか不安だった。でも勧められてそれを飲んでみてもわたしには美味しいのかどうかわからない。感想に困っていたら「言う割によくわかんねぇ味だな」ってわたしとおんなじ感想を呟く冴さんに笑ってしまった。

そのあとはアルコールが入ってるせいか、それとも冴さんの甘いのがいつもより少ないせいか話が弾んで、まさかのお互いの小さい頃の話なんかしちゃって、すると話を肴にお酒はどんどん進んで、次、また次と手が伸びていく。

そして気がついたら。





「は?」

目が覚めたらわたしの横には裸の冴さん。そして裸のわたし。素足がからめられていて、なによりわたしは彼の厚い胸板に抱きしめられている。これはもう全く疑いようもなく事後。


さ、さいあく…。


わたしも自衛してたし、いくら冴さんが甘くてもこの一線だけは超えないだろうってたかを括ってた。お酒の力って怖い。

顔を青ざめさせたわたしに先に起きていた冴さんは「身体大丈夫か」と聞いてきて、もう完全にアウトすぎて死にたくなった。

「あの、あの、えっと」
「ん?」
「えっと」

心なしか冴さんの表情がいつもよりさらに甘い気がする。昨日みたいに「バカ」とか言ってくれればいいのに。嫁特典で甘やかされてるのか、冴さんも流石に事後は女性に優しいのかわからないけど、ほんと、今はやめてほしい。

何を言ったらいいのか分からなくてしばらく「えっと」を繰り返すわたしに全てを察したらしい冴さんはため息を一つこぼした。

「なんもなかった」
「え!?ほんとですか!?」
「訳ねぇだろ」
「…ですよね」
「覚えてねぇならもう一回するか」
「い、いいです、いいです!思い出さなくて結構です!」

冴さんにはそう言ったけど、本当は少しずつ昨日のことを思い出し始めてた。酔ってたからところどころだけど、わたしが酔って歩けなくなったのを冴さんがベッドに運んでくれたこととか、そのまま流れでキスをしてしまったこととか、散々見てきた彼の胸板がいつもと違ってわたしに覆いかぶさるように目の前にあったこととか、彼の瞳がいつもと違って熱くどろりと溶けたようだったこととか。

思い出したくなかった。思い出すと心も体も本能に正直で、本当に恋をしてしまったみたいに冴さんがかっこよく見えて、そしてこの人にもう一度抱かれたい、なんて思っちゃう。今までだってずっとかっこよく見えてたのに、なんでこんなことひとつでここまで変わっちゃうんだろ。

でもわたしたちは契約結婚で、一線を超えるのは契約違反だし、なによりわたしが冴さんのことを好きになるのはもっと契約違反だ。

今は契約を結んでるからこうして優しくしてもらってるってわかってるはずだったのに、やっぱりどこかで勘違いしてたのかもしれない。これじゃ冴さんの元を訪ねてきて「うぜぇ」と言われたあの人と何も変わらない。

そんなの絶対やだ。好きになる前に別れなきゃ。


そう思ったわたしはなんかしらないけど流れでわたしをまた組み敷いている目の前の男に空気を読まずにちゃんと言った。



「わ、別れてください…!」
「………あ?」
「これ、契約違反ですよね。こんなことになったらもう続けてちゃダメです。お見合いはもう破談になりましたし、冴さんも最近女の人訪ねてこないし。だからもう終わりにしましょう!?」

冴さんは女を追ったりしない。だからたった一言で終わるんだと思う。だからわたしはその言葉を待っていたのに返ってきたのは意外すぎる言葉だった。


「ハッ本当にバカな女だな」


冴さんの瞳は獲物を狙う鷹のようで、そしてその言葉はあまりに冷たくて、思わず息を呑んだ。そんなわたしの恐怖を飲み込むかのように冴さんはわたしの唇に噛み付くような口づけをしながら囁く。

「まだ別れられると思ってんのか」



へ?





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