text (long1) | ナノ


02




 息が、詰まりそうだ。


 明らかに上等なものなのであろう、而して決して豪壮美麗な装飾の過ぎたものではない調度品で純和風に統一された空間には、いつも学園内で感じているそれとはまったく異なる空気が満ち満ちているように感じられる。
 日本男児たるもの、正座は慣れたものだ。背筋を伸ばし、凛と座す。――そう心得ていないと、とてもこの場には居れないのではないのだろうか。既に一点、普通に希望ヶ峰の制服を纏って来てしまったことさえ後悔しかけているのだ。

 視線の先には、僕と同じく正座で此方に向かい合う「巫女」の姿。
 たおやかで、あえかな居姿。月下、湖畔で滝の飛沫を受けながら静かに俯いている菫の花のように、華やかでありながら淑やかな趣を湛えるそのさまを見るにつけ、収まりつかず浮き足立っていた心は鎮められ――その倍は、胸が高鳴っていた。正直な話、ずっと見惚れっぱなしになってしまっている。

 純白のハイ・ネックの上衣はその華奢な喉元を覆い、控え目な丘を築く――僕はとても素晴らしいと思う!――胸元から下はすぐに緋袴を変形したようなスカートが始まっている。胴の部分がかちりと固定され、腰から切り替えでスカートがふわりと膨らむそれはコルセットというものを応用したものらしいのだが、生憎と僕は服飾関係の才能は持ち合わせないためよくは分からない。ただ、とてもかわいらしいのだということだけは一目見てわかった。
 肩から大判の羽衣を羽織り、縄と金具で前を留めている。羽衣の裾と、スカートの裾には上衣のそれと同じ純白の、フリルだかレースだかというものがたっぷりとあしらわれている。足元は裸足かと思いきや薄いストッキングを着用しているらしかった。徹底的なまでに素肌を露出しないその装いは、僕に改めて彼女の神秘性を感じせしめた。
 まるで白雪のために誂えられたかのような衣裳だ――という感想は愚にも付かない誤りだ。正真正銘、まさに彼女のためだけの巫女装束であるのだから。

 美しく、慈悲深く、どこか浮世離れした空気を纏う存在。
 全国数多の信者から一心に信仰を捧げられる――謂わば、現代の聖女というものか――超高校級の"巫女"、有栖川白雪。
 個人で謁見が叶う機会は本当に限られたものなのだ、と信者諸々がインターネット上などでぼやいているところの彼女は、今こうして僕ひとりを相手取ってこの座を設けてくれていた。彼女を擁している宗教結社とは縁もゆかりも無い、僕のために。

「――本日は、遠路はるばる斯様なところまでおいでくださり有難う御座います、心より感謝申し上げますわ。風光明媚、などと申せば聴こえも宜しいのでしょうけれど、生憎と緑一色であまりアピール・ポイントはございませんの」

 大きく息を吸い、はっきりとした発声で――それでいて大声を張り上げるわけでもなく――、一語一語を紡ぐようにゆったりと語る表情は、凪いだ水面のように穏やかな微笑のかたちを作る。ちいさく肩を竦めてみせる仕草は、神性を湛えながらも親しみを覚えさせる彼女ながらの振る舞いに他ならない。

「然れど、ゆるりと心身を休めてゆかれるには最適かと思っておりますの。どうぞ、楽にお過ごしになってくださいね。



 ――……このあと希望があれば祝詞なんか差し上げるのだけど、清多夏さん、聴いてゆかれる?」


 淀みなく告げられたもてなしの口上から数秒沈黙を置いて、羽衣から伸ばした手で茶缶を掴みながら僕に尋ねてきた白雪は、僕のよく知る、僕の白雪だった。
 ここぞという時にこそお願いしよう、と告げれば我が意を得たりとばかり頷く彼女は、障子の向こうにずっと控えていたらしい影――護衛の者なのだろう――へ向かって、「本日のお客さまは私(わたくし)のほうからお招きしているの。待機も警邏も要らなくてよ」と一声掛けた。


 きょう、僕は、今や第二、第三の国教とも謳われている宗教結社の支部――日本古来の宗教用語で形容するのであれば、神社であるとか寄合所であるとかと称されよう場所へ招かれていた。我らが希望ヶ峰学園に最も近いこの支部は、信者の間では「巫女姫さまに逢える場所」「白雪さまの加護を最も近くで受けられる場所」と名高いのだという。
 白雪の加護を最も近くで受けたいというのであれば零距離で抱き締めるのが最善なのではないか、とも思うが――郷に入れば何とやら、というか、先日ついぞ全国の有栖川白雪信者を仮想恋敵と認定することとした僕であっても、やはりこの場で彼女に対して行き過ぎた接触を図ることは躊躇われた。それは、先刻の白雪の指示を受けて音も無く退いていった護衛役の影が見るからに屈強そうであったから、という訳ではない。目の前の白雪自身があまりに「巫女」として完成され過ぎていたからなのであった。


 上等そうな急須に、茶缶から取り出した茶葉を大匙に二杯。少々多すぎるくらいがポイントなの、と一人ごちながら白雪はそこだけ現代の利器を使用するらしく既に湯気を噴き上げている電気ケトルを座り机の陰から引き出してくる。
 良質な畳の匂いも染み透る広い室内に、白雪と僕。人数以上の茶碗を取り出すのは何故かと動揺しかけたが、理由はことのほかすぐに知れた。

「思えば、寄宿舎でもよくしているわねえ。お茶」

 美しく苦笑して眉尻を下げる白雪が、一杯目の茶碗に注ぎ取った湯を次々に他の茶碗へと移し替えている。成程、湯の温度を下げるとともに茶碗を温めるのか。実家の母が、茶の旨味を引き出すためには沸騰直後の湯では熱過ぎるのだと話していたのをそこで漸く思い出した。――白雪は、ただ「知っている」だけでなくそれを生活に活かせるからこそ深みのある人間なのだ。

「そうだな、僕は白雪のお陰で紅茶の種類を沢山覚えたぞ。アールグレイよりは、香りに癖が無いダージリンが好みだ」
「あら、本当に覚えていらした。てっきりストレートかミルクかレモンか、位しか区別していらっしゃらないかとばかり」
「……きみは僕を何だと思っているんだね」
「うふふ、御免遊ばせ。だって、いつもあたしが淹れるお茶、特にコメントもなく美味しい美味しいって召し上がるばっかりなのだもの」

 
 適度に冷ましたらしい湯は、急須へと集められる。ここで普通に日本茶を淹れる場合には急須を揺すったりする光景が見られるが――現に僕も校内で来賓にお茶を出すときにはそうしていたのだが――、白雪はそれをしない。ただ背筋をぴんと伸ばして、而してその表情はさきの発言の名残を残して少し唇を突き出して尖らせた幼げなそれである。

 
「――きみが僕に差し出してくれるものに、不味いものなどひとつもないだろう? 僕はそれを確信しているのでな」
「まあ……随分と信頼して頂けているのね。光栄よ」

 ぺたぺたと急須の蓋に指先を宛てていた白雪が、社交辞令めいた微笑と共に急須を持ち上げる。一分半ほど、か。
 茶碗に注がれる茶の色は、白雪の繊細に波打つ髪の亜麻色に似て明るく、さわやかな暖かな、どちらにも思えるような色をしている。玉露だった。
 
 茶托に乗せた茶碗を、此方へ差し出してくる作法も手慣れたもの。これまでに何度も客人をもてなしているのだろうその挙動を見るにつけ、見知らぬ客人某たちを羨む想いはやまない。
 非の無い相手に悪感情を持つことなど、以前の僕であれば猛烈に恥ずべきことであると心得ていたのだが、成程、恋愛というものは容易く一個人の人格をも変容せしめるのだ。嫉妬で首が回らなくならないよう、心がけなくてはならない。

「お熱いうちに、是非召し上がって。――あ、直ぐにお外に出るからと思ってお菓子は止めておいたの、御免なさいね」
「気遣いは無用だぞ、白雪。僕ときみの仲なのだからな――うん、頂きます」

 静かに、時間が流れる。
 信仰と崇拝が集まるさなかに居ながら只管にこの空間は、静謐だった。巫女と信者、ではない。白雪と、僕だけが、ここにいる。

 一口含むだけで、香ばしい温かさが咥内に広がってゆくのが分かる。急須を揺すらないのは苦みや渋みを抑えるためだったのだ、と、いつも飲む緑茶よりも強く感じられるその甘みから察せられた。
 なんとも、美味だ。

 白雪を慕う全国津々浦々の信者諸君にも、こうして白雪が手ずから供してくれる茶に舌鼓を打つ機会はあるらしい。白雪から聞くに、神事や催事で集まる際には可及的多くの人数を受け入れている――サービス精神が旺盛なのは白雪の美徳であり、同時に僕にとっては少々悩ましい――との事であるので。但し、その回数はそう多くもないだろうと僕は読んでいる。

 白雪は、僕のためにスケジュールを白紙にしてくれていることもある。専らの休日を僕と共に過ごしてくれる。いつでも、僕の良いように触れたい放題にしてくれている。
 当然、こうして僕のためだけに茶を献じてくれることも今回が初めてではない。僕が自室で日々の予復習に励んでいるときには緑茶、眠る前の語らいのときには生姜湯や葛湯(――これらはお茶ではないけれど)、昼下がりに二人ゆっくりと過ごすときには紅茶。ひとつひとつが僕にとってこの上なく甘美な記憶だが、生憎と、既にして数えられる範疇を越えてしまっている。
 白雪を傍におき、共にときを過ごすことが、僕にとっては日常なのである。なんという傲慢かと謗られようと、事実であるから仕方がないのだ。

「あら、お好みだったみたいね。こわーい風紀委員長さまが、いつになく笑顔でおいでだもの」
「その"こわーい"という形容詞はどこに掛かっているのやら曖昧だな。仮に『風紀委員』に掛かっているのだとすれば、単なる職務分掌であるいち委員会にそのように感情的な形容詞をふるのは不適切だろうに。あるいは、」

 この敷地内で日々修身に励む誰もが慕い、数多の信者がその存在を夢に見ることすらあるという「巫女」。僕と1メートル弱の間隔をおき向かい合っているその存在を、遠いと感じる者は多いのだろう。
 しかし、僕は。僕だけは、違う。


「僕個人のことだと言うなら、このようなときに怖い顔など出来る筈が無い。――本日も恙無く、きみと共に在れて僕は心から幸せだ」


 いつものように白雪が居て、僕に微笑み掛けてくれる。
 僕にとってはその事実が大切で、あとのことは些事として片づけてしまえる範疇だ。

 息が詰まりそうだとすら感じていたこの場の空気も、同じく白雪が吸っている空気なのだと考えれば途端に快いものにその質を変じてしまう。
 今日も、白雪が淹れてくれたお茶が素晴らしく美味しい。

 茶器の返却をする際に、そのほっそりとした白い手を己の両手で覆った。これくらいの接触くらいなら、許されるはずだ。僕が、相手であるならば。
 軽く腕を引いて、容易く差し引きは成らないらしいと判断した白雪は僕を見上げて、目を細めやわらかく破顔してみせる。ほのかに色づく目元と上気した頬は、僕だけがお目通り叶う彼女の愛らしい感情の発露だった。


・衛星カフェテラス

20131213

 きみの神性の有無を問わず、僕はただきみを見ている。
 信仰というにはあまりに私的な欲を孕み過ぎた感情は、而してきみに受け入れられること叶った純粋な愛情だ。