ブランニュー・ステディ
本日の「依頼」も須く平易。 脳裏で最大効率を発揮できるスケジューリングをしたのち無駄なく五体を活用すればいつだってみんなのために動くことができる。そう、みんなのために。 午前中に片付けられる仕事をすべて片付け、星君の帽子を繕うために同じ色の糸を倉庫から調達しながら食堂へと帰還した。自分の研究教室に次ぐホームグラウンド。朝食から今までの時間に此処を利用した人たちがいたなら、みんなが昼食をとりにやって来るまでにもう一度清掃をしておいたほうが良いだろうと考えたのだ。すべてはみんなが心地よく過ごすことができるように。 扉を押し開いた先には、一人の生徒の姿があった。たおやかで少女らしい、それでいて凛とした芯を感じさせる立ち姿。個性の強い才囚学園の面々の中にあって、平生は目立つ存在ではないにもかかわらず自然と私の目を強く惹き付ける、彼女の後ろ姿だった。何をしているでもなし、緩慢とした足取りで厨房のほうへ歩を進める有様さえ無造作に美しいバック・シャン。僅かの私情も覗かぬよう努めて普段通り、「みんなのために」何かしようと声を掛けた。 「――苗字さん、早いランチかしら」 「お、……東条嬢ご機嫌よう」 ――嬢、だなんてメイドに対して過ぎた敬称。 振り向いた面映えは女性らしく繊細で儚げで、たたえられた微笑みは精巧な西洋人形のように整ったそれ。而して彼女――苗字名前さんのまとう雰囲気はいつだって、その玲瓏とすら見えるほどの容姿にそぐわぬほど明朗で、誰に対しても一つの別もなくフランクな口調で歌うように話すのが常であった。それは私に対してですら例外ではなく、なぜか周りから一線を引かれがちな――当然かもしれないわね、私はみんなに仕える身なのだから――私にとって、彼女のお喋りはいつだって新鮮で、叶うなら一刻でも長く聴いていたいような……なんて、過ぎた私情を否定できないほどのものであった。 清楚な制服の裾を品の損なわれない程度に翻しながら――淑女であるなら常に見習うべき、優雅な身のこなしだ――私に先んじて厨房に踏み入る苗字さんは、いつものように何の気なしといったふうに返答をくれる。 「んー……そだね、なんかこのタイミングで手が空いちゃったもんで、それなら軽くなんか食べちゃおっかなーなどと」 「だったら私が貴女の好きなものを作るわ。苗字さんは座っていて頂戴」 「いやいや、お気遣いなく」 メイドとしては至極当然の打診に対して――嗚呼、やはりいつもの返答。迷いなく呈された否の声に、私個人を拒絶していたり疎んじていたりというニュアンスは読み取れない。単純に彼女は、私の手を必要としていないのだ。 学園のみんなは、此方から求めずとも常に私に何をか命じてくれる。食事にせよ清掃にせよ、此方から働きかければ必ず役に立てる。ただ、私が「必要な人は手を挙げて」と聞いた時に限って、この苗字さんは一度も私を呼んでくれることが無かった。未だ百田君たちに慣れるまでの春川さんですら、当初から夕食を届けさせてくれたのに。人当たりがよく、誰とでも楽しく時間を過ごせる苗字さんが、何故か私を頼りにしてくれることだけはない。私に命じてくれることだけはないのだ。 「……どうして? 何でも作るわよ」 「ううん、ほんとお手を煩わせるには及ばんから。こう見えて名前さんそこそこ料理はするんだって」 「私はみんなのメイドなの。手を煩わせるだなんて考えなくていい、みんなのために仕事をすることが私の生きがいで幸せなのよ」 「はあ東条嬢どんだけ尊いんですかねえ……なんて、ううん、ほんと大したもの食べたいわけじゃないし、自分でやるよお」 優しい微笑み。メイドに向けてくれるのには上等過ぎるほど、言葉のうえ以上に私を評価してくれているのであろうそれ。而して、どうしたって、苗字さんが私に彼女の世話を命じてくれることはなかった。 何もこの応酬は此度が初めてだというわけではない。既にこれまでに幾度も、苗字さんに指示を求めようとして遠慮され続けている。だから経験則で分かる。きっと次に来る言葉はこうだ、 「東条嬢のことはだいすきよ、でもね――優秀なメイド嬢を私用で占用するわけにはいかんってこと。あたしなんかより、今この瞬間にでも、あなたの助けを求めてるひとは他にいると思うからさ、そっち行ったげて」 ――……ほら、一言一句予想通りだ。 先までの表情に聊か苦みの走った、これもまた見慣れた苗字さんの笑顔。 私は仮にも超高校級の"メイド"、主人の真意を汲み取って先んじて仕えることなど基本中の基本である。而して今の彼女の表情にも、言葉にも、どこにも嘘は見当たらない。すべて本心なのだ。――彼女は本心から、私の手を必要としていないのだ。 メイドとして出過ぎた真似はご法度。時には仕える主人が他者の手を必要とせず自身の手だけで行いたい仕事もあろう――そこまで克己心に溢れた主人に行き合うことは稀だが――ことは重々理解している。実際、控えていよと命じられることだって当然あるのだ。そうであっても、何故か。 「……何でも、いつでもいいわ。私に命じてくれる仕事があったらどんなことでも言って頂戴ね」 それだけ言い残してその場を後にした。 何故か、……何故か。 他の誰でもない、苗字さんにとって私が不要であるのだと判断することに、平生ついぞ感じ得ない部分の切実な痛みを覚えるのだ。 「うぅ……っ、く、硬い……何だよこれ」 「――あら、何かお困りかしら」 心が曇れども、仕事は山積している。手につかない、などということは私に限って有り得ない。私情と依頼とは別問題だ。私に仕事を命じてくれたみんなのために、順序立てて作業を進めていく。真宮寺君と天海君に昼食の配膳、夢野さんのマジック(……失礼、「魔法」だったわね)を観賞して建設的な感想を述べ、キーボ君のメンテナンスに励んでいる入間さんに清潔な水と差し入れの菓子を届ける。 その道すがら、何やら苦悶の表情で手の中のものと闘っているようすの最原君に行き合った。どうやら硝子瓶であるようだった。開かないのだろう、簡単な依頼になりそうだった。 「開かないのね?」 「赤松さんのなんだ。彼女の研究教室で見つかって――ほら、中に羊皮紙みたいなものが入っているよね、……古い楽譜なんじゃないかって気になって仕方ないみたいでさ」 「それで、彼女では開けきれなくて貴方のもとに持ってきたということね」 「うん。……結構古い瓶みたいで、なかなか骨が折れそうだ」 「問題ないわ、今すぐ私に命じて頂戴。無論、瓶を割ったりすること無く綺麗に開けて中の羊皮紙を取り出してみせるから」 依頼としては簡単であっても、請けるのであれば誠心誠意こなすのがメイドの務め。そう思って片手を差し出したのだが、最原君は少し考えた後に「いや、大丈夫だよ」と首を横に振った。殿方に対して出過ぎたことを言ってしまっただろうかと内心危惧したが、そういうわけでもないようだった。 「どうして? 直ぐよ」 「うん、そうだろうと思うよ。そうなんだけど……うーん、情けないというか、恥ずかしいというか……ここだけの話にしておいてほしいんだけどさ、」 誰にも言わないで、と最原君はそこだけは明確に私へ命じた後に、とある理由を明かしてくれた。 「――……苗字さん、此れを」 「ぉあ、東条嬢……? 如何なさったかな」 引き返してきた食堂の、奥扉から開けるテラス席。幸いなことにまだ苗字さんは食事を済ませて其所に居てくれたらしかった。手早く厨房で目当ての準備をしたのち、ゆっくりと外に続く扉を押し開けば、そこで漸く彼女は私を振り向く。 平生の人好きのする柔和な微笑みの中に僅かに霞む驚きと、僅かな戸惑い。而して其所に「さっき放っておけと言っただろう」と咎めたり疎んじたりするようなニュアンスはなく、一先ず私は安堵した。テーブルの上に広げられた、図書室から持ち出してきたらしい書籍の束から離れた位置にグラスを置く。 「召し上がって頂戴」 「んむー、あたし、いいって言ったのに……結局気ぃ使わせちゃったね、ごめん」 苗字名前さんは。 私が彼女の世話をしようとすると常に退いてしまう。 私が彼女に助力しようとすると常に柔らかく固辞を表してくる。 みんなのために働くのが当然なのだと常のように主張する私を、嬉しい言葉で評価してくれることはあっても、その私を彼女自身のために役立たせてくれることだけはない。 これが仕事であったなら、主人の命に背いて出過ぎた行動は控えるべきである。でも、そうであっても、私は彼女に対してだけは――…… 『単なる僕の矜持の問題……っていうかさ。うん、全然なんでもない些細なことだって、分かってるんだけど。これは、僕が受けたことだから――赤松さんには、僕がやってあげたいんだよね』 「……貴女に命じられたからしたわけではないわ、苗字さん」 「う、ん?」 「ただ、私が貴女に何かしたかっただけ……それだけなの。ごめんなさいね、メイドが私情で動くだなんて見苦しいかもしれないけれど、――それでも」 私は私のために、貴女――苗字さんのために動きたかったのだ。 きっとそれはメイドとしての領域からは外れた情動。私はあくまで私として、苗字さんの世界に居を構えたくなったのだ。 なんとも出過ぎた、許されざるべき行動原理。だけれどなぜか、明確な答えを得た今、私はこれ以上なく満たされてもいた。 最原君の言葉があったから、すとんと腑に落ちたのだ。 彼が赤松さんからのお願いを自分でなんとかしようとしていたのは、彼女のためでもあってきっと彼のためでもあった。単に彼女の所望に応えられればいいというわけではなく、彼は、彼自身が赤松さんの力になりたかったのだ。――そして、私も、苗字さんに対してきっと同じように。そして、もしかすると…おそらくは、きっと、同じ気持ちで。 「貴女にとって価値がある存在になりたかったの、ただの私の我が儘よ」 汗をかいたグラスの中でからりと氷が音を立てたのを号砲のように聴いて、それに延べようとしてかためらってか中途半端に置かれた苗字さんの小さな手に、両手を重ねた。 不躾かしら、そうね、メイドとしては行き過ぎているかもしれない。それでは、いち女子高生たる東条斬美が、友人――当座のところは――でありたい苗字名前さんにはたらく接触であるとすれば、それでもやはり不躾かしら。 ところで、東条嬢って発音が難しいと思うのだけれど。建設的なように見えてちっともそうでない打診を今更のようにして告げてみる。命じてくれないのならせめて銘じてほしい。メイドとしてでない立ち位置を私に与えてくれるための、他の誰より貴女に近しいもっと素敵な呼び方を、新しい在り方を、どうか貴女の声で。 ・ブランニュー・ステディ //20170201 「あっ…赤松さん、これ」 「開いたの?! うわー最原くん本当にありがとう! すごいすごい、やっぱり楽譜だったんだ……! ふふ、キミが私に届けてくれたんだから大切に扱わなくちゃね」 「……た、大したことじゃ、ない…よ。……うん」 「そうそう、私さっき東条さんに会ったんだけど、なんか美味しそうなアイスティー淹れてたの! いいなー、フルーツティーだと思うんだけど……私も飲みたいなー」 「赤松さん、これから食堂に行くの?」 「ううん。だって苗字さんいるし……残念だけどまた今度おねだりするっきゃないね!」 「あ、苗字さんがいるなら……そうだね。またにしておいたほうがよさそうだ」 「一緒にお願いしてね、最原くん。それにしても――うんうん、流石の私も今このタイミングで食堂行けるほどKYじゃないって……」 「東条さん、苗字さんのこと大好きだもんね」 「さっすが探偵! やっぱり気付いてた? 私も絶対そうだと思ってるんだよね〜」 |