text(op) | ナノ




深夜バスのはなし

 深夜バスは料金が2倍になるから少し面倒だ、ということを知ったのは彼を好きになる前、ちょっといいなと思った別の男の子と仲良くするようになってからだった。

「――おい、どうした呆けて。眠いのかよい」
「いえ。少しばかり懐古に浸っていただけですよ」
「おれ以外の奴のことを考えていた訳だな。素直に認めろい」

 歳の離れたこのひとは、しかしまるでそのような態度をとることなく、常の無表情を少しだけ歪めて眉を上下させた。そのあと顎をしゃくって此方に何事をか促してくる。だから、そういうのじゃないんですってば。
 
 アルコールを入れることを見越して、今日は彼は車で出社していない。お仕事が終わるのを待って、外で一緒に遅い夕食を摂り、帰ってからでも出来るだろうに他愛ない雑談を交わしているうちに終電を逃してしまっていた。今はこうして、ひさびさの深夜バスの、いちばん後ろにふたり並んで掛けている。
 飲み会の帰りだろうか、酔いの回った背広姿のおじさんがしあわせそうに寝息を立て、恐らくはあたしなんかよりずっと夜遊びに慣れているのだろう若い女の子たちが前方の座席で声を潜めておしゃべりをしている、どこかひっそりとしっとりとした空気。

「語弊があります。思い出していたのは彼個人のことではありませんので」
「彼、って言ったな。わざわざおれの前で話を出すってことは余程楽しい話なのかい。 ……それとも、」

 ――嫉妬を煽ろうとか?

 急に耳元に低い声が触ったから驚いてしまって、大声は出せないと咄嗟に声帯を縮めたら、ひゅっと細い息だけが漏れた。そんなんじゃないです、と再度繰り返して僅かに身体を彼とは反対側に傾けた。

「……かえりみちのはなしですよ」
「ん?」

 一通りあたしを揶揄って満足したらしい彼は、左腕の時計に目を落としていた。えっ何なんですかその薄い反応は気にしてたのは貴方のほうじゃないですかこの野郎。

「前に仲良くしていた男の子がいたんですが――やだ怖い顔しないで最後まで聞いてくださいよ、何もなかったんですよ――それで、その子と遊ぶ折にはいつも帰宅が深夜バスだったなあと、ただそれだけの話だったんです」
「……」
「ええっ相槌くらいくださいよ! ……ええ、それで、あたしはバスでしたが彼は原付でしたので、いつもバスが来るまで一緒にバス停で待っててくださったんですよね、なんていうささやかな話なんです。これ以上でも以下でもなく」

 自分から釈明を求めてきた割には淡泊な様子であたしのひそひそに耳を傾け、ふぅん、と漸く納得したのだかそうでないのだか低く唸ったのち、足を組み直して再度ねめつけてきた彼の表情は明らかに拗ねた時のそれだった。早いところフォローを加えないと後になって少々面倒な事態になることは明白で、さらに言葉を続けようとしたとき、

「……じゃあこれから外出するときは一緒に帰りのバスを待ってやる」
「へ?」

 いや、あなた車持ってるじゃないですか。

「して、先回りしてお前を迎える。 ほら、おれのほうが気が利いてるだろい」
「あのう、今日マルコさんそんなに呑んでらっしゃらないですよね?」

 先刻のエピソードからどのように思案を巡らせてそんな突飛な発言に結びついたというのか、凡人たるあたしにはまったく理解できず、しかし彼があまりに真面目に言うものだから笑うのも躊躇われ、結局は心配をするに留まってしまう。あたしにも飲める程度の甘口のスパークリングワイン程度で彼が酔う筈もないことは、他でもないあたし自身がいちばんよくわかっていた。

「ついぞ気づかねェで悪かった。お前はそういう男が好みだったンだな」
「……あ、そういうことでしたか。合点がいきました。 違いますよ、最後まで聞いてください」

 そんなところで張り合ってくれなくたって、あたしは端から比べるようもなくあなたのことが好きなのに。

「遅くまで一緒に居てくれたとて、別れなくてはいけないことに寂しさを禁じ得ませんでした。あのときあたしが二人掛けのシートで感じていた感情たるや筆舌に尽くし難い、ってなもんです。けれど今は違う」
「どうして」
「あら、それ聞いちゃいますか?」

 わかってるくせに。
 軽く竦めてみせたあたしの肩に彼が腕を回してこようとしたのと、アナウンスが到着を告げるのが同時だった。振り返って、それではさようなら、などと言うはずもない。大人二人、という彼の声を後ろに聞いてタラップを踏む。見上げる高層の一室に、明かりは点っていない。これから点すのだ。
 
「答え合わせは帰ってからゆっくり、聞かせて貰うとするかねい」
「あは、その必要はありませんよ」

 それが答えだから。


・深夜バスのはなし

//20100814(20170111 Rewrite!)

 ふたりで帰る家だから、見送る口惜しさも見送られる寂しさも無縁なんです。


[ 56/56 ]

[back]