text(5☆) | ナノ

 息の詰まる会議場を一歩抜け出せば、とたんに開ける空の広さと涼しげで清らな風。初秋のさわやかな空気を深く吸い込んで吐き出すと驚くほど視界が明るくなったように感じた。知らず知らずのうちに、やはり緊張があったのかもしれない。おかしな話だ、此処は聖地マリージョア。私の生まれ故郷にしてホームグラウンドであるこの場において、何をか気を張る必要があろうかという話であるのに。

 あの船を離れて暫く経つ。
 顔を出すたびに「ご無沙汰です」なんて挨拶が枕詞のようになってしまっている間柄。大恩ある、などとは意地でも言えない言いたくない、而してやはり「お世話になっている」という認識は否定しがたい"四皇"の一角たる大偉丈夫においても、彼をオヤジと呼び慕う――どうにも息子という呼称が似つかわしくない屈強な殿方ばかりなのがどうにも、だが――一人一人が歴戦の海賊である船員諸兄においても、そして況や、その"息子"らの筆頭格たる長兄にして船長の右腕であるところの「あの人」においても。
 五老星との定例会議に出席するためモビーを離れる、と言った時にもっとも難色を示したのが他でもないその御方であった。何年の付き合いだと思っておいでか、これまでにも斯様な機会などそれこそ数えるに飽くほどあったというのに、そういえばそのたびに不快げな顔をなさっていたと思い出す。平生ついぞ自身の"家族"絡みのことを除く万事に対して執着を示さない、大人で老成した一番隊隊長どのとは思えぬあからさまな感情の顕れに改めて瞠目させられたものであった――とはいえ、普通に置いて出てきて今に至るわけだが。

 会議が終わったとはいえ、特にあの場に戻る必要も大義名分も存在していない。どこへ行こうがあるいはこの場に留まろうが私の自由だ。
 久方ぶりに海軍方面へ足を延ばしてもいいし、今朝がたニュース・クーによって届けられた情報にしたがって"東の海"に浮かぶ海上レストランへ新メニューを堪能しに行くのもいいだろう。あるいはあくまで素性を隠したうえで話題のルーキーらのもとへインターンシップをはかるのも斬新かもしれない。
 会議場からやや歩いたところで護衛の職員らを一礼して帰す。停泊させている自船へ戻る道すがら、これからとるべき針路をまったり考えようかと思案していた矢先であった。


「――……れ、風向きが変わりました、かね?」


 正しくは、清冽にさやかに流れていた風の音がにわかに乱れたのが分かった、という。
 大きな会議や催しがあるでもないこの時期であればそう人気のないここら一帯で何か起ころうとでもいうのだろうか、飛行能力を持つタイプの能力者が時折調子に乗って、あるいは事故でこの"聖地"まで乗り込んでくることは何気にそこまで稀でもなかった。物理的にはそう難しくもないのである。――今回の気配には殺気の類を感じないので、おそらくは後者であろうか。
 警邏の者なり天竜人なりに見つかって騒ぎになっては可哀想だし、こちらで匿って自船で丁重に安全な島まで送り届けてやらなくては、と思いそこでようやく上空を見上げた私は、どうやらそれをお待ちかねだったらしくずっと私のもとへ影を落としながら直上高くを旋回していた――この余裕ぶりで事故説は完全に切って捨てられようものだ――「それ」を視界に留め入れてのち、一旦視線を遠くの港のほうへ逃がす。きらきらと輝く青い海。哀しいかな、現在蒼穹の空に閃いている温度の無い炎の揺らめきによく似ていた。数秒目を瞑ってもう一度だけちらりと上方を窺ったのち、ポシェットから電伝虫を取りだした。

「あーもしもし警備部さんです? お疲れさまですあの今なんか西地区の果樹園付近に不審なおっきい青い鳥が「はァ?! アリスてめえ何考えてやがンだ!」……もういいですぅ、見間違えでした。ここの果樹園ってパイナップルも植えてたんでしたっけね」

 ものの数秒で通話を終えた電伝虫の頭を小さく撫でて再びポシェットに仕舞う間に、唐突な闖入者は世にも珍しい炎の翼を持つ鳥のフォルムを壮健な成人男性の姿に変えていた。貴重な飛行能力をいけしゃあしゃあと不法侵入に悪用なさる彼のご職業は当然ながら当世において最もアラモードなそれ、海賊である。此方の突然の通報にさも心外だと言わんばかりの仏頂面で、「相変わらず無茶苦茶してくれるよい」とくる。数百年生きた身からしても生涯5指に入る特大のブーメラン発言であった。

「まァ良い。迎えに来た」
「……なんも追い付かないです、いろいろ。なにがお迎えですか」
「おれが」
「そうじゃないです。あたし言いましたよね、暫くお暇しますよーって」

 行動は大胆なわりに相変わらず必要最低限の説明すら心許ない。この手の御方というのは、背中で引っ張るタイプだといえば聞こえはいいが裏を返せば何を考えているのだかてんで分からない。船上では理路整然としておりクールな兄貴分だと呼び声の高いこのマルコさんであるが、私に言わせればただただ沸点とツボ各種が分かりにくい何気に取扱い注意な殿方であると言わざるを得ない。なにせ、たかだか私ひとりを迎えに来るというだけのために単身で、しかも身を隠す手立てをもとらずに"聖地"までふらふら飛んでくる人なのだから。

「ああ、聞いた。ンで、その会議とやらは済んだんだろうがよい」
「今しがた終わりましたねえ」
「だから迎えに来た」
「……うーん、日が暮れるまでに全部突っ込みきれるか不安になってきましたよおこれは。取り敢えず一言だけいいですか、帰ったらオヤジさんからどちゃくそ怒られますように」
「あ? オヤジからはお前連れて帰ってくる途中にこっちのいい酒の一つも土産にして来いとだけ言付かってるが」
「ちょっと何言ってるか分からないですね」

 迎えに行ってくる、いってらっしゃい、が自然な流れなのは一般のご家庭だけで十分だ。
 確かに一戦交えようとか反旗を翻そうというのでもなければ、時の"四皇"の一角として名を馳せる白ひげ海賊団の不動のナンバーツーにして自らも名実ともに大海賊である彼にとって此処への侵入程度は造作もないのかもしれない。だからといって少々、否、だいぶん緩すぎるのではなかろうか。少なくとも、たとえば部下が斯様な愚行に及ぼうとしたならきっと鉄拳でもってでも阻止するだろうくせに。
 昔のようにお説教の一つでも二つでもくれてやろう、と大きなお馬鹿さんを振り仰いだ瞬間、腰を抱えられた。え、と思う間もなく両足を掬われ、ふわりとこの身は彼にそっくり抱えられるところのものになる。肉弾戦のプロフェッショナルの隙のない動きに呆けかけたが、ややあって思考が追いつき出し抜かれた悔しさと当惑とを込めて手当たり次第殴れるところを殴ってやるが、誇りの刺青を堂々と曝したままの――何度でも言うが此処はマリージョアである――精悍たる胸板に当たってぺちぺち鳴るだけに終わった。

「うわー、マルコさんめっちゃ楽しそうですね。正直わりと引きます」
「近年じゃ珍しいことに多少上がってるとこなんだ、ちっと位大目に見ろい」
「誘拐ですう、しかもよりによって"聖地"から、その創造主であるアリスちゃんを……どんだけの大罪ですかねえこれ」
「確かになァ……んじゃ、今更もう一つ二つくらい罪状が増えたところでアレだな、あー…誤差ってやつだ」
「悪い顔してる! でんでんむし、でんでんむしは、」

 ない。というか先刻それを仕舞ったはずのポシェットがない。

「此れか?」
「それです! いあ返してください! なんかポシェット提げてるマルコさん絵的にわりとキツいです! ですぅ!」
「気にすんな――おら、しっかり掴まってろ」
「っえ、……あ?! 飛ぶ感じですか?!」

 そもそも己以外に誰をもいるはずのない場所に、罷り間違ってもいるはずのない人間がいる。その事実だけで戸惑うのだというのに、事もあろうに此方の有無を問わずに連れ去られようとしていた。
 あまりに横暴で粗野なやり口。マルコさんらしくないじゃないですか――と抗議の声を挙げようとして、はたと気づく。平生の(と、あたしの見解では定義している)、やんちゃな"弟"たちを嘆息しながらも広い視野で見守り的確な叱咤を下し、常に冷静な彼の姿は、それがモビーディック号という内輪の世界にいるからこそのものなのではなかろうか、と。そもそも彼の本分は海賊だ。よそで礼儀正しく紳士的であるほうがよほど無理があるというものなのだ。とんと忘れかけていた。全然らしくなくなかった。らしかった。思えばルーキー時代のマルコさんの血気盛んさなど、未だに古株隊長勢の中では飲み会の定番ネタではないか。諦めが表出してゆるゆると首を振りつつも遂に彼の肩に両腕を回した。ごく近くで満足げな笑みの吐息を感じる。

「あ、――待ってくださいやっぱ困ります、あたし船で来てるのにっ」
「知らん」
「次あたしどうやって此処戻ってきたらいいんですかー」
「おれとしちゃ好都合だ、こんな辛気臭ェとこ捨ててモビーに居りゃいいよい」
「相変わらず無茶苦茶ゆってくださいますね?!」
「あー悪いなもう聞こえねェ、生憎と今のおれは鳥だもんで」
「その言葉斬らせてもらいますぅ! とりさんにもちゃんとお耳あるんですよ、そのモデル見えにくいだけですからね?! 大方能力に目覚めたばっかだったころのちっちゃいマルコさんガチで鳥に耳ないって思ってたんじゃないですkひえええぇええええ!!!」

 当初の目的であったはずの港など余裕と貫禄のスルーで以てあまりにあっさりとマリージョアを抜け出したのちは、"赤い土の大陸"を真っ直ぐ降りていく。飛行能力者からしてみれば「降りていく」の感覚だろうが、絶賛誘拐中のこちらからしてみればほぼ「落ちていく」にも等しい絶望的な底の無さ。気が気でないこちらを尻目に先刻からこわいほどに上機嫌な不埒者の不死鳥某氏は「モビーに帰ったら昼寝に付き合え」などと妄言を呈してくる。手が離せるなら殴ってやりたいところだった。
 眼下に広がる雄大な海原。おそらくあのあたりが着地点なのだろうな、という視線の直下にぽつんと白い点が認められた。段々と大きく、そのこっくりとしたフォルムの全貌がつぶさになってゆく。以心伝心とでも言わんばかりに誂えられた座標にあるその船に、嘆息はどうしても脱力混じりになってしまう。どうやらこの度々なかなかどうして破天荒な隊長どのは、物分かりだけでなくノリも良いらしいクルー諸君により制止を受けるどころか多分な声援と助力を得て快く送り出されてきたのであろうことがそれでありありと知れた。

「なんなんですか、何だってあたしなんか迎えにいらしたんですか」

 そういえば聞き忘れていた、よくよく考えれば真っ先に尋ねるべき事柄を今更になって尋ねてみる。ここまでするのだ、よほど緊急性のある用事なのではなかろうかと。
 而して、その着地点――モビーディック号の甲板に軽やかに両足を着けてのち羽衣を解いた誘拐犯どのは、人の腕で以てでも私への拘束を今暫し緩めることなく、さも当然と言わんばかりのポーカーフェイスを少しだけ笑みの形に緩めてシンプルに言ってのけたのだった。


「お前がおれの傍に居ねェのが悪いんだろうが」


・Can't Stop!! -LOVING-

//20161210


 恋は盲目、ましてや此方は鳥目なのだ。