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きみを読む


 この歳にもなって、今更色恋沙汰でもなかろうとばかり思っていた。

 言うことと留めることのどちらがより辛いかと悩んだことも若い時分にはあったものだが、最近ではその逡巡すら青臭いものだと知るようになった。どちらも辛いのだ、自分が望むような先が得られないのであるなら。
 なるほど10年は長い。ほしいと思ったものほど容易くは得られず、代わりに傍目からは見栄えのよい諦観と静けさを身に付けた。それで益々この子供じみた欲望が自分から遠ざけられるべきものとされるのなら、いっそガキと言われた方がましであるのに。
 ことに近頃は、ただひとりの女を手にしたいと考えてその頻りで、自分でも莫迦らしいとは思いつつも、はじめはほんの燻り程度の感情だったものがだらだらと歳月を経てどうにも収拾のつかなくなってしまったこの現状を思うと、まっこと自業自得であるがゆえに下手に動けずにいる。あん時「若気の至り」だとか適当に理由付けてでも押し倒しておきゃあラクだったのにな、畜生。

「アリス」

 相も変わらず就寝時以外は施錠はおろか扉を閉めてすらいない彼女の私室は、いかなる来訪者をも歓待するようなやわらかい芳香に満ちていた。暇を見ては彼此とした用向きもなく足を運ぶ呆れた中年男になんら訝しみを示すことなく、目下10年越しの想い人は此方を振り返るなり口許を緩める。もともと微笑しているように口角の上がっている彼女がそのようにすると、あたかも自分に特別な好意を抱いているのかと勘違いしたくなるような甘やかな表情が生まれる。やめてくれ、溺れちまったらどうしてくれる。否、もしくはもう手遅れか?

「お叱りでしょうか?」
「毎度言ってるが、その迎え方どうにかしてくれ。おれが一度でも説教に来たことがあったかよい」
「あは、そうは言いましても…… やはり、隊長さんの御来訪とあらば此方としてはつい身構えてしまうものでして」

 警戒など爪の先程も覗かしていない癖にしゃあしゃあとそう言ってのける姿に多少のもどかしさは禁じ得ない。事実このやり取りもずいぶんと形骸化されたもので、此方としても、やめてくれとは言ったとて「じゃあ何をしにいらしたんですか」などと問われた日には答えに窮するのは火を見るより明らかだった。(生憎と、ただ会いたいからだと素直に吐露するには歳を取りすぎている。)

「今日は、何を?」
「聞いて驚け恋愛小説です。たまには軽い読み物も取り入れませんと、あたしはすぐ凝り固まってしまいますから」
「……へェ、」

 何の気なしに寄越された返答に相槌を打つのが遅れたのは、先刻までグダグダと脳内で繰り広げていた(嘘だ、現在進行形だ)長考が災いしたからだった。この時間帯にアリスが読書をしていること自体は少しも珍しいことではない。
 オヤジの縁故であり20年前からこの船へ「教育係」として来航するようになった彼女は、荒くれ者ばかりの海賊船においても変わらず知性的で、読書を趣味のひとつとしていた。普段は小難しい哲学書だの古文書だのを易々と繙いているくせに、よりによって今日このタイミングでそんなもん読まんでも、というのは幾らなんでも手前勝手な苦情だろうか。それ以前に、俺が アリスに関して不毛な葛藤を繰り広げていることだって別に昨日今日始まった訳でもないし。――つまり完全な八つ当たりか。やってられねえ。
 椅子に座ったまま半身こちらを振り返っているのへ歩み寄り、身を屈めて手元を覗く。海賊であるのに必要である以上には特別に学のある訳でもない俺が、 アリスのたおやかな白い指で押さえられている頁へと目を落としたのは、無論それへの純粋な知的欲求などという理由ゆえではない。口実はどうでもよかった。会話するとき相手の目を見る習慣のあるアリスは、この距離でも同じようにして軽くこちらを見上げてきた。今更この程度でどうこうなれるような間柄でないことを承知での上目遣いであるなら、最早凶悪どころか犯罪ではないかとさえ感じる。

「若い女の子にはありがちなことですけど、本……ことに物語ですね、それを読んで、お話の中の人物に恋してしまう、なんて時期があるんですって」
「本当はいない奴にかい?」
「いないからこそ、というのもあるんでしょうね。少なくともあたしは実体があるものを想いたいところですけど――でも、彼女たちの気持ちもわかりますよ。最近は特にね」

 アリスは時折突拍子のない話題を持ち出してくることがある。穏やかな口調とやわらかい言葉遣いで幾分印象がいいとはいえ、あまりにマイペースなその様子には思わず毒気を抜かれてしまう。恋人との語らいの折にも彼女はこうなのだろうか。それは大変だ、きっとアリスの相手を難なく務めることができるのは俺くらいのものだろう。(という希望的観測くらいは、せめて心中でくらい、持っていて罰は当たらないと思う。) 

「するってえとアリスも、」
「あ、いあいあ違いますよ。ただ、――ううん、そうですね、どう言えば伝わるかな」

 他にいい奴でもいるのか、という疑惑をコンマ単位で振り切ってくれた事実に心から安堵する。思案するために目を逸らした、ただそれだけであろうことにも、関心を失われてしまったのではないかと胸が騒ぐ。
 余程ヤキが回っていると見えるが、それすら今更であるがゆえもう開き直ってしまっている。こっち向けアリス。

「現実にはありえない訳です、ひとの心を読むというのは」
「まあな」
「小説の何が素晴らしいって、あたしは、作中の彼や彼女が考えていることがすべて活字になってあらわれているところだと思うんです。――ひとの想いって、科白の中だけに詰められるものではない筈なので」

 ぱたん。唐突に本を閉じたアリスは再び此方に視線を戻した。暗い苺色の瞳には、いつも通り無表情の俺。当然だ、この程度で表出するような感情ならとっくに アリスは俺のものだ。相変わらず笑みを浮かべたままの唇から、今更何がもたらされようと穏やかに甘受する用意はある。そうして今日も一方通行の恋路を踏み進めるだけだ。

「長々としたモノローグも、一人問答だけが熟達して回りくどくなってしまった感情も、あたしはいいと思いますよ。 ……ただ、ね。マルコさん、」

 控え目な睫毛に縁取られた両眼に、俺の情けなく半開きになった口元は映っていなかった。代わりに、彼女が風呂上がりに吹き付けている淡い淡い香水の甘さを、驚くほど近くで感じる。
 アリスが立ち上がっていないということは俺が引き寄せられているということになる訳だが、両上腕に掛かった彼女の指は、先刻まで本を慈しんでいたのと同じように優しげでそう力が加わっているようには見えなかった。つまり此方が全力で腑抜けていた訳だな。冷静にそうとでも結論付けなければこの状態に耐えきれない。
 一度ちいさく息を吐いたのち、ですから、と珍しく僅かに焦れたように呟いてアリスは、距離の近さに言及することなくとどめを刺してきた。読まれている。


「――伝えてくださらないと、わかんないんですよ?」


 頷くしか出来なかったことを後悔したのは、それからどうやって帰ってきたのかも定かでない自分の部屋だった。


・きみを読む


//20100814(20160812 Rewrite!)


 間違いなく「読まれて」いたのだ。


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