text(op) | ナノ




何も知らないままでいて


「ぉおっ――と、と、とぉ!」

 わたしの一日は、バナナワニの餌やりから始まる。
 生肉――これはもちろん人肉とかじゃあない――でいっぱいのバケツを持って水槽と倉庫とを行ったり来たり。最初のうちは自分が食べられちゃうんじゃないかとヒヤヒヤしていたけれど、慣れてくると大口を開けてごはんを待っている姿がかわいく思えてくるようになった。これで凶暴じゃなければもっとかわいいんだけどな。
 お世話をするようになって数カ月になるわたしには、普通の人ならまじまじとも見ず逃げてしまうのかもしれないこの子たちの見分けもきちんとできる。顔色や食事の様子を見て健康チェックに余念がなかったわたしは、背後を雇い主が通り過ぎるのにも気が付いていなかった。不覚だ!

「オーナー! お早うございます。ご出勤ですか?」
「ああ」

 わたしの雇い主はこの砂の国の英雄だ。泣く子も黙る王下七武海の一人で、この国に攻めてくる海賊をひと捻りにしてしまえるほど強い。それなのに、それを国民に誇ったり感謝を求めたりするようなことはまったくなく、寧ろそういうものには興味がないように見える人だった。もっと一杯喋ったり、にこにこすればいいのに。でも、そうしないのがこのひとのかっこいい所でもあるから、それはそれでいいのかも知れない。
 そんなわけで、わたしはこのひと――サー・クロコダイルのもとで働けることを、とても嬉しく思っている。これは純粋に尊敬の念であって、別に個人的にお近づきになりたいなんてそんな身の程知らずなことは考えていない。ちょっとくらいしか。

「見てください、"3号"、だいぶん食欲が戻ったんですよ!」
「何のことだ」
「ちょっと前に風邪引いちゃってたコです。ずっと心配してたんですけど、今朝からすっごく元気で、」
「……下らねぇ」

 一蹴された(もちろん物理的には蹴られちゃいないけど)。ご自分のペットのことだというのに、オーナーはまるで興味のないような顔をして地下にある執務室へ行ってしまった。いや、きっとあのひとは大人だから、わたしみたいに大袈裟に喜んだりしないだけだろう。そうでなければ、わざわざ世話係なんて雇ったりしないだろうから。
 オーナーの後ろに控えていらっしゃった支配人のミス・オールサンデーと目が合う。優雅で落ち着きあるかたで、「ご苦労さま」と微笑んでくださる姿には憧れざるを得ない。今だってオーナーと付かず離れず寄り添っている感じがあんなにも似合っている。わたしも彼女みたく大人だったら……なんて、しょっちゅう考えては打ち消しているようなことをまた思い返した。

 数か月前までわたしは、表のほう――つまり、カジノ・レインディナーズの受付として働いていた。アラバスタでも一際華やかなこの街の、栄華を極めたこのカジノは就職試験も当然かなり狭き門で、受かったときには奇跡だと思った。お仕事は楽しくて同僚とも仲良くやれて、何より入社式のときにはじめてリアルに対面した"英雄"のもとで働いているという誇りがますます勤務に張りを出させた。ミス・オールサンデーから異動を知らされたときにはとても驚いたし、しかも業務内容が受付から飼育係になったということで、わたしはてっきり気付かない間に受付で失敗でもしてしまっていたかと落ち込んだ。だけど、実際働くことになった場所はなんとオーナーであるクロコダイルさんの私室(そんなに四六時中いるってわけでもないと思うけど!)ということで、現金にもわたしの機嫌は元通り・どころか今に至るまで少々はしゃぎ気味、という有様である。
 朝・昼・晩とバナナワニたちに餌をやり、健康チェックをして何かあれば国の獣医さんに連絡をする。獣医さんを呼ぶのでなく、処置法を聞いてわたし自身が食餌療法で治してやるのだ(あんまりたくさんのひとに企業秘密を知られたらマズいんだろうね)。身体は丈夫なコたちだから、栄養管理さえきちんとすれば自分たちでがんばって治ってくれる。正直言って、わたしの仕事はそれがほとんどすべてを占めてしまう。だから空いた時間にはもとの部署で書類仕事なんかしているわけだけれど、このバナナワニ係を仰せつかってからというもの、頂けるお給金が申し訳ないほどの額になっていて戸惑ってしまう。見たところこのお仕事をしているのはわたしだけみたいなのだけれど、どうしてわたしが任命されたのかはまだ分かっていない。

「わ、ごめんごめん。途中だったね! ――ほい、っと」

 ぐるる、というバナナワニの唸り声ではっと現実に戻ってこられた。倉庫にはまだ朝ごはんが残っている。まだお仕事は終わってないんだからしっかりしなきゃあ。空のバケツを抱えてわたしは倉庫へ走った。
 バナナワニの機嫌悪げなしかめっ面が、なんだかオーナーに似ている気がして、失礼ながらちょっと笑ってしまった。

 * * * 


「そろそろ"ユートピア計画"も大詰めね」

 レインディナーズの地下には、犯罪結社バロック・ワークスの本拠地が存在している。カジノ側で雇われている社員らはこの部屋をオーナーの執務室であると信じ切っており、一切訪ねてくることはない。BW構成員同士がお互いの顔すら知らない以上、この所在を知るのは社長である"Mr.0"サー・クロコダイルと、そのパートナーであるニコ・ロビンのみであった。
 未だ使用の目を見ていない長テーブルに片手を付いて、ロビンが唐突にそう話を振る。"英雄"は一瞥をくれただけで、「それがどうした」と気の無い返事を投げてのち、ビリオンズからの報告書に意識を遣った。

「強大な軍事力を手に入れて目的を遂げ、新たな砂の国の王となる貴方は、国民にどのような恩恵を与えるつもりかしら」
「――善人気取りか? ニコ・ロビン」
「嫌ね、違うわ。少し、エージェント外の扱いに興味を持っただけ」

 ロビンの視線は上に。丁度自分たちが通り過ぎて来たばかりの、クロコダイルの私室。厳密には、そこで彼のペットの世話をしているであろうひとりの娘を想起しながら、さらに続ける。

「ねえ、サー。"ユートピア"に、あの子は連れて行くおつもりなの?」

 * * * 


 そいつを見つけたのは、数ヶ月前、カジノを視察に行った折のこと。

 自分たちが特権階級だと勘違いしたい連中は、従業員にも格式を要求し失態を許さない。無論、そこから金を落として頂かなくては困る此方としては、少々でも問題のあるような社員を雇う訳にはいかない。幾ら目的が此処にある訳でないといえ、表の顔を保つというのもなかなか大義なもので、その日の視察は言うなれば社員の抜き打ちチェックが名目だった。

 その女――名前、という名札を右胸に付けた受付係は、客足が遠いせいかカウンターに座って虚ろに中空を眺めていた。何処ぞへ意識を遣っているのかとも思ったがそうではないらしい。薄く唇を開き、瞬きは殆どしない。眉根を僅かに寄せて、何か聴いているのかも知れない。いずれにせよ受付係として感心できる態度ではなかった。
 警告のち処分。勿論俺自身の感情による裁定でなく、単に礼儀のよい従業員でないと客が満足しないからという理由でしかないが。経営者が近くまで歩み寄ろうと一向に気付きもしない辺り、今回咎めなくともいずれ何らかの理由で解雇せざるを得なかっただろうと納得できる。

『おい、何をしてやがる』
『!! お、オーナー……』
『何をしている、と聞いてんだ』

 顔面蒼白になるかと思ったが名前はそうでなく、寧ろ少々訝しげな表情で、予想だにしなかった事を告げて来た。

『――あの、オーナーのペットの、バナナワニさん』
『あ?』
『咳、してますよね。わたしの座ってるココ、たぶんオーナーのお部屋のすぐ上なんです、だから、ずっと下から咳が聞こえてるの、わかったんです』

 * * * 


「あのときの貴方の顔、呆気に取られていたようでとても面白かった」
「……今日は無駄なお喋りが多いんじゃねェか」

 取った帽子を軽く口元にあて、「あら、失礼」とだけ笑んでみせたのち、ロビンは電伝虫を手に取る。ナンバーエージェントの召集を終え、ここで会議が開かれれば"ユートピア作戦"は最終段階を迎えることとなる。砂の国のすべては変えられ、かくして砂の国の英雄は新たな王に。滞りなく、淀みなく進んでいくのであろう筋書きに、ロビンは少々退屈を覚えていたのかも知れない。そして同時に彼女はあることを僅かに感じ取っていた。
 


「"理想郷"にもきっと使えねェ屑は現れる。その時に奴等を処分できるモンが無いってのは不便だろう」
「ふふふ」



 ずいぶんと回りくどい言い方をしてくれるものだ。素直に連れて行くと言えばいいのに、わざわざバナナワニの需要だけを示したとてロビンにはその真意は分かり切っている。来るべき新時代、己の身にすら興味はさして無いものの、変わってゆく環境の中でひとつ変わらないものがあるとしたら、それはとても面白いものだろう。
 おそらく、策略に策略を巡らせ何一つをも頼ることのない生活の中で、流石のクロコダイルも少々の疲れを覚えていたのだろう、と彼女は確信に近い予想をしている。そのような中で、名前の存在は明らかに彼にとって異質なもので、それにある種の安心感を見出したのだ。無論、名前は彼の正体はおろか自分の職場が犯罪結社の隠れ蓑であるなどということすら知る由はないけれど。何も知らない名前が、作戦の進行で一度衰退するであろう街で途方に暮れているところを、さも偶然の思いつきであるかのように拾って囲うつもりなのだろう。ちょうど、数か月前に自分に彼女を異動にするよう命じたように。

「意地悪な人だわ、気に入った子にも優しくしてあげられないんだから」

 ロビンは聞き咎められないほどの小ささで囁くように独りごちたのち、計画の引き金を引いた。


・何も知らないままでいて


//20100903(20160804 rewrite!)


 俺の事なんて何も知らないのだろうその目が、いやに汚れなく思えたから。



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