text (long1) | ナノ


01





「――有栖川さんッ!」



 僕の傍らで本日も優雅に紅茶を嗜んでいる白雪の柳眉がひくりと上がる。少々の微睡に蕩けそうにも見える深い紫水晶の瞳が、ゆっくりと覚醒して煌めく。
 休日午前中の中庭などにそうそう人が無目的に訪れるものでもない。しかも、僕と彼女が並んで腰掛けるベンチのほうへ真っ直ぐ飛んできた耳慣れぬ声は、明らかに彼女――有栖川白雪の名を呼んでいた。確定だ。

 あらあら、と紙カップを置いて立ち上がりかけた白雪を僕は必死に制した。

「行かないでくれ! 行かないでくれ白雪ッ!」
「ちょっとご挨拶にお応えするだけでしてよ?」
「駄目だッ、今日は僕と二人きりで過ごしてくれる約束だったろう!」
「そんな、ふふっ…ほんの少し、なのに――あら」

 此方から行かずとも問題なかったのね、と両手指を胸の前で重ね合わせはんなりと微笑む白雪の腰に縋りつく僕は、傍から見て――そう、希望ヶ峰学園の真新しい制服に身を包んだ、この眼前の某男子生徒から見て、どのように見えたろうか。

 全国各地から"超高校級"の才能を持つ高校生を勧誘しているこの学園に於いて、編入生が訪れることは最早日常と化している。風紀委員の務めとして本科生の名前と顔程度は全員分網羅している僕が記憶していないということは、恐らくこの男子生徒も入学して日が浅いのではないだろうか。
 頬を異様に紅潮させ、握りこぶしを震わせながら「有栖川さんッ…あの、あの、有栖川さ…有栖川さんッ」となぜか只管に白雪の名を唱えながら――心の狭いことでたいへん恥ずかしいがその時点で少々僕は面白くない――続く言葉が出てこないでいるらしい彼は、僕が居住まいを正して再び座り直してさらに数秒したのち漸く、腰を直角に折り曲げて声を張り上げた。

「俺、やっと…やっとッ、憧れの貴女を追い駆けてこの希望ヶ峰に入学出来ましたッ!」
「まあ」

「入信してから早三年…もう駄目かと思っていました。でも、でも信じれば夢って本当に叶うんですね……! 貴女の仰っていた通りだ、――巫女さま!」

「またこの手合いか! またなのかね白雪!」

 それはあたしに仰られても困るわ、と苦笑する素振りもきっと目の前の彼にはさぞかし神々しく映っているのだろう。

 理知的な光と超言語的な静謐さを湛えた紫水晶の瞳。透明感がありながら白桃のように軟らかい頬、潤った桜色のくちびるは常に穏やかに口角を上げている。なんと慈愛に満ちた表情であることか。実際にはもう少し表情の幅のある感情豊かな女性なのだが、恐らくそれは対外のものではないのだろう。
 小柄で華奢な体躯にて儚げに立つ彼女が、其方を気遣わしげに見て小首を傾げると繊細に波打つ亜麻色の髪がふわりと揺れる。清潔感がありながら華やかな薫りは、傍に立つ僕のほうにだけ届いているといい。組んでいた両手指を解き、ぱちんと掌を打ち合わせる幼げな仕草を取りながら、そんな風に微笑まれたら。――僕なら、確実に堕ちてしまう。

「よぅく憶えていましてよ、貴方のこと。…もう、足は平気なのですね」
「! だっ大丈夫、です! ほほほ本当に覚えていてくれてるなんて…光栄です!」
「ええ、当然ですわ。――あの状況から立ち直って新しい才能を芽吹かせただなんて、とても偉大なことです。あの日、貴方の告解を聴いて背を押したのは確かに私(わたくし)。而して、其処から努力で栄光を掴んだのは偏に貴方ご自身が為(な)したことにほかなりません」
「いっいえいえそんな! 俺は巫女さまのお陰で、」

 彼を制して、白雪はそっと目を閉じた。あたりにしんと落ちる静寂。

「――ご入学、おめでとうございます。これからも貴方の瞳が豊かな生命の煌めきに溢れて居ますように、お祈り申し上げておりますわ」
「ああああ有難うございますッ!!!」

 また折り入ってご挨拶に伺います、と再来襲の予告を抜け目なく告げながら、ほぼ直角の辞儀を――白雪はいつから皇族の生まれになったというのか、否、それだけ彼にとっては屈服すべき存在だという話なのだろうけれど――垂れ、行きと同じく慌ただしく彼は去って行った。
 最後まで僕は一顧だにされなかった。

 ベンチに腰を下ろすなり白雪が伸びをする。仔猫のような仕草は、それだけで彼女が"巫女"から一介の女子高生に戻って来たことを思わせた。至近距離に居たというのに遠く感じられて仕方のなかった薄い肩を、今こそとばかり引き寄せる。

「あ、ぁふ……疲れた、わ……」
「肩を貸そう、休むといい」
「有難う」

 寄りかかってくる温かな重み――とはいえ大して重くもないのだが――は、漸く帰ってきてくれた僕だけの白雪のそれ。くりり、と首を回している彼女が落ち着いた頃合いで、紙カップを再び持たせてやる。
 

「……だから嫌なんだ、ほんの少しでも」
「え?」

「彼らが現れた瞬間、白雪は皆のものになってしまう。"巫女"になってしまう、…から」


 人生を投げ出しかけていたときに、彼女に救われた。
 連日連夜暴力と非行に明け暮れていたときに、彼女から諭された。
 無理心中を企てたところに居合わせた彼女から制された。

 些末な理由から途方もない深淵に近い事情まで、超高校級の"巫女"有栖川白雪を慕い続ける「信者」諸君の抱えている背景はさまざまだ。しかし、そのどれもが眩しいほどに純粋な感情であることは、白雪の傍らでそれを聴いている僕にもなんとなく察せられた。
 白雪が言うには、彼女を擁する結社は男女関係についての厳しい戒律は存在しないのだという。"巫女"たる彼女の傍に見知らぬ男――僕のことだ――が張り付いていようと、彼らが僕に何をか言及してきたことは一度もない。

 その事実は、僕を緩く遍く擽ってくる。

「あら、じゃあ清多夏さんもうちにいらっしゃる? 楽しいわよ、一か月に一度の説話とお食事会」
「きみはそんな事までしていたのかね…否、僕は結構。きみとひと月一度しか食事が出来ないだなんて冗談もいいところだ」

 彼らのように純粋な好意だけを、僕は最早このひとに向けることは出来ないからだ。有栖川白雪が"巫女"でなくとも、僕だけは彼女をひとりの人間として求めるに違いない。

 可憐だと思う傍から、僕の色に染めたいと願う。
 優雅だと思う傍から、乱したいと願ってしまう。
 
 広い世界をくれた彼女を、自分だけのものにしたいなどと。

 あたしも貴方にはいらして欲しくないわ、と苦笑しながら投げ出した足を軽く揺らす白雪は紛うかたなき僕の白雪だ。ふうわりふうわりと笑みながら、「――大丈夫よ?」と殊更ゆっくり発音して寄越す。


「確かにあたしは"巫女"だけど、それでも――貴方だけの有栖川白雪なのだもの」


 ……きみはエスパーか。そうなのか。

 分かっているのだ。彼らひとりひとりのことを白雪が詳細に覚えているのはひとえに彼女の特殊な記憶能力に由来することなのであり、そこに白雪の意志は介在していないのだということも。それから自惚れにはなるが、僕のことを真摯に想ってくれているのだということも。
 ただ、納得できたからと言って嫉妬の念が収まるのかといえば無論、そうではないのだ。風紀委員とて男児。心底惚れ込んだひとのことには少々意地も汚くなってしまうのは仕方がないのだった。

 然るに僕は、やはり闘わねばならない。


「――不満だ。僕はいたく不満だぞ、白雪」
「ええ……?」
「ああも次から次に学園の内外問わずにきみを求めてやってくる者があっては僕がきみと過ごす時間が目減りするのは必至ではないかッ! 加えて先程は何だと、食事会と言ったかね? その様子だと他にも恐らく"巫女"のきみが下々の者と関わる機は有るのだろうな、……まったく! 有栖川白雪の恋人は誰だというのだ!」


 "仮想恋敵"は、全国数多に星の数ほど。
 
 だが、生憎だ。有栖川白雪の恋人は、この石丸清多夏をおいて他には存在し得ないのだから。



「……あ、あのあの巫女様ぁ! 私、その…っ貴女に小学生のころ、助けて貰ってそれでっ」
「まあ! 勿論憶えていましてよ、わざわざご挨拶にいらしてくださったのね、有難うございますわ」
「またかね! またなのかね白雪!」

 女性信者の存在を失念していた。僕を除く異性に対して堅く高潔な白雪が女性相手だと異様に甘いことは舞園くん霧切くんへの振る舞いから察しておくべきであったというのに。
 既に女子生徒某の視界から消去されているらしい僕は白雪の背後で頭を抱えた。


・信仰は儚き人間の為に

20131203

 勝ち負けの問題でないことなど重々承知。
 それでも僕は彼女を愛する者として、彼らに負けるわけにはいかないのだ。